ブックマーク / www.nippon.com (15)

  • わび・さび・幽玄:伝統的な日本の美意識はいかにして形成されたのか?

    「わび・さび・幽玄」は、日文化のエッセンスだと考えられている。和歌、能、茶道、俳諧などを通じて、こうした伝統的な美意識が形成されてきたと私たちは思いがちだ。しかし、これらの言葉が日の美意識を示す3点セットになっていくのは、東京五輪や大阪万博の時期になってからのことだ。日美のクリシェ(常套句、じょうとうく)はどのようにして生まれたのか。 海外の日文化研究者に「日美の質とは何か」と問われることがよくある。そんな時、日の伝統文化を貫く美意識を伝える便利な言葉がある。「わび・さび・幽玄」である。もっと別の要素があることは十分に承知しているのだが、そう答えると自分でも妙に納得してしまう。まるで魔法のような言葉だ。それでいて、「わび」と「さび」はどう違うのか、「幽玄」とは何かと問われると、途端に困ってしまうのだ。 それにしても、「わび・さび・幽玄」こそが「日的なるもの」と考えられるよう

    わび・さび・幽玄:伝統的な日本の美意識はいかにして形成されたのか?
    roseknight
    roseknight 2023/11/09
    不完全さへの意識に基づく「侘び」と内面的な豊かさを表す「寂び」は、己の在り方を見つめ直す概念ではないか。「幽玄」は異文化との接触の中で生まれた美的原理だろう。他者との交流が独特性の基なのかも知れない。
  • 葉月(8月): 八朔・富岡八幡宮例大祭・中秋の名月・放生会

    は古来、春夏秋冬の季節ごとに大衆参加型のイベントが各地で行われてきた。これらを総じて「年中行事」と呼ぶ。宗教・農耕の儀礼を起源とする催事から、5月5日端午や7月7日七夕などの節句まで、1〜12月まで毎月数多くのイベントがあり、今も日社会に息づいている。シリーズではそうした年中行事の成り立ちや意義などを、文化の成熟を示す例として紹介していく。 幕府の創立記念日・八朔 毎月1日を朔日(さくじつ)という。なかでも8月1日は、1590(天正18)年同日に徳川家康が江戸に入府したということもあり、幕府が祝日としていた。これが八朔(はっさく)だ。 豊臣秀吉が、小田原の北条氏を半年に及ぶ長期戦で屈服させたのが、天正18年7月。秀吉はすぐに配下の武将たちの領国を再編し、徳川家康にも国替えを命じた。家康が新たに与えられたのが、武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総と、下野と常陸の一部。その中から家康が拠

    葉月(8月): 八朔・富岡八幡宮例大祭・中秋の名月・放生会
    roseknight
    roseknight 2023/07/29
    八朔における白色は節供や鎌倉公方に由来するのだろうか。八幡宮の祭礼にあった「祭禮」の幟は庶民にとって縁起がいいものか?月見舟と放生会は神話に関係する行事なのかも知れない。八幡宮文化の謎は深いだろう。
  • 源義経:壇ノ浦の戦いと腰越状の真実

    出所 : 各種資料をもとに筆者作成 / 数字は概数 義経は決戦に備え、着々と水軍を増強していた。紀伊(現在の和歌山県)の熊野水軍や瀬戸内海の渡辺党、伊予(現在の愛媛県)の河野水軍などである。 熊野水軍には、源氏と平家のどちらに与(くみ)するかを紅白の闘鶏によって占い、白が勝ったので源氏に付いたという言い伝えもある。だが、実は源頼朝の挙兵(治承4年8月)と歩調を合わせるように、反平家の立場を打ち出し兵を挙げている。平家旗色悪しと見て、事前に平家から離反していたのである。 さらに『平家物語』『源平盛衰記』は、平家方だった阿波(現在の徳島県)の民部大夫成良(みんぶだゆう・しげよし)が戦いの最中に突然、源氏に寝返ったのも大きかったと記しているが、屋島の戦い以降、四国はすでに源氏の支配下にあったのだから、内部崩壊の兆しも顕在化していたろう。 平家は、一ノ谷、屋島の敗戦後、壇ノ浦に追い詰められ内部崩壊

    源義経:壇ノ浦の戦いと腰越状の真実
    roseknight
    roseknight 2022/05/07
    壇ノ浦の戦いにおける潮の流れは終始穏やかなものだったのか。平家側には戦い続ける力が残っていなかったのだろう。腰越状の方は、執権を握った北条絡みで出来たのか?義経が検非違使に留任した理由を知りたい。
  • ドストエフスキー生誕200年: 日本人の受容の歴史と今 読むべき理由

