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京都と8cに関するshig-iのブックマーク (22)

  • 奈良時代の遺跡から「九九」書かれた木簡が出土 役人が徴税額の計算に使っていたか 京丹後市(関西テレビ) - Yahoo!ニュース

  • 「源氏物語」「枕草子」舞台の建物跡 京都の発掘調査で初確認|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞

    平安宮内裏にあった後宮建物の登華殿(写真手前)と弘徽殿(奥)の遺構。平安文学の舞台だったことで知られる(京都市上京区)=市埋蔵文化財研究所提供 平安宮内裏にあった後宮建物の登華殿(写真手前)と弘徽殿(奥)の遺構。平安文学の舞台だったことで知られる(京都市上京区)=市埋蔵文化財研究所提供 平安文学を代表する「源氏物語」「枕草子」の舞台になった内裏の後宮建物跡が、京都市埋蔵文化財研究所が上京区で行った発掘調査で見つかっていたことが8日、京都新聞社の取材で分かった。建物跡や溝跡は中宮らが暮らした登華殿(とうかでん)と弘徽殿(こきでん)に関わるとみられ、平安時代の内裏殿舎遺構が見つかるのは初めて。 登華殿は平安中期、一条天皇の中宮定子が暮らした。関白の父・藤原道隆らとの語らいが、枕草子にはつづられている。また、弘徽殿は源氏物語において光源氏が朧月夜に出会う場になっている。両殿とも内裏北西部にあった

    「源氏物語」「枕草子」舞台の建物跡 京都の発掘調査で初確認|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞
  • 橘諸兄創建の五重塔か 奈良時代の基壇跡が出土 京都・井手寺跡

    奈良時代に聖武天皇のもとで政権中枢を握った橘諸兄(たちばなのもろえ)(684~757年)ゆかりの京都府井手町の「井手寺」跡近くで、8世紀中ごろの建物の基壇跡が出土し14日、府埋蔵文化財調査研究センターが発表した。基壇の規模から五重塔とみられ、諸兄が創建した可能性もあるという。諸兄は当時、左大臣として藤原氏をしのぐ権勢を持ち、センターは「橘氏の権力の大きさを示す重要な成果」としている。 井手寺は、諸兄が創建した氏寺で、約240メートル四方の伽藍(がらん)があったとされる。町役場建設に伴い伽藍東端から東約50メートルの場所で発掘したところ、大小の石が敷き詰められた方形の建物の基壇の北辺と西辺の一部が出土した。 基壇は自然石と割石を積みあげ、北辺は15・3メートル、西辺も北辺と同じ長さと推定された。周囲には雨落ち溝と石敷きの床が広がり、北、西辺いずれにも階段跡が残り、北辺では4段分が確認された。

    橘諸兄創建の五重塔か 奈良時代の基壇跡が出土 京都・井手寺跡
  • 大極殿院は未完成か 恭仁京跡で塀跡を確認できず

    8世紀に聖武天皇が造営した恭仁京(くにきょう)の跡(木津川市加茂町)から、官僚が政務をした「朝堂院」の北西角とみられる柱列が出土し3日、府教育委員会文化財保護課が発表した。これにより朝堂院の範囲が東西117メートル、南北100メートルで確定した一方、同院北端に接するはずの天皇が政務・儀式を行う大極殿院の南端の塀跡は確認できず、大極殿院が未完成だった可能性が高いことがわかった。 恭仁京は、天平12(740)年に藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が九州で起こした朝廷に対する反乱を機に聖武天皇が平城京を離れ、一時的に営んだ都。約5年間機能したといわれている。 昭和48年から始まり今回で100回目となる調査では中心施設「恭仁宮」の範囲確認のため、北から南に向け配された大極殿院、朝堂院、朝集院のうち、大極殿院と朝堂院が接した塀跡と朝堂院跡の内部の計約235平方メートルを調査した。 この結果、朝堂院の北西

    大極殿院は未完成か 恭仁京跡で塀跡を確認できず
  • 長岡京造営の高位人物の家? 京都で建物跡発掘 : 京都新聞

  • 大極殿院 南辺だけ簡素?・・・恭仁宮跡 : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

  • 平安京囲う「羅城」なかった? 京都、造営当初の痕跡出土|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞

