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『世界史講義録』に、文章の整理と校正をほどこして、ほぼ完全書籍化。 107回以後は書き下ろし。2分冊となりました。 皆さんに重宝される本になることを願っています。枚数制限なしで出版をしていただいた学研教育出版さんに感謝。 これは、私の高校世界史の授業を記録したものです。語り中心で、生徒達に世界史の面白さを伝えようと意識した授業です。あらゆるネタをかき集め、時には、俗説、珍説、奇説、私説をまじえながら、「見てきたような」話で生徒を引きつけようというわけです。脱線話も含め、可能な限り忠実な再現を試みています。ですから、少々くどいところもありますし、各ペ−ジは、長文です。しかし、実際の授業の雰囲気を伝える手段と考えています。世界史の面白さ、楽しさを、伝えることが出来れば幸いです。(1999.3.19) 金岡新 世界史講義録 第1回 最初の授業(1999.4.12) 第2回 人類の登場(1999.
こんにちは。伊藤賀一と申します。 原始から近代・現代まで、あらゆる時代をカバーしているオールラウンド型の珍しい日本史講師です。 日本史だけでなく社会科全般を教えているため、ありがたいことに「日本一生徒数が多い社会科講師」という称号もいただいたことがあります。 今回は「日本史を学び直すための本」を紹介します。編集部からは「10冊プラスα」という依頼だったのですが、力が入り過ぎてしまい、数えてみたら30冊を超えていました……。 30冊もあると「こんなに読まなきゃいけないの!?」とびっくりするかもしれませんが、全部読む必要はないですよ!(もちろん全部読みたい人は一緒に沼にハマりましょう) 気になったテーマの、気になった一冊だけでも手に取ってみてください。 ▶今すぐ「日本史を学び直すための10冊プラス+α」をチェックしたい人はこちら 予備校で授業をしている筆者 皆さんもご存じのように、今も昔も、人
たぶん専門の人から見るといろいろ間違っていると思う。 アフガニスタン国土現在の国境線は英領インドとロシア(とペルシア)との緩衝国として残ったもの。ほぼ乾燥した山。 国民山がちな国土もあって民族構成は複雑。パキスタンにまたがるパシュトゥーン人(最大勢力)・バローチ人、タジキスタンにまたがるタジク人、テュルク・モンゴルの血を引くハザーラ人、トルクメニスタンにまたがるトルクメン人、ウズベキスタンにまたがるウズベク人、その他イラン系、テュルク系を中心に多民族が混在している。 パシュトゥーン人アフガニスタンとパキスタンにまたがる民族。アフガニスタンでは4割程度を占める。山間部ではパシュトゥーンワリという独特の復讐感や名誉感を重んじる割と血なまぐさい掟に従っている。 政治背景氏族社会が強い、最後の王ザーヒル・シャーの時代ですら氏族長会議が後ろ盾だったし、今(2004年憲法)でも上院・下院の上に氏族長の
1747年:アフマド・シャー「イランから独立するで!」 →アフガニスタンの建国 1838年:イギリス「ロシアがインドを狙っとるからアフガンにイギリス軍を置かせてくれや」 →交渉決裂 →イギリス「ほな戦争や!」 →第一次アフガン戦争 1842年:イギリス「あかん、とりあえずアフガンを占領したけど、反乱が多すぎるから撤退するわ」 →和睦 1878年:イギリス「今度のアフガン国王はロシア寄りっぽくて怪しいわ! また戦争するで!」 →第二次アフガン戦争 1881年:イギリス「今回は勝ったけど、めちゃくちゃ苦労したわ…」 →イギリスがアフガンを保護国化 1919年:アフガン国王「世界大戦でイギリスが弱っとるみたいやで! いまこそアフガンから追い出す好機や! ジハードや!」 →第三次アフガン戦争 →アフガン国王「あかん、勝てへんわ。和睦するで!」 →イギリス「こっちも戦争はうんざりやし、もう独立してえ
