2020-08-23 15:12 自分はこの目で見てきたんだ! 日本の「洗い立てのような清潔さは真実だった」=中国報道 中国メディアは、実際に日本を旅行で訪れたことがあり、日本の清潔さを実際に体感した中国人の視点で「日本の真の清潔さ」を紹介する記事を掲載した。(イメージ写真提供:・・・・
増田聡くんがツイッターで、奨学金について考察している。 もう奨学金という名称を禁止すべきではないか。学生向け社会奉仕活動付きローンとか、強制労働賃金(返済義務あり)とか、いいのがとっさに思いつかないけど、現実を的確に解釈しかつ人口に膾炙するキャッチーな概念をこういうときにこそ考案するのが人文学の仕事なのではなかろうか。マジで。 すくなくとも現状の奨学金は奨学金ではなく貸学金と呼ぶべきだよな。 貸学金:たいがくきん。うっかり借りてしまうと社会奉仕を義務づけられ単位取得が滞りしまいには退学に追い込まれてしまう、恐ろしい学生ローンのこと。 今知ったんですが「貸学金」という言葉は中国語に存在しまして、うちの留学生の王さんにきいたところを総合するとほぼ日本の学生支援機構「奨学金」と同種の学生貸付制度であるようだ(99年開始だとのこと)。一方で、中国には返済不要のちゃんとした奨学金も存在する。よっぽど
僕は週末に、親子を対象にした野外活動・自然観察会イベントのボランティアスタッフをしていて、幼稚園から小学校低学年くらいの子供たちと外で遊ぶ機会が多い。彼らにとって「力いっぱい遊んでくれる、無茶の利くお兄さんキャラ」というのは貴重らしく、周りに集まってくるのを見るのは僕にとってもいちいち嬉しい。 さて、お子さんをお持ちの、あるいは親戚や近しい方に子供がいらっしゃる方ならよくご存知だと思うけれど、小さい子供は本当によく動く。どんだけエネルギーが蓄えられているんだとこちらが不思議になるくらい動く。女の子がませた素振りを見せて手を繋いできたり質問をマシンガンのように浴びせてきたりするのに対し、男の子は「タタカイ」が好きで、暇さえあれば体当たりやぼっこ(棒のこと・エゾの方言)でこちらに攻撃をしてくる。で、いつも僕はそれの相手をしているのだけれど、妙にそれがご好評頂けているようで、なぜかと思って保護者
来年も作りたい!ふきのとう料理を満喫した 2024年春の記録 春は自炊が楽しい季節 1年の中で最も自炊が楽しい季節は春だと思う。スーパーの棚にやわらかな色合いの野菜が並ぶと自然とこころが弾む。 中でもときめくのは山菜だ。早いと2月下旬ごろから並び始めるそれは、タラの芽、ふきのとうと続き、桜の頃にはうるい、ウド、こ…
【ニューヨーク=松尾理也】親にとっては極めて気にかかるものの、公に取りざたすることには米国でも根強い抵抗がある「先生の能力評価」をめぐり、米紙ロサンゼルス・タイムズがこのほど、子供たちの学力試験結果を用いた統計分析をもとに、ロサンゼルス市内約6000人の教師を実名で5段階にランク付けした結果を公開した。タブーを破るこの「壮挙」は大反響を呼ぶ一方、教職員組合は猛反発し、同紙のボイコットにまで発展しそうな雲行きだ。 対象になったのは小学3−5年生を受け持つ教師。過去7年間のカリフォルニア州統一学力テストの結果が分析資料として使われた。指導した児童の成績の向上や低下を教師の能力を示す指標ととらえる「付加価値分析」の手法を用い、有力シンクタンク「ランド研究所」の専門家がデータ処理にあたった。 教師を「もっとも能力が低い」から「もっとも能力が高い」まで5段階にランク付けし、実名で検索できるようにして
前者について言えば、国家による「忠君愛国」の号令での職場では上司、経営者・資本家・独裁者への忠誠の強制、家庭では両親への忠誠の強制、国家では天皇陛下と官僚への忠誠。どれもこれも絶対的で無条件的に従え、という命令。命令の内容など問題にならない。口答えするな、ということ。これが保坂のぶとさんが問題視する点、日本的特殊性、日本の特殊風土の源泉でしょう。 これに対し、民主主義は子供でも労働者でも国民でも誰もが人間として対等平等だという科学主義にたち、子供でも労働者でも国民でも「正しいことは正しい」と意見を表明し、「身分」「地位」などとは無関係に主張できること。 それを子供の癖に、労働者の分際で、専門知識のない国民は専門家の政治家や官僚に任せとけばいい、文句があるならお前は親と同じことができる?経営者と同じことができる?代議士、官僚と同じとができる?できないんだったら、黙ってろ、従え。こんな民主主義