    平安京と京外の境目を示す整地層が見つかった発掘調査。女性の前方側の地層は礫が多いのに対し、背中側の整地層は黄緑色がかった色を帯びている(京都市下京区) 平安京と京外の境目とみられる都造営当初の整地層の痕跡が、京都市下京区寺町通四条下ルで27日までに見つかった。整地層は、都を取り囲む羅城(らじょう)(周壁)を築くための規格に沿う幅だった。ただ、壁そのものの跡は確認できず、羅城で囲われた後世の絵図などと違い、実際は羅城が築かれなかった可能性を示している。 寺院やホテルの新改築に伴い、民間調査会社の古代文化調査会(神戸市)が約550平方メートルを調べている。 調査では、平安京東端の南北通り「東京極大路(後の寺町通)」の東の側溝跡(幅約2メートル)が見つかり、側溝のさらに東側で幅約6メートルの整地層が出土した。整地した際に特徴的なうぐいす色を帯び、京外に当たる隣接地とは違い礫(れき)がほぼ含まれて

    平安京囲う「羅城」なかった? 京都、造営当初の痕跡出土|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞
    shig-i
    shig-i 2018/12/29
    “羅城を築造可能な整地をわざわざ行っていた”
  • 奈良末期銅銭31枚出土…宮津・安国寺遺跡 : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

    shig-i
    shig-i 2018/12/15
    丹後国府関連
  • 京都:大型掘立柱建物跡が出土、皇族の離宮か 長岡京市 - 毎日新聞

    長岡京跡発掘調査で見つかった大型掘立柱建物の柱穴跡。担当者が指さす場所で文字の入った瓦が出土した=長岡京市天神で2018年10月25日午後2時47分 京都府長岡京市の病院建設予定地で、長岡京期(784~94年)に建てたとみられる大型掘立柱建物跡が見つかったと25日、市埋蔵文化財センターが発表した。南北約21メートル、東西約6メートルの区画で、西側に庇がある構造だった。専門家は皇族が使用した離宮の可能性が大きいとしている。 「右京六条三坊三町」に当たる位置で、建物跡は南北に細長く、柱穴の大きさは一辺1~0.9メートル、間隔は10尺(約3メートル)だった。 周辺からの出土品の大半は瓦で長岡京期の後半の製作。既に長岡京の離宮跡の東院や猪熊院の推定地でも確認された「※」の文字を刻印した瓦が多い▽生活に使用する土器の出土が少ない▽建物のある区域は築地状の溝で隔てられている--などから、建物は公的な重

    京都:大型掘立柱建物跡が出土、皇族の離宮か 長岡京市 - 毎日新聞
  • 奈良時代の掘っ立て柱建物跡が出土 京都・城陽の「芝山遺跡」、北陸道沿いに整備か

    京都府城陽市の芝山遺跡・芝山古墳群から、奈良時代の掘っ立て柱建物跡が出土し、府埋蔵文化財調査研究センターが28日発表した。東側には平城京(奈良)と北陸を結ぶ官道の北陸道があったとされ、官道沿いに建物が整備された可能性があるという。 新名神高速道路の整備事業に伴い、平成29年度から南北に走る府道西側の計約2400平方メートルを調べていた。奈良時代の須恵器や土師器(はじき)などとともに10棟分の掘っ立て柱建物跡が出土。過去の調査で、府道にほぼ並走する形で道路跡が南北で確認されており、うち2棟がその延長線上に沿って建てられていた。 ▼弥生時代に謎の大量殺戮? 大量の人骨をDNA分析、弥生人のルーツたどる 鳥取・青谷上寺地遺跡 真北に向いた建物跡1棟と、「田」の字状に柱を配置する総柱建物も4棟確認。総柱建物は床を補強した倉庫として活用されていた可能性があるという。直径9・5メートルの古墳時代後期(

    奈良時代の掘っ立て柱建物跡が出土 京都・城陽の「芝山遺跡」、北陸道沿いに整備か
  • 安国寺遺跡:丹後国府跡か、四角い柱穴 宮津で二つ発掘 府中説強まる /京都 | 毎日新聞

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    shig-i
    shig-i 2017/12/06
    “隣接する「大極殿院」の区画が柱穴の位置から推定され、平城宮(第一次)と同形態の可能性が高くなったとしている”
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  • 八幡・美濃山廃寺:ひさご形、土製仏具? 奈良中期、前例なし /京都 - 毎日jp(毎日新聞)

    shig-i
    shig-i 2012/01/14
    「奈良時代中期(8世紀中頃)とみられ、全国で例がないひさご(ひょうたん)形土製品」
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    shig-i
    shig-i 2011/07/28
    木簡「讃岐國鵜足郡少領□(□は判読不能)」
  • 京都、恭仁京の排水溝跡か 上狛北遺跡で発見|さきがけonTheWeb