銅鐸という古代の祭祀具がある。日本史の弥生時代のとこで習ったアレだ。 卑弥呼の時代の直前くらいに銅鐸は使われなくなる。 私たちはいまだに神社では鏡や剣を神器として尊ぶのに、銅鐸は使わない。 研究者の見解では多分こういう風に使うのだろう、ってのはある。 が、正確なところはわからない(特に大型化した以降)。 ただ一つだけ言えることは、絶対に一人、最後に銅鐸の使い方を知っていた人がいる。 銅鐸をどうするのか? どう祭祀で使うのか。 知っていた人が、必ずいる。 複数人の集団を想定してもいい。その集団の最も長生きした人を想像するのも良い。 彼、彼女の人生について、よく寝る前とかに想いを馳せる。 先祖から受け継いでいた銅鐸の使い方を、歴史のうねりの中で失う。 おそらく、使い方を知っているが、もう使うことがなくなった(鏡や剣を祀るスタイルが一般化した)というのが想定される一つの可能性だ。 そのうち、なん
すでにブコメや言及で書いてあるけど、人に貸す場合を想定している。 で、次第にリビングに電話の居場所が移っていくわけだが、法律の制定や条約の締結とかと違って、各家庭の事情が絡んで「いつ」は言いにくい。 ただ言えることは各家庭に電話が普及するのと表裏一体の動きだということだ。 ところが、電話の普及ってのも技術革新と絡んで複雑な経過をたどる。 都市部の「即時化」電話の普及は、ただ電話線が家に引かれることを想定するだけではダメという話。 「交換士あり」から「即時電話」(これには二つの意味合いがあって複雑なんだが)への変化を見なくてはならない。 私は北海道の事例しか調べたことがないのでそれを例にすると、市街地では昭和20年代後半から30年代丸々をかけて、まず「市内即時化」がなされていく。 これはある一定範囲の市内通話だったら交換士なしで自動で繋がるシステム。それまではトトロみたいに電話をつなぐ中の人
10歳だった。 その時ぼくは、まだ「ソビエト連邦」だったモスクワにいた。 そこで見たのは、「国」というものが劇的に変化する瞬間だった―― 外務省が公開した6000ページにのぼる外交文書。外交官たちの生々しい報告が、私をあの時代に連れ戻した。そして私は、何が起きていたのかを初めて実感した。 (政治部・渡辺信) その書き出しは、文学的だった。 『BUKSOVAT(空転する)。2年1か月のモスクワ在勤を終え帰国する日、空港の暗い待合室で搭乗を待ちながら、ふと、この単語が頭に浮かんだ。ゴルバチョフの始めたペレストロイカを、ひと言で総括するとすれば、まさに「空回りしている」というのが適当ではなかろうか』 1987年11月の「ソ連在勤を終えて」という報告書の冒頭だ。書いたのは、モスクワの日本大使館の政務班長だった角崎利夫氏。これまで私が読んできた硬い外交文書とは異なる表現で、1985年に書記長に就任し
明けましておめでとやで。 日本を愛するニキネキ、反日のウヨさん、 本年もどうぞよろしく。 遅なってしもたけど、 大日本帝国を美化しとるウヨさんへ宛てた年賀状を書いたんや。 めちゃ長いから、覚悟して読んでクレメンス。 出典・参考『データで見る太平洋戦争』髙橋昌紀(毎日新聞出版)『南方占領地行政実施要領』(国立公文書館アジア歴史資料センター)『「何故攻撃に出ぬか…」太平洋戦争下の昭和天皇「お言葉」の数々』辻田真佐憲(現代ビジネス)『大東亜政略指導大綱』(国立公文書館アジア歴史資料センター)『私の軍政記 インドネシア独立前夜』斉藤鎮男(日本インドネシア協会)『大和民族を中核とする世界政策の検討』(国立国会図書館デジタルコレクション)『ガンジーから、「すべての日本人への手紙」』(HKennedy の見た世界)『ベトナム独立宣言』(Wikipedia)『ラダ・ビノード・パール』(Wikipedia)
