妙覚寺(みょうかくじ)は、京都市上京区にある日蓮宗の由緒寺院(本山)の寺院。山号は具足山。本尊は十界曼荼羅。塔頭は善明院、實成院、玉泉院の3院ある。 歴史[編集] 日実は、もとは妙顕寺の僧であったが、教義や後継問題をめぐる寺内の意見対立のため同寺から離脱すると、信徒で豪商の小野妙覚の外護を受け、永和4年(1378年)に四条大宮にあった小野妙覚の邸に妙覚寺が建立された。実質的な創立者は日実であるが、妙覚寺では日像を開山、日実を4世としている。 妙覚寺は寛正7年(1466年)に近隣の本覚寺を合併して寺域を広げ、不受不施義の中心的寺院として発展した。 文明15年(1483年)、室町幕府将軍足利義尚の命により、二条衣棚(現・京都市中京区)に移転した[1]。 天文5年(1536年)の天文法華の乱で伽藍が全焼し、堺に避難した。その後、天文11年(1542年)に後奈良天皇が法華宗帰洛の綸旨を下すと、妙覚
『日本史』目次 日本二十六聖人記念館の隣接する長崎市・西坂公園内にあるルイス・フロイス記念碑 ルイス・フロイス(葡: Luís Fróis [luˈiʃ frɔjʃ]、1532年 - 1597年7月8日(慶長2年5月24日))は、ポルトガルのカトリック司祭、宣教師。イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記したことで有名。 生涯[編集] 1532年にリスボンに生まれる。1541年、9歳でポルトガルの宮廷に仕え、1548年、16歳でイエズス会に入会した。同年、10月に当時のインド経営の中心地であったゴアへ赴き、そこで養成を受ける。同地において日本宣教へ向かう直前のフランシスコ・ザビエルと日本人協力者ヤジロウに出会う。このことがその後の彼の人生を運命付けることになる。1561年にゴアで司祭に叙階され、語学と文筆の才能を高く
我々の時間についての遠近感は、時としてとんでもなく歪むが、それに気付く機会があまりない。 だから、何か一つの事項について年表をつくると、背筋が伸びるかのように、縮んでいた時間感覚を修正できる。 自分の経験だと、自分が生まれる前の、近現代あたりが、かなりアバウトにいっしょくたにされていることが多い。サルトルの『嘔吐』がベストセラーになるのはもっとずっと後のように思っていたが、実際は1946年である。 これは周りに質問してみるといい。世代によっては「70年代あたり」に「サルトルがブームだった」となってたりするので、自分と違う世代の人と質問し合うとおもしろい。 ベストセラーの悪口をいうにしても、ファクトを整理しといた方がいいと思って作った私物くさいリストであるが、いろいろツッコミどころや「発見」のしどころがあると思うので公開してみる。 現在に近づくほど、これまた私見だが、ベストセラーと
いわゆる「網野史観」というのがある。2004年に亡くなった歴史学者網野善彦氏らが提唱した、権力者よりむしろ民衆に注目する歴史のとらえ方、とでもいえばいいだろうか。歴史学者の間ではいろいろな見方があるらしいが、現存するさまざまな資料と整合的なところがたくさんあるし、少なくとも素人である私の目から見れば、「えらい人々」の歴史よりよほど面白く説得力がある。 この本は、網野史観にも似た「民衆からの視点」をもって戦国時代を見たもの、といえる。戦国時代というと、私たち素人はつい、合従連衡とか下克上とか、天下統一へ向けた武将たちのドラマとかロマンとかみたいなものばかり思い浮かべてしまう。その「陰」で民衆は泣いていたのでは、なんて想像する人も多いだろう。戦乱の世にあって、家族との平和な日々を夢見ながらも横暴で権勢欲旺盛な君主に駆り出され泣く泣く戦場へ、なんて今ふうに考えてしまいがちだが、とんでもない。そん
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く