僕は或初夏の午後、谷崎氏と神田をひやかしに出かけた。谷崎氏はその日も黒背広に赤い襟飾りを結んでゐた。僕はこの壮大なる襟飾りに、象徴せられたるロマンティシズムを感じた。尤もこれは僕ばかりではない。往来の人も男女を問はず、僕と同じ印象を受けたのであらう。すれ違ふ度に谷崎氏の顔をじろじろ見ないものは一人もなかつた。しかし谷崎氏は何と云つてもさう云ふ事実を認めなかつた。 「ありや君を見るんだよ。そんな道行きなんぞ着てゐるから。」 僕は成程夏外套の代りに親父の道行きを借用してゐた。が、道行きは茶の湯の師匠も菩提寺の和尚も着るものである。衆俗の目を駭かすことは到底一輪の紅薔薇に似た、非凡なる襟飾りに及ぶ筈はない。けれども谷崎氏は僕のやうにロヂックを尊敬しない詩人だから、僕も亦強ひてこの真理を呑みこませようとも思はなかつた。 その内に僕等は裏神保町の或カッフエへ腰を下した。何でも喉の渇いたため、炭酸水か
20世紀フランスを代表する思想家で社会人類学者のクロード・レヴィ=ストロースが10月30日、死去した。100歳。 第二次大戦中に亡命した米国で構造言語学を導入した新しい人類学の方法を着想、戦後フランスで実存主義と並ぶ思想的流行となった構造主義思想を開花させた。「未開社会」にも独自に発展した秩序や構造が見いだせることを主張し、西洋中心主義の抜本的な見直しを図ったことが最大の功績とされる。 サルコジ大統領は3日の声明で「あらゆる時代を通じて最も偉大な民族学者であり、疲れを知らない人文主義者だった」と哀悼の意を表した。 1908年11月28日、ブリュッセルのユダヤ人家庭に生まれた。パリ大学で法学、哲学を学び、高校教師を務めた後、35年から3年間、サンパウロ大学教授としてインディオ社会を調査。41〜44年にナチスの迫害を逃れて米国に亡命、49年の論文「親族の基本構造」で構造人類学を樹立した。 自伝
「共喰(ともぐ)い」で芥川賞を受賞した田中慎弥さん(39)は、ジャケットに紺のタイ、デニムパンツという服装。5度目のノミネートを経ての受賞だったが、その顔に笑みはなく、浮かない表情で会見場に登場。脱力したような、斜に構えたような態度で席についた。 --まず一言 「確か、(米女優の)シャーリー・マクレーンが何度もアカデミー賞にノミネートされた末にようやく取ったとき、『私がもらって当然だと思う』と言ってたらしいが、だいたいそういう感じです」 《会場、爆笑》 「4回も落とされたので、断るのが礼儀といえば礼儀。でも私は礼儀を知らないので、(芥川賞を)もらうことにした。断って、気の小さい選考委員-都知事が倒れて都政が混乱してはいけないので。都知事閣下と都民各位のために、もらっといてやる。もう、とっとと終わりましょうよ」 《体をひねって嫌がる田中さん》 --今回は東京ではなく地方在住の作家の受賞が
桑原 武夫(くわばら たけお、1904年〈明治37年〉5月10日 - 1988年〈昭和63年〉4月10日)は、日本のフランス文学・文化研究者、評論家。京都大学名誉教授。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は従三位・勲一等。人文科学における共同研究の先駆的指導者でもあった。芸術・思想・社会・教育など文化全般に通じ、共同研究を推進。その成果は『ルソー研究』(1951年)などの著作に結実した。『第二芸術ー現代俳句について』(1946年)での俳句批判は物議を醸した。 来歴・人物[編集] 福井県敦賀郡敦賀町蓬莱(現・敦賀市)の出身[1]。父は京都帝国大学教授で東洋史専攻の桑原隲蔵(じつぞう)。敦賀は里帰り出産(両親とも同地の出身)の地であり、このような場合は京都生まれと称するのが通例だが、本人が敦賀に愛着を持ち出身地として記載を続けた。 京都一中、三高を経て、1928年(昭和3年)
あまりにもテレビアニメ『Fate/Zero』が面白かったため、原作であるタイプムーン・ブックスの書籍版を一夜で全部読み返してしまった。この面白さは何なのだろうか。と思ってすこし考えてみたのだが、考えてみて分かったことは、やはりこれは本家『Fate/stay night』ないし『Fate/hollow ataraxia』とは違うという事実だった。ノリ的には、虚淵玄がクロード・シモンで奈須きのこがアラン・ロブ=グリエとかそういう感触である。こんな適当なことはフリーペーパーでしか書けまい。しかし私的にはこれはなかなか言いえて妙だというか、半分はちょっと異なるのだが、半分は事態をうまく説明している気がするのだ。 というのはかつてヌーヴォー・ロマンについて語った浅田彰は「シモンは本物でロブ=グリエは偽物」という発言を『早稲田文学』でしていたはずである。これを思い出してのことだった。浅田の発言の主旨
