過去から現代、未来までを現代風デザインのマップで。
地図帳(ちずちょう)を開いて、日本地図を見てください。日本列島(れっとう)の西南(せいなん)の端(はし)に九州は位置(いち)し、その北部に福岡県(ふくおかけん)はあります。次に、東アジアの地図を上下さかさまにして見てください。日本列島(れっとう)が意外とアジア大陸に近いことや、九州北部と朝鮮半島(ちょうせんはんとう)がとても近いことに気づくでしょう。縄文時代(じょうもんじだい)の終わりごろに、外海(そとうみ)の荒波(あらなみ)にたえられる船(ふね)が作られるようになります。朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の人々が、対馬(つしま)・壱岐(いき)を通って玄界灘(げんかいなだ)沿岸にやって来ました。道具や最新の技術(ぎじゅつ)などを持ちこみ、これを伝えました。そのため、大陸の新しい技術(ぎじゅつ)や文化は、まずは福岡県(ふくおかけん)をふくむ九州北部に根を下ろし、ここから日本列島(れっとう)の各地
Rubyist Hotlinksにインスパイアされて始まったイベント『Rubyistめぐり』。第1回は高橋征義さんをゲストに迎えて、お話を聞きました。 パーソナルコンピュータとの出会い 藤村:こんばんは、藤村と申します。STORES のCTOをやっています。Rubyist Hotlinksをプログラミングを始めた頃にめっちゃ読んでて。 高橋:あれいいですよね。 藤村:いい。プログラマがどういう人たちなのか、なんとなくわかるみたいな、めっちゃ好きなコンテンツだったんですよ。で、ある日、これをもっとやった方がいいと思ったので、弊社でもやってみようとなったのがこのRubyistめぐりですね。ということで第一回は高橋会長に来ていただきました。なぜかというと、この STORES を手伝ってくださっているからというところでございます。 高橋:その話はあんまり外でしてないので、あらかじめお話しておきます
身元不明少女のデスマスク セーヌ川の身元不明少女(セーヌがわのみもとふめいしょうじょ、仏: l'Inconnue de la Seine)は、セーヌ川から溺死体で見つかった身元不明の少女。1900年以降の芸術家の家では、少女のデスマスクを壁に飾ることが流行になった。彼女の顔姿は数多くの文芸作品の題材になった[1]。 経緯[編集] しばしば繰り返される物語によると、1880年代の終わりごろ、セーヌ川のルーブル河岸から一人の少女の遺体が引き上げられた[2]。その遺体には暴行の痕跡がなかったことから、自殺と考えられた。パリの死体安置所の病理学者は、彼女の美貌に心打たれ、型工を呼んで石膏のデスマスクを取らせた。別の記述によると、そのマスクはドイツのあるマスク製造業者の娘から取ったものだという[3]。この娘の身元はついに判明しなかった。 デスマスクの型を取った型工は、ロレンジ一族のモデル製造業者の者
福島県立博物館で開催中の企画展「あにまるず ANIMAL × Zoo ―どうぶつの考古学―」で展示されている、ムササビのはにわがじわじわくるかわいさです。 福島県立博物館のTwitterアカウント(@fukushimamuseum)に投稿された、ムササビのはにわの写真。ピンとしたお耳とくりっとした目、滑空するための飛膜(ひまく)はまさにムササビそのもの。リアル過ぎずかわいくデフォルメされた姿に、なんだかジワジワきませんか。 日本に1つしかないムササビのはにわ 投稿によると、こちらは千葉県成田市の古墳時代後期の遺跡から出土したもので、日本で発見された唯一のムササビのはにわ。犬やイノシシ、馬など古代から人間の身近にいた動物たちのはにわは多数発見されていますが、ムササビのはにわはたった1つだけなんだそうです。 製作理由は古代人のみぞ知る…… 画像に添えられた「それほど身近な動物でもなく、狩りの対
10歳だった。 その時ぼくは、まだ「ソビエト連邦」だったモスクワにいた。 そこで見たのは、「国」というものが劇的に変化する瞬間だった―― 外務省が公開した6000ページにのぼる外交文書。外交官たちの生々しい報告が、私をあの時代に連れ戻した。そして私は、何が起きていたのかを初めて実感した。 (政治部・渡辺信) その書き出しは、文学的だった。 『BUKSOVAT(空転する)。2年1か月のモスクワ在勤を終え帰国する日、空港の暗い待合室で搭乗を待ちながら、ふと、この単語が頭に浮かんだ。ゴルバチョフの始めたペレストロイカを、ひと言で総括するとすれば、まさに「空回りしている」というのが適当ではなかろうか』 1987年11月の「ソ連在勤を終えて」という報告書の冒頭だ。書いたのは、モスクワの日本大使館の政務班長だった角崎利夫氏。これまで私が読んできた硬い外交文書とは異なる表現で、1985年に書記長に就任し