    2021年は、『罪と罰』などで知られるロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーの生誕200年にあたる。なぜ世界中でドストエフスキーは読み継がれているのか。日におけるドストエフスキー研究の第一人者、ロシア文学者の亀山郁夫氏に聞いた。 亀山 郁夫 KAMEYAMA Ikuo ロシア文学者。名古屋外国語大学学長。世田谷文学館館長。1949年、栃木県生まれ。2002年に『磔のロシア―スターリンと芸術家たち』で大佛次郎賞、2007年に翻訳『カラマーゾフの兄弟』で毎日出版文化賞特別賞、プーシキン賞を受賞。2012年に『謎解き『悪霊』』で読売文学賞受賞。ドストエフスキーの新訳では、他に『地下室の記録』『罪と罰』『悪霊』『白痴』がある。2015年に、自身初となる小説『新カラマーゾフの兄弟』を刊行。2021年には「ドストエフスキーの星」勲章受章。 世界的な盛り上がりを見せる生誕200年イベント ―2021

    ドストエフスキー生誕200年: 日本人の受容の歴史と今 読むべき理由
    roseknight
    roseknight 2021/12/23
    ネットの承認欲求、コロナ禍による被害者・加害者の一体化で人々は心の中で「罪」を認識しているのだろうか。社会の二極化が進む中でドストエフスキーの存在は現代人の心の支えか?彼は今の老若男女をどう見るのか。
  • 日独修好160周年:日本の近代化にドイツが果たした役割

    2021年は、1861年に江戸幕府とプロイセンの間に修好通商条約が締結されてから160周年となる。日の近代化にはプロイセン、そしてドイツの果たした役割が大きい。医学や法学、軍事など幅広い分野でドイツからお雇い外国人を招くなど、日独の人的交流が近代日の形成に多大な影響を与えた。160周年を機に、この日ドイツの特別な関係について概観する。 ベルリンで起きた日人の「胴上げ」 1914年7月28日、オーストリア=ハンガリー帝国(以下、オーストリア)がサラエボ事件(6月に起きたオーストリア皇太子暗殺事件)に抗議してセルビアに宣戦布告、ロシアがセルビアの支援に回ると、今度はドイツが8月1日にロシアに宣戦布告してオーストリア側に立った。 第一次世界大戦初期のこの緊迫した状況下、ドイツの首都ベルリンでは奇妙な出来事が起きていた。日人が街頭で群衆に囲まれ、歓喜の輪の中で「胴上げ」されたというのだ

    日独修好160周年:日本の近代化にドイツが果たした役割
    roseknight
    roseknight 2021/12/15
    ドイツ語は主に教育や医療技術の導入のために学ばれていたのか。日本が学んだ物の中では歴史学や哲学等が重要ではないだろうか。これは、日独の文化面での忌憚の無い議論にも通じるだろう。考え方のやり取りは続く。
  • 結婚した眞子さん:秋篠宮ご夫妻の「類例を見ない」コメント

    国民の一部が激しい皇族批判を展開し、皇室の難題となっていた秋篠宮家の長女、眞子さんと小室圭さんの結婚が、婚約内定から4年余りを経て、10月26日に実現した。儀式もなく、皇室を離れる際の一時金もない内親王の結婚について、秋篠宮ご夫は「皇室としては類例を見ない」「皇室への影響も少なからずありました」と異例のコメントを出された。 誤った情報を痛烈に反論する眞子さん 結婚して民間人となった小室眞子さんと圭さんの記者会見は、「誤った情報」で心の傷(複雑性PTSD=心的外傷後ストレス障害)を負った眞子さんに配慮して行われた。冒頭に10分ほど二人が発言し、記者との質疑応答は行われず、事前質問には文書回答する形式に変更された。 最初に眞子さんが今の思いを、「私と圭さんの結婚について、様々な考え方があることは承知しております。ご迷惑をおかけすることになってしまった方々には、大変申し訳なく思っております」「

    結婚した眞子さん:秋篠宮ご夫妻の「類例を見ない」コメント
    roseknight
    roseknight 2021/10/27
    この際は皇族が自由にものを言える環境を作らねばならないのではないか。特に皇族の反論権の無さは異常である。眞子さんはギリギリまで国民への説得を試みたようだが、皇室特に秋篠宮と国民との不信感は残るだろう。
  • 参勤交代の最大の弊害は国許を顧みない若殿が育ったこと

    浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり)、松平容保(まつだいら・かたもり)——二人とも江戸時代の著名な大名だ。長矩は赤穂藩第3代、容保は会津藩第9代の藩主。生きた時代は違うが、二人には「藩主」であるという他にも共通点があった。参勤交代制度によって生母が江戸に留め置かれていたため、江戸で生まれ、江戸で育ったということだ。 浅野内匠頭は「田舎侍」にあらず 長矩と容保二人に限ったことではない。江戸幕藩体制下の藩主たちは、ほぼ例外なく江戸藩邸で生まれ、江戸で成長した。 藩主は参勤交代によって国許と江戸とを往復するが、子は江戸に居住することを命じられていたからだ。人質である。世継ぎは江戸で生まれ、江戸で若殿として養育されるのである。 『忠雄義臣録第三』より。吉良に斬りかかる長矩を描いている。なぜこのような暴挙に及んだかについて、長矩は調べに対し「私的に遺恨あり、前後を忘れ、討ち果たそうと及

    参勤交代の最大の弊害は国許を顧みない若殿が育ったこと
    roseknight
    roseknight 2021/08/30
    世継ぎが江戸に残って育ったことは現代の世襲の政治にも繋がるのだろうか。国許と藩主との溝が江戸の発展を妨げたと考えられる。参勤交代は旧来の自民党的な再分配政策の元になっているだろう。
  • 日本マクドナルド創業50周年:外食産業の雄の光と影

    マクドナルドは2021年、創業50周年を迎えた。同社はコロナ禍が外産業を直撃する中、巣ごもり需要の追い風に乗り、2020年12月期連結決算で全店舗売上高5892億円、営業利益312億円と過去最高を更新。その勢いは増すばかりだ。同社の草創期を知るジーン・中園氏と共に、半世紀にわたる日マクドナルドの歩みを振り返る。 ジーン・中園 Gene NAKAZONO 1949年大阪生まれ。大学時代1年間休学し、自転車で米国大陸を横断。73年、新卒で日マクドナルド社に入社。90年、同社を退社し家族と共に豪州に移住、ゴールドコーストにある日レストラン支配人に就任。その後拠点をシドニーに移し、米国大手野菜製造加工工場QA(品質保証)部マネージャーおよびコンサルタントに。97年、市民権を取得し豪州に帰化。2009年から6年間、品加工工場の立ち上げに招請され、日で単身赴任、取締役工場長に。1

    日本マクドナルド創業50周年:外食産業の雄の光と影
    roseknight
    roseknight 2021/08/24
    従業員の家庭を尊重する藤田社長を見ると、昔の日本企業の経営者にも似た点があったのかと思う。加えて大卒の人間を採用してきたことも経営危機の対策に繋がったのでは。QCSをどう達成するかを日本企業は考えては。
  • シリーズ・結党100年の中国共産党と日本(5): 改革開放とは何であったのか

    鄧小平が進めた「改革開放」路線により、中国は西側諸国からの資金を得て、大きな経済的成功を収めた。しかし、格差拡大などの”副作用”が解消できず、国内社会でも、対外関係においても歪みが顕在化している。 鄧小平が設計した「再建計画」 中国文化大革命(文革)のカオスに陥れた毛沢東が1976年に死去すると、中国共産党は、文革からの脱却に着手した。その重責は、毛亡き後の党内権力闘争を制した鄧小平が担うこととなった。 鄧小平は、文革によって一時的に失脚するまで国務院副総理として終身総理の周恩来を補佐し、共産党内では中央政治局常務委員として党中央の最高意思決定に携わっていた。このため、周恩来および毛沢東が相次いで死去した後の党と国家の建て直しを託せる人物として党内の期待が彼に集まった。 また、鄧小平は、内戦期に中国人民解放軍の第2野戦軍の政治委員をつとめ、1970年代には解放軍の総参謀長をたびたびつとめ

    シリーズ・結党100年の中国共産党と日本(5): 改革開放とは何であったのか
    roseknight
    roseknight 2021/07/28
    中共は西側諸国との交流で富を築いた地方の党員を始めとした利権屋に悩んでいる。習近平の独裁は米国の親中主義や歴史の利用等で続いた改革開放による中国のファシズム化を示している。日本も他人事ではないかな。
  • 台湾を変えた日本人シリーズ:台湾に骨を埋めた明石元二郎