ユーモアあふれる“どくとるマンボウ”シリーズや、大河小説「楡家(にれけ)の人びと」で知られる作家、芸術院会員の北杜夫(きた・もりお、本名・斎藤宗吉=さいとう・そうきち)氏が、24日死去した。 84歳だった。告別式は親族で行う。 近代短歌を代表する斎藤茂吉の次男として東京に生まれた。旧制松本高を経て東北大医学部に進学。卒業後の1954年、初の長編「幽霊」を自費出版した。 60年には、水産庁の調査船に船医として半年間乗った体験をユーモアを交えて描いた「どくとるマンボウ航海記」を発表。「昆虫記」「青春記」などマンボウものを出版して人気を博した。 同年、ナチスと精神病の問題を扱った「夜と霧の隅で」で芥川賞。64年には斎藤家三代の歴史を描いた「楡家の人びと」を刊行、毎日出版文化賞を受けた。「さびしい王様」など、大人も子供も楽しめる童話でも親しまれた。「青年茂吉」など父の生涯を追った評伝で98年、大仏
ロード・ダンセイニ ロード・ダンセイニもしくはダンセイニ卿(Lord Dunsany、1878年7月24日 - 1957年10月25日)はアイルランドの小説家、軍人。フルネームは第18代ダンセイニ男爵エドワード・ジョン・モアトン・ドラックス・プランケット(Edward John Moreton Drax Plunkett, 18th Baron of Dunsany)[注 1]。 生涯[編集] ダブリン北部ミース県のタラの丘近くに建つダンセイニ城を居城とする、いわゆる「アングロ・アイリッシュ(英語版)」と呼ばれる支配階級の出身である。ロンドンに生まれ、12歳の時父の死去により爵位を継承する。 成人後はイギリス陸軍に入隊。1899年に南アフリカでの第二次ボーア戦争に従軍しボーア人共和国と戦う。1901年に帰国、ロンドンに居を定め第7代ジャージー伯爵の娘ベアトリス・ヴィリアーズと結婚。 作家と
ジョン・ロナルド・ルーエル・トールキン[* 1](John Ronald Reuel Tolkien, CBE, FRSL、1892年1月3日 - 1973年9月2日)は、イギリスの文献学者、作家、詩人、イギリス陸軍軍人。『ホビットの冒険』や『指輪物語』の著者として知られる。 概略[編集] オックスフォード大学で学び、同大学ローリンソン・ボズワース記念アングロ・サクソン語教授(1925年 - 1945年)、同大学マートン学寮英語英文学教授(1945年 - 1959年)を歴任。文学討論グループ「インクリングズ」のメンバーで、同会所属の英文学者C・S・ルイスや詩人チャールズ・ウィリアムズ(英語版)と親交が深かった。カトリックの敬虔な信者であった。1972年3月28日エリザベス2世からCBE(大英帝国勲章コマンダー勲爵士)を受勲した。 没後、息子のクリストファは彼の残した膨大な覚え書きや未発表の
ロジャー・ゼラズニイ(Roger Joseph Christopher Zelazny, 1937年5月13日 - 1995年6月14日)は、アメリカ合衆国の小説家、SF作家、ファンタジー作家。ゼラズニイ(早川書房、東京創元社、サンリオ)の表記はセラズニイ(サンリオ)、セラズニィ(角川書店)、ゼラズニーとも。ネビュラ賞を3度、ヒューゴー賞を6度受賞し、長編では『わが名はコンラッド』(1965年)と『光の王』(1967年)で受賞している。 神話をモチーフにした華麗なスタイルとアクションが人気を呼ぶ。1960年代に、サミュエル・R・ディレイニー、ハーラン・エリスンらとともにアメリカン・ニュー・ウェーブとも呼ばれた。1970年代以降は、ファンタジーとSFを融合させた作品を多く書いた。また、ジョージ・R・R・マーティンらと共に、多数の作家が競作形式で小説を書くシェアード・ワールドSF小説「ワイルド
やや古いニュースになるが、4月7日に作家の桐野夏生さんにインタビューをした。この春『OUT』に続いて『グロテスク』の英語版が出たので、その宣伝のために全米の各都市を訪れていたのだ。サンフランシスコに来るのを知ったのは、彼女が来る少し前のこと。正月に日本で購入した彼女の本が2月末に船便で届き、それらをすべて読了してクスリが切れたみたいになってK書店に走った時だ。 <愚かなる熱情> 入り口に桐野さんのサイン会のお知らせがあるではないか。宝くじに当たった気分。神様のお導きだ、絶対にインタビューを申し込もうと即座に思い、未読の『グロテスク』やら『魂萌え!』など著作4作、上下巻7冊の文庫を買って帰った。 即、古い名刺を探し、05年秋に私の本が出た時のK書店との苦い思い出(当店はすべて買い取り制なので、売れる可能性のない本は置けないと本の扱いを断られた)を掻き消しつつ、店長らしき男性にメールを出す。