はんどう・かずとし/昭和5(1930)年生まれ。東大文学部を卒業後、文藝春秋入社。専務取締役を経て文筆業に。『日本のいちばん長い日』は終戦の日を描いたベストセラーとなり、映画化もされている。『ノモンハンの夏』『昭和史』『文士の遺言』など著書多数 「昨年、当時の天皇陛下の侍従から、『秋篠宮悠仁(ひさひと)殿下に、太平洋戦争はなぜ起こったのかを、わかりやすく話してください』という依頼があった。ですが、私は最初断ったんです。だって相手は小学校6年生の坊やですよ。そんな幼い子に単純明快に話せるようなことじゃない、無理です、と。だけど何度もお願いされて、じゃあさわりだけでも話しましょう、と出かけていったのが、8月15日でした」 秋篠宮悠仁親王は、まさに次代の天皇家を背負って立つ。その進講役として白羽の矢が立ったのが、昭和史研究家でもある作家・半藤一利氏(89)だ。秋篠宮家の”家庭教師”になったのが「
私は「ネットロア」という語をかなり広義に捉えていて、噂や風説といったもの、そこまではっきりしなくても、「なんとなくぼやっと信じられてそうなこと」までも含んでおります。最近は世の流れで時事ネタを多めに取り扱いますが、私自身は「なんとなくぼやっと」のネタの方が、いつもワクワクしながら取り組めています。 というわけで、今回はその「ぼやっと」ネタの、「現代のむかしばなし、昔よりマイルドになってる説」です。 バアちゃん殺されないとか歴史修正主義者の暗躍がひどい pic.twitter.com/EfpqAPpY5Z — 新米先達mayan (@mayan1969) May 8, 2018 ずいぶん前のツイートですが、最近TLに回ってきたので、へえ、と思った内容です。最近の「かちかち山」は、おばあさんは殺されず、しかも改心したっぽいタヌキと和気あいあいと打ち上げパーティーのように終わるんだとか、そういう
学会で相手にされない陰謀論 そんなに資料はない本能寺の変 太平洋戦争での奇襲多用につながってしまった「歴史の物語化」 「本能寺の変」や「関ケ原の戦い」などを巡り、世にはびこる様々な陰謀論や俗説を、専門家の視点から“ガチ検証”した『陰謀の日本中世史』(角川新書)が11万部のベストセラーになっている。著者で日本史学者の呉座勇一さんは「歴史『を』ではなく、歴史『に』学ぶのは危険」と訴えます。「『物語』が欲しいなら、ワンピースやスラムダンクを読んで」とも。呉座さんが恐れる歴史の学び方とは?(朝日新聞文化くらし報道部記者・高久潤) 学会で相手にされない陰謀論 ――武士が政治の表舞台に出てくる保元の乱を皮切りに、織田信長が死去する本能寺の変、そして関ケ原の戦いと、誰もが聞いたことがある中世の歴史を「陰謀」という切り口で考えたのはなぜですか 「本能寺の変に黒幕がいた、坂本龍馬暗殺に黒幕がいた、といった『
文・北林のぶお 「死海文書」は、確かに存在している。旧約聖書の写本を含む約2000年前の古文書が、「世紀の大発見」と言われてから約70年。解読作業の遅れから、オカルト的な興味の対象になったり、真偽そのものを疑う声も一部で上がった。ようやく現存する文書の公刊がほぼ終わり、日本でも全12冊の刊行が始まった。ぷねうま舎の社長で編集を担当した中川和夫氏は、聖書を新たに読み解く試みについて「長年の夢を実現できた」と、静かに語る。 ――まず「死海文書とは何か」というところからお聞かせください。 1946年から47年にかけて、現在のヨルダン川西岸地区にある死海のほとりの洞くつ群から、ベドウィンの羊飼いの少年が偶然にも巻物を収めた壺を見つけた、という逸話が伝えられています。巻物は後に20世紀最大の考古学的発見と言われるのですが、ベドウィンから古物商、さらにはシリア正教会の大司教の手に渡り、数奇な運命をたど
どんどんマイナーな人物になってるじゃん。 前々から大河は日本史の重要人物を十数人程度選んで、ローテ組んで使い回せばいいじゃんって思ってるんだよね。 十数年に一回なら「また信長かよ」って感じにはならないと思うし。 もしそうするなら誰を使うかってぱっと浮かんだのが下のリストだけど、ほかは誰がいたっけ。 源義経 平清盛 武田信玄 信長 秀吉 家康 徳川吉宗 竜馬 新撰組
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