首都圏国電暴動(しゅとけんこくでんぼうどう)は、1973年(昭和48年)4月24日、国鉄労働組合(国労)・国鉄動力車労働組合(動労)の順法闘争に反発した乗客が、首都圏の日本国有鉄道(国鉄)の駅で同時多発的に起こした暴動事件である。なお、事件当時は4・24騒動、4・24事件という呼称も見られた。 事件の素因[編集] 1973年(昭和48年)の春闘で、国労と動労は、運転安全規範などの諸規則を厳格に遵守するとかえって列車の運行が遅延することを逆手に取り、諸規則を必要以上に「遵守」することによってダイヤを混乱させる順法闘争を争議戦術として経営当局に対抗していた。しかし、この順法闘争は利用客からは批判と反発を招くだけの結果に終わり、遂には3月13日朝、高崎線上尾駅など数駅で動労による順法闘争を原因とするダイヤの乱れに激怒した乗客たちが暴動を起こし、鉄道車両や駅施設を破壊して駅周辺を占拠する上尾事件が
バイキングの墓から見つかる死装束にアラビア文字が織り込まれていたことを、スウェーデンの研究者が発見した。これらの衣服は100年以上前に見つかったものだが、バイキング時代の典型的な死装束として片付けられ、そのまま保管されていた。新たに行われた調査により、はるかに興味深いものであることが明らかになった。 死装束が見つかった場所は、バイキングの船葬墓やバイキング時代の主要都市ビルカの墳墓。「興味深いのは、『アラー』という単語が鏡文字で記されていたことです」と、文字を発見したスウェーデン、ウプサラ大学のテキスタイル考古学者アンニカ・ラーソン氏は語る。(参考記事:「有名なバイキング戦士、実は女性だった」) 北欧で見かけない幾何学模様 文字は、絹の帯に銀糸で織り込まれていた。ラーソン氏は、バイキング時代の埋葬に関わる慣習は、死後に天国で永遠の生を得るという思想のほかに、イスラム教の影響も受けていたので
アメリカのニューメキシコ州アラモゴード市には「ビデオゲームの墓場」と呼ばれる埋め立て地が存在します。ビデオゲームの墓場は、1970年から80年代前半にかけて家庭用ゲーム機市場を独占していたものの、1982年にゲーム史上最大の商業的失敗作と呼ばれることとなるゲーム「E.T. The Extra-Terrestrial」の販売不振が原因で会社が分割されることになった「アタリ社」が、大量に売れ残ったロムカセットやゲーム機本体を廃棄処分して埋めた場所とされていました。 廃棄処分の規模があまりにも大きすぎることや、情報が交錯したこともあり、ビデオゲームの墓場を都市伝説と捉える人がいましたが、映像プロダクションのFuel EntertainmentとXbox Entertainment Studiosが共同製作で「ビデオゲームの墓」都市伝説検証プロジェクトを立ち上げ、2014年4月26日に埋め立て地の
Search, watch, and cook every single Tasty recipe and video ever - all in one place! News, Politics, Culture, Life, Entertainment, and more. Stories that matter to you. 戦後70年以上PTSDで入院してきた日本兵たちを知っていますか 彼らが見た悲惨な戦場戦争から生き残り、日本へ帰国しても精神病を患ったとなると一家の恥とされ、故郷に帰れず入院したまま戦後の日本を過ごす兵士たちも多くいました。自身も元復員兵の父を持つ埼玉大名誉教授の清水寛さんに、戦時中の経験によりトラウマを抱え苦しんだ兵士たちの話を聞きました。
本項で解説する地方病(ちほうびょう)は、日本住血吸虫症(にほんじゅうけつきゅうちゅうしょう)[† 1]の山梨県における呼称であり、長い間その原因が明らかにならず、住民らに多大な被害を与えた感染症である。ここではその克服・撲滅に至る歴史について説明する。 「日本住血吸虫症」とは、「住血吸虫科に分類される寄生虫である日本住血吸虫(にほんじゅうけつきゅうちゅう)の寄生によって発症する寄生虫病」であり、「ヒトを含む哺乳類全般の血管内部に寄生感染する人獣共通感染症」でもある[3]。日本住血吸虫はミヤイリガイ(宮入貝、別名:カタヤマガイ)という淡水産巻貝を中間宿主とし、河水に入った哺乳類の皮膚より吸虫の幼虫(セルカリア)が寄生、寄生された宿主は皮膚炎を初発症状として高熱や消化器症状といった急性症状を呈した後に、成虫へと成長した吸虫が肝門脈内部に巣食い慢性化、成虫は宿主の血管内部で生殖産卵を行い、多数寄