新しいエチカに向けて 鷲田 清一インタビュー(聞き手:豊郷 博) 0 鷲田清一氏のプロフィール 1 めいわくかけてありがとう 2 Philosophy to the People 3 ホスピタリティ――弱いものに従う自由 4 概念を崩すこと 5 新しい文体へ向けて 初出:『ネイチャー・インターフェイス』創刊3号 http://www.natureinterface.co.jp (C)Kiyokazu Washida 鷲田清一関連リンク 人気作家・田口ランディとの対談 「立ち直りたいんなら、やっぱりSMでしょ」 http://www.shobunsha.co.jp/html/tyosya/tyosya-09-1.html 鷲田清一先生のお仕事 http://bun70.let.osaka-u.ac.jp/washida.html
「みえてはいるが誰れもみていないものをみえるようにするのが、詩だ」と、かつて詩人・長田弘は書いた。哲学についても同じことが言えるとおもう。このたびの東日本大震災と福島原発事故は、見えているのに多くのひとが見てこなかったさまざまの問題を浮き彫りにした。浮き彫りになったそれらを哲学の問題としてどう受けとめるかについて、考えてみたい。
講談社から9月14日発売の『僕とツンデレとハイデガー』。表紙を描かれている小路あゆむ先生のイラストが文中にも多数掲載されている、ライトノベル風の哲学書になっている。そこで今回は、過去に『萌え萌えジャパン』で「オタク三原則」を提唱した事もある著者の堀田純司先生にインタビューを敢行!電子書籍版も同時リリースされたという話題作に迫る! ■「哲学と、女の子とイチャイチャする話を同時に書きたかった」 ―――本を書かれたきっかけは何でしょうか? 堀田純司先生(以下、堀田):小説家の桜坂洋さんが出してきた「僕とツンデレとハイデガー」というタイトル言葉がハマったという冗談みたいなスタートなんです。ですが語呂の良さだけではなく、「現代に必要なのはハイデガーだ」という気持ちは常々感じていました。ハイデガーとツンデレというギャップのあるものを組み合わせる事で、新しいものが生まれるんじゃないだろうかという試みがき
■編集元:ニュース速報板より「星新一 生誕85周年」 1 名無しさん@涙目です。(神奈川県) :2011/09/06(火) 00:02:20.11 ID:0TTP6ETM0 ?BRZ(10000) ポイント特典 ソース http://www.google.co.jp/ 続きを読む
2011/8/14に開催された翻訳ミステリ大賞シンジケート主催のミステリ酒場第2弾「ジェイムズ・エルロイ酒場」の実況・感想をまとめさせていただきました。場の雰囲気をそのまま反映しようとして、ちょっと長めになっています。気になるところだけはしょってご覧いただいても問題ないので、お暇なときにみてください(不備な点はどうぞご寛恕ください)。新作『アンダーワールドUSA』(文藝春秋)も絶賛発売中。おもしろいよ!
藤田直哉「小松左京追悼――小松左京の“愛”について」 2011年08月09日14:00 担当者より:SF・文芸評論家の藤田直哉さんに、先日お亡くなりになった小松左京氏の追悼文をご執筆いただきました。そして、藤田さんが共編者を務めた『3・11の未来 日本・SF・創造力』(作品社)が近日刊行予定なのですが、本書の序文は「3.11以降の未来へ」と題したもので、それは小松左京氏の絶筆であるそうです。小松作品にご関心をお持ちの方は、ぜひお目を通してみてください。また、藤田さんに『社会は存在しない』、『サブカルチャー戦争』(ともに南雲堂)の話を中心にうかがったインタビューや、藤田さんが聞き手をされた前島賢さんのインタビューなども併せてどうぞ。 更新日:2011/08/09 冥福を祈ることは可能か―― SF作家が亡くなるたびに、そこで表明するべき言葉が「冥福を祈る」ということなのか考えさせられ、言
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く