前回記事で大正十年(1921年)のワシントン軍縮条約や昭和三年(1928年)のパリ不戦条約が締結されて以降、わが国の外交当局や新聞記者、思想界が、経済界の意向を受けて軍部を悪しざまに罵るようになり、五・一五事件で軍部の不満が爆発したという内容の短い白柳の文章を紹介させていただいた。では具体的に、当時軍部についてどのように議論されていたのであろうか。 国民に強い覚悟がなければ、強い外交交渉は出来ない 『日本外交の血路』(GHQ焚書)に、大正十一年十月にカナダ首都であるオタワ総領事であった太田為吉に会った時の記録が残されている。太田総領事の前職は米国サンフランシスコの総領事で、その時にアメリカの排日運動を経験し、またワシントン会議では日本全権の一随員となり、日本外交の難局に立ち向かって来た人物である。彼が白柳に以下のようなことを語ったという。 私どものような立場にある者が…たまたま帰朝を命じら