  • asahi.com(朝日新聞社):長岡京「西宮」の回廊跡か 大極殿跡西側に掘立柱用の穴 - 文化

    掘立柱を立てるための穴=京都府向日市  平安京遷都(794年)までの10年間都が置かれた長岡京の中枢、長岡宮跡(京都府向日市)で、桓武天皇が政務を執ったとされる大極殿跡の西側から回廊跡の遺構が見つかったと17日、向日市埋蔵文化財センターが発表した。  大極殿の西350メートルの地中から、掘立(ほったて)柱を立てるための穴21基(深さ1.4〜1.6メートル)や、石で作られた溝が出てきた。穴に立てられた柱の間隔は2.4メートルか3メートルと規則的だったと推定され、柱は3列に配置される「複廊」と呼ばれる回廊跡とみられる。  「続日紀」によると、桓武天皇は789年、第1次内裏と呼ばれる「西宮」から、第2次内裏の「東宮」に移った。これまでの調査で西宮の場所は判明していなかったが、掘立柱の複廊は内裏など重要な施設に用いられることなどから、同センターは「第1次内裏(西宮)の一部である可能性もある」とい

    shig-i
    shig-i 2010/12/19
    「ただ、山中章・三重大教授(歴史考古学)は「内裏は大極殿の北にあるというのが通説」と、遺構が西宮以外の施設である可能性を指摘する」
  • 皇族の甲冑コレクション? 長岡宮・内裏跡から部品出土 : ニュース : 関西発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    京都府向日市の長岡宮跡(784〜794年)で天皇が居住した内裏跡から、6世紀末〜8世紀末に作られたとみられる甲冑(かっちゅう)の部品「小札(こざね)」約30点が見つかり、同市埋蔵文化財センターが18日、発表した。皇族の墓とされる藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)の副葬品や、正倉院宝物と同型のものもあり、皇族にかかわる甲冑の一部とみられる。同センターは、歴代の甲冑が約200年にわたって伝えられ、内裏で保管されていた可能性があるとしている。 小札は短冊形の薄い鉄板で、小さな穴を開けてひもで1000枚前後をつなぎ合わせ、胴などを守る甲冑の部品。内裏の中にある脇殿の基壇の穴からまとまって見つかった。平安京に遷都する直前に意図的に埋められたらしい。 十数点分の甲冑の部品で、最小1センチ四方、最大で長さ9センチ、幅2センチ。厚さはいずれも2ミリ以内。大きさなどから〈1〉6世紀末〜7世紀後半〈2〉8世紀前半〈3

    shig-i
    shig-i 2010/02/19
    「小札は短冊形の薄い鉄板で、小さな穴を開けてひもで1000枚前後をつなぎ合わせ、胴などを守る甲冑の部品。内裏の中にある脇殿の基壇の穴からまとまって見つかった」
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    shig-i
    shig-i 2009/11/21
    「恭仁宮は朝堂院より、南に隣接する朝集殿院の東西幅が広い「凸字型」で、奈良時代前半の平城宮と同じ形と分かった」
  • 奈良時代の大蔵省施設か 京都府木津川市の上津遺跡で漆付着の壺など出土 - MSN産経ニュース

    奈良時代に平城京などの物流拠点だった河川港の「泉津(いずみのつ)」として栄えた京都府木津川市の上津(こうづ)遺跡で、内面に漆が付着した奈良時代後期(8世紀後半)の壺(つぼ)や甕(かめ)の破片などが出土し、市教委が16日、発表した。 当時、漆は調(税)として国家に納められており、市教委は、この場所に漆を管理・再配分する大蔵省の施設があったと推察。泉津が「国家直営の一大コンテナターミナル港だった」とみている。 見つかったのは長頸壺(ちょうけいこ)二十数個分と甕3個分の破片で、掘っ立て柱建物跡群から出土。長頸壺は高さ、最大幅各20センチ前後、甕は高さ、幅各40〜50センチとみられる。建物跡は倉庫のような建物だったとみられ、製塩土器の破片や、顔料に使われた水銀朱の付着した坏(つき)の破片も出土した。壺の形状は数タイプあり、さまざまな産地から漆が運ばれてきたこともうかがわせた。 市教委は「木材だけで

    shig-i
    shig-i 2009/09/17
    「「泉津(いずみのつ)」として栄えた京都府木津川市の上津(こうづ)遺跡」