沖縄戦で失われ、79年ぶりに戻ってきた琉球王国の王の肖像画。 この「国宝級」の文化財が見つかったのは、アメリカ・ボストン近郊の住宅。 その屋根裏でした。 いつ、誰が、どうやって沖縄から持ち出したのか? 返還はなぜ実現したのか? その謎に迫りました。 (沖縄放送局記者 高田和加子)
神社や寺を訪れて授かる「御朱印」が人気を集める中、茨城県石岡市は御朱印の古墳版ともいえる「御墳印(ごふんいん)」を作成し販売を始めた。石岡市は県内最大の古墳があるなど古い歴史を持ち、商業の街としても栄えたが、全国的な知名度は低い。御墳印を切り札に知名度を上げたい考えで、「水戸黄門を擁する水戸市にも負けない」と一部の市民は歴史プライドをのぞかせている。 舟塚山古墳の御墳印石岡市が販売するのは国指定史跡、舟塚山(ふなつかやま)古墳(同市北根本)の御墳印。全長186メートルの前方後円墳で茨城県内では最大、東日本でも2番目の規模を誇る。5世紀前半に築造されたと考えられ、被葬者は不明だが霞ケ浦一帯を支配していた有力者とみられている。 市教育委員会のほか、市立ふるさと歴史館で1枚300円で販売中。実際に石岡市を訪れてほしいとの考えから郵送などは行っていない。 文化庁の令和3年度「埋蔵文化財包蔵地数」に
戦国時代に明智光秀が築いた坂本城跡(大津市)で見つかった全長約30メートルの石垣と外堀跡について、佐藤健司市長は20日開会の2月市議会通常会議で、城跡で当初予定された宅地造成工事を中止し、保存する方向で事業者と大筋合意に至ったと明らかにした。市は今後、城跡の国史跡指定を目指す。 文化庁によると、工事をやめて保存に取り組むのは珍しいという。 佐藤市長は、市議会通常会議で「本市から事業者に対して、工事計画の中止を要請しておりましたが、このほど開発許可の廃止を届け出ることについて大筋での合意に至った」と報告。事業者の三王不動産流通(同市)には「心から感謝申し上げる」と述べた。 城跡では、宅地造成工事に伴い市が昨年10月から約900平方メートルを発掘調査。地上に痕跡が残らず、これまで「幻の城」と呼ばれてきた坂本城の三の丸外堀と推定される石垣などが出土した。 今月10、11日の現地説明会には全国から
アムステルダム国立美術館のアジア館に展示されている仁王像。その故郷は島根県仁多郡奥出雲町にある岩屋寺だ=2023年6月、筆者撮影 ヨーロッパ唯一の仁王像は、アジア館の目玉 アジア館地下ギャラリーの一番奥で、静かににらみをきかせて来館者を待ち受ける阿形像と吽形像は、身の丈2メートル37センチの木像だ。 美術館によれば、作者は不明で14世紀に造られたものらしい。阿形像の後頭部内側にある墨書から、すでに廃寺となった島根県仁多郡奥出雲町にある岩屋寺(いわやじ)にあったものと判明している。 そして、この墨書と岩屋寺の古文書から、運慶や快慶を生んだ「慶派」の仏師康秀(こうしゅう)が像の修復を行っていたこともわかった。日本の古美術は、出所を明かさずに売買されることが多いらしく、このように詳細が明らかになることは珍しい。 2004年、アジア館のチーフキュレーター、メノー・フィツキさんは、京都の古美術商でこ
輪島市門前町にある曹洞宗の「総持寺祖院」は、国の登録有形文化財となっている17の歴史的な建造物すべてに被害が確認されています。 このうち、正面に立つ山門から続く回廊は全体にわたって、基礎部分から大きく倒壊し、原形をとどめていません。 また、歴代の高僧をまつる大祖堂は門が外れ、壊れていました。 国の登録有形文化財のほかにも、僧侶が修行を行う僧堂では瓦が落ちるなど屋根が激しく損傷しているほか、境内では、石畳がめくれ上がったり、灯籠が倒れたりする被害が広い範囲に及んでいます。 寺は、専門家を呼んで被害の状況を詳しく調査したうえで、今後について検討していくとしています。 2007年に発生した能登半島地震でも被災した総持寺祖院は、3年前の2021年に耐震工事や修復を終えたばかりでした。 寺の総務などを担う副監院の高島弘成さんは「14年間、苦労を重ねてようやく形になったというところでまた被害が出てしま