    政府から台湾に派遣された総督は合計で19人を数えた。歴史に名を残した総督も少なくないが、その中で、自らの墓を台湾に作るほど、台湾への深い思いを抱いた人物は、明石元二郎以外にいないだろう。 欧州から台湾へ 日台湾統治で「前期武官総督時代」の最後を飾る第7代台湾総督として赴任した明石元二郎。日露戦争では秘密工作でロシア革命を支援して敵国の背後を揺さぶり、日の勝利の陰の立役者として有名である。 明石元二郎は明石助九郎の次男として1864(元治元)年に福岡藩の大名町で生まれた。陸軍幼年学校を経て、1883(明治16)年陸軍士官学校を卒業し、歩兵少尉に任じられた。陸軍幼年学校時代の明石は、運動が苦手であったが数学と製図は得意であった。単独行動が多く、協調性が低かったとされ、いたずらをよくしたが、教師や先輩、友人などからは好意を持って見守られたという。このことは陸軍士官学校時代でも変わらず、

    台湾を変えた日本人シリーズ:台湾に骨を埋めた明石元二郎
    roseknight
    roseknight 2021/06/13
    一つのことに打ち込む気質が台湾の民情把握に役立ったのでは。日月潭水力発電所や嘉南大圳の建設計画や教育、司法の改革を見ると、明石が台湾の全体構図を持っていたように思える。本人には総理になって欲しかった。
  • 占領期最大の恐怖「公職追放」:GHQに最も抵抗した石橋湛山蔵相(11)

    自民党初の総裁選に勝ったが、総理大臣に在任65日で思わぬ病気のため退陣し、その潔い引き際が今も語り継がれる石橋湛山(たんざん)。彼は戦前、軍部とも闘い、言論弾圧を受けた自由主義者で、ジャーナリストである。終戦の翌年に第1次吉田茂内閣の大蔵大臣となったが、1年後にGHQの指令で戦前の言論活動を理由に公職追放された。数多いパージも中でも最大のミステリーとされる「湛山追放」を4回にわたり考証する。 「私は有髪の僧」 石橋湛山は、日蓮宗僧侶の父(後に日蓮宗総山久遠寺の法主)の郷里、山梨県で育った。中学を卒業するころ、幼名(省三)から湛山と改める。山梨の日蓮宗の寺院には、子弟の名に「湛」を付ける習わしがあったという。 中学の校長が、札幌農学校でクラーク博士の薫陶を受け、熱心なキリスト教徒だったことから、その影響も受けた。石橋は枕元に、いつも日蓮遺文集と聖書を置いていた。石橋は後に回想記で、「私は今

    占領期最大の恐怖「公職追放」:GHQに最も抵抗した石橋湛山蔵相(11)
    roseknight
    roseknight 2021/06/02
    戦前から一貫して内需を安定させようとした石橋湛山に学ぶ点は多いだろう。特に終戦処理費の削減を達成した実績は計り知れない。GHQの連中や日本政界は経済をどれ程理解していたのかな。積極的財政を彼に習え。
  • 街道と宿場町の発展が地方に強いた負担

    NHK大河ドラマ『晴天を衝け』(第2回)に、興味深いシーンがあった。渋沢栄一が住む血洗島(現埼玉県深谷市)を治めていた岡部藩の代官が、「若殿の御乗り出し」のために道(中山道)を整備するから、御用金を献金せよと、栄一の祖父と父に命じる場面である。 『晴天を衝け』に描かれた領民の悲哀 岡部藩は譜代大名の安部(あんべ)家が藩主である。嘉永3(1850)年、まだ幼少だった12代藩主・安部信宝(のぶたか)は、江戸城に登城し、将軍・徳川家慶(いえよし)に拝謁した。『晴天を衝け』にあった「若殿の御乗り出し」とは、信宝が初めて将軍に拝謁した、この時のことを指していると思われる。 岡部藩は城持ち大名ではない。江戸定府(藩主が江戸に定住)の大名であり、参勤交代の義務はなかった。信宝も江戸にいて、将軍に拝謁(はいえつ)した後に大名行列を率いて国許へ凱旋(がいせん)帰国する予定だったのか、またはこの時は国許にいて

    街道と宿場町の発展が地方に強いた負担
    roseknight
    roseknight 2021/04/29
    参勤交代における街道整備の金銭・人力負担や助郷制度が農村を疲弊させた。宿場町と言えども個々の経済格差は小さくなかったのでは。参勤交代によるモノの再配分は経済成長を促したが、長続き出来たかは疑問だ。
  • 歴史の闇「私宅監置」に迫る:映画『夜明け前のうた ~消された沖縄の障害者~』