「男女別教育は学力アップ」 シンポで報告 - MSN産経ニュース http://sankei.jp.msn.com/life/education/100815/edc1008152034007-n1.htm 結論から言うと、男女別にすると成績が上がるということはありえる。その理由は、世間に存在する性への偏見のせいだ。 男女が混ざっている環境では、男は「女性的役割」とされていることはせず、女は「男性的役割」とされていることはしない、ということになりやすい。一方、男だけ、または女だけの集団では、男も女も「男性的役割」「女性的役割」とされていることの両方をこなさなければならなくなる。つまり、別学のほうが、性偏見に囚われず自分のしたいことに挑戦しやすい、というメリットがあったりするのだ。 ブコメでも、それを指摘しているコメントが見受けられる。 id:n-y-a 女子校についてはジェンダーにとらわ
結構前に読み終えて紹介するかどうか迷った一冊。いくつかの本屋をめぐったがほとんどの本屋に平積みされているだけあって、非常に良いことが書いてあるのだが、僕の感想は「理念はわかるんだけども、事例が不適切すぎる」。なぜamazonでこれほど絶賛されているかわからないし、教育社会学の本を2〜3冊読んだ人であれば、本書から読み取れるのは、学校の先生は大変だということと、著者がいい人なのだろうな、ということくらいである。 教育幻想 ──クールティーチャー宣言 (ちくまプリマー新書) 作者:菅野仁筑摩書房Amazon 教育幻想 クールティーチャー宣言 (ちくまプリマー新書)posted with amazlet at 10.08.01菅野 仁 筑摩書房 売り上げランキング: 105444 おすすめ度の平均: なかなかすぐれた本だが… 教育者でなくても必読 すべての人のための「新しい」教育論の本 クールテ
すごい物を見てもへこたれない人 なぜ、へこたれたのかを分析しよう精神論だったり、「才能」や「努力する才能」だよ、という言葉で片づけるのは簡単だけど、それでは何もプラスがないし、つまらない。ここはもう少し細かく考えてみよう。 すなわち、君はなぜ「できない」「もう無理」と思ったんだい? 一つには環境要因があるだろう。お金、時間、周囲との人間関係…。これらはすぐに改善するのはなかなか難しそうだ。 だけどもう一つ、「何をすればいいのか分からず途方に暮れた」「あんなこと、今の自分には難しすぎる」…努力しなきゃと思っていても、一体どこでどう努力すればいいのか分からない。そういう理由なら、それは何とかなるかもしれない。 発達には最近接領域があるまず最初に知っておいて欲しいことがある。人間は1歩先の足場にしか届かない。 これを教育の専門用語で「発達の最近接領域」という。最近接領域とは「自分一人でできる」以
「最近の学生は勉強しない」「非常識だ(受講態度や勉学姿勢その他に関して)」「学力が低下している」「こんなこともできない」「あんなこともできない」...(以下省略)...とぶつぶつ言ってる大学教員がいた場合,ほぼ例外なく,その大学教員のほうこそ,まったく勉強(=研究)しておらず,研究=教育者として非常識で,学力が低く,無能である――ということを,私は数年間の大学教員生活でのゆるぎない確信として獲得した。 昨日もちょっと他人のついーとを見ていてうっかりスイッチが入ってしまった。学生のレポートにおけるコピペをめぐって「過剰に神経質」になる大学教員に対して,である→http://twitter.com/mnaoto/statuses/17389074009。「過剰に神経質」というのは,そういうコピペレポート防止にむけてその教員がとっている対策が,たいていの場合ほぼ無意味であり,非生産的で,かつ,学
