私の安否情報のスクショが出回っているらしい。ここまで1か月以上かかった。狭苦しい鍵アカウントから、ようやく私の“本来の肉体”であるところの @Fukuso_Sutaro に戻ってくることができた。ちょうどこの記事が完成したこの日にだ。なんとタイミングの良いことか! 私がインターネットの海の奥底に息を潜めていたのは、私の身の安全を確保するため、そしてこの記事を完成させるためである。 昨日まで、私は“複素数太郎”であることをやめていた。“複素数太郎”はたしかに死んでいたのだ。ごく一部の安否を隠し通せないであろう人々には「現実世界にやばいやつが干渉してきそうなので、もし死亡説など出ても公然と否定するようなことはしないでください」とお願いした。オープンシェアハウスなどの人が多く集まる場所では毎回このアナウンスをしていた。“お願い”の射程範囲の人々は3桁にものぼった。にもかかわらず、少なくとも現実世
おそらくは誰でも、可哀想なものや倫理規範に反するものへの薄暗い興味を持っていると思います。私も作品で悲壮な場面は書きますし、それは悲壮な状況に関心があるから書いています。ただ、自分で可哀想なものを書くときには、悲壮感をフェティッシュで片付けないようにしています。 これに関しては精神論めいた結論になってしまいますが、興味(またはフェチ「萌え」)を持つからには「当事者意識を持たなければならない」と考えています。 たとえば現実で合意のない暴力(ネットスラングで「リョナ[1]」)を振るってはいけないのは当然です。しかし、フィクションのリョナを読者として楽しむときも、「現実では望まない暴力をうけて苦しんでいる存在がある」ことの自覚は忘れない方が良いと思うのです。 性暴力の被害者が、自分が受けた暴力について思い出されたり、性暴力を肯定する作品を見て傷つくことを「セカンドレイプ」といいます。[2] たぶ
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