    精神障害者の「私宅監置」が1972年まで行われていた沖縄。明治時代に制定された人権無視の悪法が、戦後も米軍の統治下にあったがゆえに生き残った。当時を知る人々を訪ね、歴史のダークサイドに迫ったドキュメンタリーをいま世に問う意義について、原義和監督に聞いた。 原 義和 HARA Yoshikazu 1969年、愛知県名古屋市生まれ。2005年より沖縄を生活拠点にドキュメンタリー番組の企画制作を行う。東日大震災後、福島に通って取材し、Eテレ「福島をずっと見ているTV」などにディレクターとして参加。主な制作番組は「戦場のうた~元“慰安婦”の胸痛む現実と歴史」(2013年琉球放送/2014年日民間放送連盟賞テレビ報道番組最優秀賞)、「インドネシアの戦時性暴力」(2015 年TBS報道特集・第53回ギャラクシー賞奨励賞)、「Born Again~画家 正子・R・サマーズの人生」(2016年琉球放送

    歴史の闇「私宅監置」に迫る:映画『夜明け前のうた ~消された沖縄の障害者~』
    roseknight
    roseknight 2021/03/20
    精神病への無理解故の私宅監禁が沖縄で70年代まで続いていたとは驚きだ。善悪を単純に付けず当事者らの思いに迫る原義和氏の姿勢には同意出来る。人と神の交信を信じる沖縄の真髄をどう見るか?影の声を聞きたい。
  • 芸術・文化は「不要不急」か:コロナ下で問われる日本の美術館の「特殊性」と存在価値

    コロナ禍で影響を受けた文化芸術関係者たちは、今後の活動の方向性を探っている。休館や展覧会の延期を余儀なくされた美術館も、さまざまな発信の可能性を模索中だ。全国約400の美術館が参加する「全国美術館会議」会長を務める建畠晢(たてはた・あきら)多摩美術大学学長に、美術館の現状と将来について聞いた。 建畠 晢 TATEHATA Akira 美術批評家・詩人。埼玉県立近代美術館館長・多摩美術大学学長。専門は近現代美術。1947年京都市生まれ、72年早稲田大学文学部仏文学科卒業。国立国際美術館館長、京都市立芸術大学学長などを歴任。「ヴェネチア・ビエンナーレ」日館コミッショナー(1990、93年)、「横浜トリエンナーレ2001」アーティスティック・ディレクター、「あいちトリエンナーレ2010」芸術監督など、多くの国際美術展を組織し、アジアの近現代美術の企画にも多数参画。主な著書に、詩集『余白のランナ

    芸術・文化は「不要不急」か:コロナ下で問われる日本の美術館の「特殊性」と存在価値
    roseknight
    roseknight 2021/03/19
    美術館の本義は歴史上の作品を体系的に保存することだ。メディアとの共催は館の企画性を衰退させる。リベラルアーツを軽視してきたことが背景にあるのではないか。尤も、日本に市民の概念が合うかも疑問ではある。
  • 東郷元帥が取り結んだ英国のアジア太平洋への回帰 | 「新・日英同盟」の行方(1)

    かつての蜜月関係が甦(よみがえ)ったかのようだ。日と英国は1923年に失効するまで同盟関係にあった。太平洋戦争後は同じ民主主義的価値観を共有する国として長らく友好関係を築いてきたが、それは同盟関係と呼べるものではなかった。しかし、高まる中国の覇権主義が再び両国を急接近させている。日米同盟に次ぐ安全保障の要となりうる「新・日英同盟」関係は今後どうなっていくのか、全6回にわたり解説していく。 日英の2プラス2を演出した東郷元帥 「対馬沖海戦(日海海戦)の約半年前に撮られたアドミラル・トーゴーだ」 ロンドン南東の郊外。子午線が通り、世界標準時を定めた旧王立天文台があり、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の世界遺産に登録されたグリニッジで、2017年12月14日に開催された第3回日英外務・防衛閣僚会合(2プラス2)。河野太郎外相、小野寺五典(いつのり)防衛相と、英国のボリス・ジョンソン外相、

    東郷元帥が取り結んだ英国のアジア太平洋への回帰 | 「新・日英同盟」の行方(1)
    roseknight
    roseknight 2021/02/10
    日英同盟は日露戦争を巡る両国の交流の中で確立されていった。加えて日英両国は空海軍において需要を共有するか。尤も、金融面で中国を頼る英国がどこまで日本を相手にするかは疑問だ。中共への弱腰姿勢を止めねば。
  • 1