国指定史跡「橘樹官衙(たちばなかんが)遺跡群」(川崎市高津区千年など)で復元工事が進められている飛鳥時代(7世紀後半)の倉庫1棟で、屋根のかやぶき作業が行われている。川崎市教育委員会は18日、見学会を開催。好天の中、多くの人が訪れ、いにしえに思いをはせた。(小田克也) 市が遺跡群で整備中の歴史公園は来年5月中旬にオープン予定。倉庫は公園の中心となる建物で、2月までに完成する見通し。市教委によると、飛鳥時代の倉庫は現存せず全国初。既に床や板壁が組み立てられ、かやぶき作業は13日に始まった。12月末までに終えるという。 かやは、ススキなど細長い茎が屋根をふくのに使われる草本植物の総称。市教委の説明では、飛鳥時代、屋根をふくため使われたのは瓦、板、かやのほぼ3種類だが、瓦は現地調査で見つかっていない。また、道具が今ほど発達していない時代、木を切って板を用意するのはかなり労力が必要で、板ぶきは大王
虎塚古墳を囲み、市民ら200人が見守っていた。 茨城県勝田市(現ひたちなか市)市教育委員会の文化財担当、鴨志田篤二(75)は入庁1年目ながら、石室につながる扉石の前に立った。 1973年9月12日午前10時52分。市職員が数人がかりで重い扉石をゆっくりと開ける。1400年前と現代の空気が混じり合った。 見えたのは、薄暗い石室内の天井から垂れ下がった草木の根っこ。目を凝らすと、何本もの根の向こうに赤い幾何学文様が見え、思わず叫んだ。 「壁画だ!」 調査団長で明治大教授の大塚初重(故人)が石室内を確認。壁画発見を市民に伝えると、大きなどよめきと拍手が起こった。 虎塚古墳は市南東部の東中根台地の前方後円墳。7世紀初めに造られ、全長56・5メートル。扉を開けたのは市史編さん事業の一環で、後円部で見つかった横穴式石室を調べるためだった。 「壁画があるなんて誰も考えていなかった。感動した」。鴨志田は発
国の文化審議会(佐藤信会長)は20日、群馬県前橋市総社地域に広がる古墳群のうち、すでに国史跡に指定済みの3基に新たに2基を加え、5基合わせて「総社古墳群」と名称変更するように盛山正仁文部科学相に答申した。古墳群全体の歴史的価値が初めて正式に評価された形で、市は今後、保護や情報発信を強化する。 答申によると、すでに国史跡に指定されている二子山古墳、宝塔山古墳、蛇穴山古墳を統合。遠見山古墳、愛宕山古墳を追加指定し、5基合わせて総社古墳群とする。 5世紀後半から7世紀後半にかけて築かれた東日本有数の古墳群で、当時の古墳の形や埋葬方法の変遷、ヤマト王権との深い関連がうかがえるのが特徴。近くに上野国分寺跡、山王廃寺跡などの重要史跡もある。 市は2017年度から古墳群の全体的な価値などを調査してきた。答申を受け、山本龍市長は「市の成り立ちや発展を知る上で必要不可欠な史跡。価値を損なうことなく、未来へと
十五郎穴横穴群が国指定史跡になることを喜び合うひたちなか市生活・文化・スポーツ公社の稲田健一文化課長補佐と同横穴群を所有する西野茂行さん(右)=同市中根 国の文化審議会(佐藤信会長)は20日、茨城県ひたちなか市の「十五郎穴横穴群(じゅうごろうあなよこあなぐん)」を史跡に指定するよう、盛山正仁文部科学相に答申した。近く答申通り指定され、茨城県の国指定史跡は計34件、同市では3件目となる。 同横穴群は、那珂川支流で同市中根の大川と本郷川に挟まれた舌状台地南側に形成された三つの台地の崖面に造られた横穴墓群。大きく三つの支群に分けられ、北端の台地から「指渋(さしぶ)支群」「館出(たてだし)支群」「笠谷(かさや)支群」と呼ばれている。 古墳時代終末期から平安時代初頭にかけて造られたとみられ、国内最大規模の集団埋葬墓。1975年代からの本格調査で274基が確認されており、未知のものを含めると総数500