先週の金曜に、大阪市役所で大阪市特別顧問の委嘱式というのがあった。 平松邦夫市長から、「委嘱状」というものをいただく。 そのあと市長といっしょに記者会見。 特別顧問就任の「抱負」をどうぞと市長からいわれる。 考えてみれば、そのようなことを言わなければならないに決まっているのであるが、促されるまで、何も考えていなかった。 市長からの依頼は、「ときどき会って、美味しいものでも食べながら、あれこれ話きかせてください」というきわめてアバウトかつフレンドリーなものであったので、改めて「抱負を」と言われて困ってしまった。 市長からはとくに教育方面についての助言をいただきたいとお願いされていたのであるが、ご存じの通り、私の年来の主張は「政治は教育に介入してはならない」というものである。 政治とマーケットとメディアは教育に口を出さない方がいい。 というのは、私の年来の主張である。 教育のことは現場に任せて
半年間のニュージーランド滞在を通じて、体験し、また、取材してきた、学校教育と保護者共同体のあり方について述べてきた。 何度か注意を喚起してきたけれど、この世に楽園や天国などない。ニュージーランドの教育制度は、目を瞠(みは)るような点がたくさんあるといっても「理想」というわけでもない。社会制度における唯一無二の「理想」などというものが、ぼくにはあるとは思えないし、とりわけ「教育」といった、成果が見えにくいものについては、制度の善し悪しを単純化して語るのは非常に難しい。 そういった前提で、ぼくも、ぼくの子どもたちも、ニュージーランドの教育の「良さ」を享受したし、また親であるぼくは、学校理事会やPTAを中心とした風通しのよい「学校共同体」(学校の保護者仲間)との交流を通じて、たくさんのことを勉強させてもらった。本当によい滞在だったと思う。 さて、本連載を続ける中で、しばしば聞かれた問いは、「結局
お休みの日だけれど、取材が二件あるので大学へ。 最初は花王の研究所のみなさん。30 代の中堅どころのチームリーダーのみなさんが「ちかごろのわかいもん」をどうやって組織人に仕立て上げたらよろしいのでしょうかという悩みをかかえていらしたのである。 よくぞ私のところに「それ」を訊きに来られましたな。 Right time, right place とはこのことです。 前日の週刊ポストの取材もほとんど同趣旨のお訊ねであった。 要するに「共同的に生きる」ということの基礎的なノウハウが欠如した社会集団がいるのだけれど、それを「どうしたらいいのか」という問いである。 「どうしたらいい」のかという対症的な問いの前に、「どうしてこのような集団が発生したのか」という原因についての問いが立てられなければならない。 同じことをもう繰り返し書いているので、詳しくはもう書かないが、要するに「自己利益を優先的に追求する
会場からの質問や意見が求められたとき、私は手を上げました。そして名乗った上で 「私は、今多くの高校生を診ています。でも、私は彼女達を非行少女とは思っていません。普通の家庭の普通の少女達だと思っています。どこかの家庭的に問題のある子の問題と思うのでなく、どこにでもいる若者の問題だと思ってこれからの教育を考えなければならないのではないでしょうか。」 「その上で質問なのですが。私の病院に今、高校生が入院しています。もうすぐ夏休みが終わって二月期が始まります。学校を休むために診断書を出さなければなりません。その診断書がもし性交と関係があるということが学校に分かった場合。今、学校は、どんな対応をされるのでしょうか。これからの彼女をケアし、指導しながら支えてくださるのか。それとも、高校生にあるまじきこととして退学させられるのでしょうか。それに寄って、診断書の内容を考慮しなければなりません。どなたか、学
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