飛行機が発明される前、紙飛行機は何と呼ばれていたのでしょう? 電話が発明される前の糸電話の呼称も気になります。 — 安眠練炭 (@aNmiNreNtaN) June 8, 2013 こんなツイートがRTで流れ […] 飛行機が発明される前、紙飛行機は何と呼ばれていたのでしょう? 電話が発明される前の糸電話の呼称も気になります。 — 安眠練炭 (@aNmiNreNtaN) June 8, 2013 こんなツイートがRTで流れてきました。「飛行機が発明される前、紙飛行機は何と呼ばれていたのでしょう?」 考えたこともなかったですが、これ面白い疑問ですね。飛行機がなければ紙飛行機と呼ぶはずもないので、何かしら名前があったはず。 英語でいろいろ検索したのですが、なんとか見つけたのは、比較的質が良いといわれている英語のQアンドAサービスQuora。 # Quoraについては個人ブログの方でこんなことを
小さい頃に「僕たちのご先祖様はどんな人だったの?」と母に聞いたことがあります。 母の回答は「ただの農家だったから何もないよ」というまあ何とも夢のないものでした。 自分の苗字にも「田」が入っているのでそうなんだろうなと納得しました。(※実際には大名でも「田」が入る人はいます) でも、自分のず〜っと前には確実に自分と血の繋がったご先祖様がいると思うと何とも不思議な気持ちになりました。 江戸時代にも鎌倉時代にも弥生時代にも確実にいたのです。 で、大人になった今でもそういうことを考えたりするのですが、郷土史の研究なんかをしていると特にそういうことを考えます。 「この事件が発生した時、自分のご先祖様は何をしていたのかな?」「無理やり戦に連れて行かれてケガをしたり死んだりしてるのでは?」などと考えて、郷土史の資料の中に名前が出てこないかと期待するわけですが、そもそも苗字以外は知らないわけですから結局は
ナチスの恐ろしいレニングラード包囲戦を振り返ろう。現在と当時の街の様子が一度に見てとれる写真たち(ギャラリーあり)2012.01.24 22:0010,013 言葉を失います。 写真家セルゲイ・ラレンコフ(Sergey Larenkov)さんが自身の新しい作品を公開しました。彼は、一枚の写真上に同じ街の第二次世界大戦時と現在の様子をPhotoshopで加工したものを並べる、というユニークな作風で知られています。そんな彼の新作はナチスによる「レニングラード包囲戦」にフォーカスがあてられています。 ここでレニングラード包囲戦について少し説明しておきたいと思います。 レニングラード包囲戦は、ナチス軍が1941年9月8日から1944年1月18日までの872日もの間、レニングラード(現サンクトペテルブルク)を包囲し、それによって150万人ものソ連軍とレニングラード市民が犠牲になったと言われている悲惨
ダヴィッド『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』 ナポレオン一世皇家の紋章 ナポレオン・ボナパルト(フランス語: Napoléon Bonaparte、別名(1794年以前): ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ、Napoleone di Buonaparte、1769年8月15日 - 1821年5月5日)は、フランス革命期の軍人、革命家で、フランス第一帝政の皇帝に即位してナポレオン1世(フランス語: Napoléon Ier、在位:1804年 - 1814年、1815年)となった。1世から3世まで存在するが、単にナポレオンと言えばナポレオン1世を指す。 フランス革命後の混乱を収拾し、軍事独裁政権を確立した。大陸軍(フランス語: Grande Armée グランダルメ)と名づけた軍隊を築き上げ、フランス革命への干渉を図る欧州諸国とのナポレオン戦争を戦い、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリ
■編集元:ガイドライン板より 573 水先案名無い人 :2011/06/25(土) 00:22:38.96 ID:y6Y5t8Vh0 53 名前:名無しさん@涙目です。(香川県) 投稿日:2011/06/24(金) 23:37:16.85 ID:rVjKmmce0 1962年のアイス、4本に1本は大腸菌がついていた 昔の「暮らしの手帖」だそうな。昔の雑誌はいい記事を大胆に書いてたんだな。 589 水先案名無い人 :2011/06/25(土) 01:50:54.18 ID:yfvqhZI20 >>573 暮らしの手帖は広告入れてないから、好きに書けたんだよな 各社家電製品の比較テストがガチで毎号楽しみにしてた 今はどうかしらん 676 水先案名無い人 :2011/06/25(土) 20:52:18.79 ID:0KQSZmZNO >>573 サザエさんにそういう回があ
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