国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」に登録されている群馬県高崎市の古代碑「上野三碑」の一つ、多胡碑(同市吉井町池)の碑身の上に載った笠石の正しい向きが、前後逆だったことが分かった。これまでに研究者が論文で指摘しており、碑の保存修理に向けて市が検証し、確認された。少なくとも江戸時代以降に何度か向きが変わっており、正しい位置が明らかになっていなかった。市は11月から行う碑の保存修理に伴い、笠石を水平方向に180度回転させる。碑は建立当時の1300年前の姿に戻る。 多胡碑は711年に建立された石碑で、碑文が書かれた碑身の上に屋根のような笠石が載っているのが特徴。笠石は風雨から碑文を保護する役割がある。 市が碑の保存修理を検討する中で、笠石の向きを指摘する下仁田町歴史館の秋池武館長の論文を詳細に検証し、碑の3D画像を解析した。その結果、正面に向かってすぼまる台形の向きに置くと碑身の形に
ことし4月、宮崎市の遺跡の発掘現場で土砂が崩れ、作業中の職員が土砂に巻き込まれた事故を受けて、市は現場に掘削の専門家を配置することなどを盛り込んだ新たな基準を設けました。 ことし4月、宮崎市浮田の遺跡の一部の発掘現場で、土砂が崩れ、作業中の宮崎市文化財課の男性職員が土砂に巻き込まれて、今も意識不明の重体となっています。 これを受けて有識者などで作る外部検証チームが、事故の状況などについて報告書をまとめました。 それによりますと事故当時、職員は、幅1.1メートル、深さ1.4メートルの穴の中で作業をしていたところ別の作業員が重機で掘削中に壁の土などが崩落し、400キロ近くの土砂が直撃したということです。 再発防止を図るため市では、現場に国家資格をもつ掘削作業に精通した職員を配置すること、ひとりで作業時間を作らないようにすること、それに掘る穴の形状や大きさの目安などを盛り込んだ新たな基準を設けま
anond:20230731103637 ネイティブ香川民じゃなくて転勤で来た関東地方からの移住者だけど、香川で享受してる文化を挙げておく。 文化財割と多い。もちろん京都・奈良の比じゃないけど、狭い県の割にはあちらこちらに文化財がある。やっぱりなんだかんだで讃岐国は中央に近かったからかな。四国遍路もあるし。 国宝も、建物だけで2件ある。増田の故郷の県は香川県よりずっと広くて人口も多いけど、建造物の国宝がないので、正直羨ましい。近所にある国宝も見に行った。京都や奈良で感じるような、荘厳! という感じではなく、地味な佇まいだったけど、ここで千年近くもの時を閲してきたんだと思うと自然と厳かな気持ちになる。 (追記)丹下健三の香川県庁東館忘れてたわ! 何も知らずに県庁に行ったときに「やたらと作りがオシャレだな???」と思って調べたら重要文化財にもなってる丹下健三作品でビックリした。初めて行ったとき
2005年、沼津市で歴史的に「重要」な古墳が見つかった。しかし、そこは道路の建設予定地。“道路”か“古墳”か…長らく論争が続いたが市は2023年7月、道路と古墳の両立を目指した工事の入札を公告した。 古墳時代最初期に築造された高尾山古墳 沼津市で見つかった高尾山古墳(2016年撮影) この記事の画像(11枚) 2005年、沼津市東熊堂で見つかった高尾山古墳(旧名:辻畑古墳)。全長62mの前方後方墳で、墳丘内の構造や出土した土器を調べたところ「西暦250年頃かその少し前」に築造されたと推定されている。 古墳時代は邪馬台国を治めた卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳(奈良県桜井市)から始まったとされ、その時期は西暦250年頃と言われている。このため高尾山古墳は箸墓古墳と同時期の古墳であると同時に、弘法山古墳(長野県松本市)や高部30号墳・32号墳(千葉県木更津市)と並んで古墳時代の最初期に東日本で築
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