今日の他人(ひと)言(2006年1月26日)-図書館の「ありがとうございます」論争 一向に融ける気配の無い凍結した道路を見つめて思ふ。 通る人が滑らないようにと雪かきしたり・・・でも本当に感謝されているのかなぁ?なんて。 さて、 いらっしゃいませ。 いつもお越しいただき、また貴重なコメント、トラックバックを賜り誠にありがとうございます。 さて、図書館の窓口での挨拶、「いらっしゃいませ」、「ありがとうございました」は違和感があるとの論議がありました。ある方からの指摘では、お金をもらっている商店とは違うのだからおかしいとの事。そして、 「いらっしゃいませ」→「こんにちは」又は「おはようございます」など 「ありがとうございました」→「ご苦労様です」など に改めよとの持論でした。 ここで、図書館の窓口における「ありがとうございます」の意味について考えてみたいのです。この言葉は紛れも無く
この設問は、もともと野宿問題の授業前に、生徒に対して使うアンケートとして考え出した。 野宿者について生徒がどのような考え方をしているかを探ることを目的の一つにしている。 実際の狙いは、こうした「野宿者が(一般の市民から)よく言われるセリフ」を通して、近代の市民生活を成立させる3つの枠組みを浮かび上がらせることにある。この3つの枠組みが、野宿者に対する偏見・差別の多くを生み出している。 ■野宿者がよく言われるセリフ(あなたはどう考える?) 1・ 公園や路上などの、みんなで使う場所にいるのは迷惑だ。 2・ 仕事をしようともしない。働けばよい。 3・ 努力が足りなかったのではないか。がんばって仕事して貯金していればこんなことにはならなかったのではないか。 4・ 福祉とか、困った人が行くとこがあるのではないか。 5・ 家(実家など)に帰ればいいんじゃないか。 ■以上の「野宿者がよく言われるセリフ」
以前、田崎英明さんと話していて興味を持った話題に「どうしてSFに携帯電話のイメージが欠落していたのか?」というものがある。80〜90年代のSFやアニメではテレビ電話に類するイメージは盛んに出てくるが、携帯電話はまったくと言って良いほど出てこない。それはどうしてか、という問題だ。 もちろんテクノロジー的には携帯電話はトランシーバーの延長であり、それはSFにつきものである(腕時計に向かって喋るとか)。だが、街や駅で多くの人が歩きながら携帯で話をしている、という現代日本の日常生活の情景は、どんなSFにもアニメにも出てこない。つまり、今日のような携帯電話文化は、SF的には予測不可能だったということになる。なぜか? この問題に興味を持って以来、いろんな人と会う度に話題にしてきたが、そのなかから何となくヒントになることが浮かんできた。 それは、携帯電話によるコミュニケーションはそもそも人類に必要がなか
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