JAXA相模原キャンパスに展示されている「はやぶさ」の模型やM-Vロケット、 内之浦の射場の模型、ビデオをみながら、「はやぶさ」ミッションをふりかえるよ。
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来年も作りたい!ふきのとう料理を満喫した 2024年春の記録 春は自炊が楽しい季節 1年の中で最も自炊が楽しい季節は春だと思う。スーパーの棚にやわらかな色合いの野菜が並ぶと自然とこころが弾む。 中でもときめくのは山菜だ。早いと2月下旬ごろから並び始めるそれは、タラの芽、ふきのとうと続き、桜の頃にはうるい、ウド、こ…
来年も作りたい!ふきのとう料理を満喫した 2024年春の記録 春は自炊が楽しい季節 1年の中で最も自炊が楽しい季節は春だと思う。スーパーの棚にやわらかな色合いの野菜が並ぶと自然とこころが弾む。 中でもときめくのは山菜だ。早いと2月下旬ごろから並び始めるそれは、タラの芽、ふきのとうと続き、桜の頃にはうるい、ウド、こ…
2010年6月13日 電波方向探査班としての2年間。 電波方向探査班チーフ 川原 康介 豪州に着いた。 これから約3週間の回収オペレーションが始まる。 この時をどれだけ待った事か。。。 いつ回収オペが延期になるか分からない状況の中 はやぶさ帰還をただ信じてこれまで粛々と準備を整えてきた。 わたしが回収チームの一員として声をかけられたのは、 今から2年程前の事。 M-Vロケットや観測ロケットの追跡業務をやっていた関係上、 回収班員としてすぐさま白羽の矢が立った。 班員の一人に過ぎなかったはずが、 会議を重ねて行く中で、 徐々に資料を作成し説明するようになり、 いつの間にか電波方向探査班の取り纏め役となってしまった。 チームのみんなからは「チーフ」「チーフ」と呼ばれている。 ベテランの方々や偉い先生達からも同様に呼ばれているため 少々違和感を感じていたが、今では何の抵抗なく返事している自分がい
2010年6月13日 次世代の「はやぶさ」に向けて イオンエンジングループ/カプセル回収隊 本部班 小泉 宏之 自分が宇宙研に異動し、イオンエンジンの運用を始めたのは2007年の春。まさに、「はやぶさ」の復路ΔVがはじまったときだった。 それまでの大学における仕事でも、(イオンエンジンとは異なるが)電気推進研究を専門としていた。そして、経験は浅くとも電気推進研究の専門家であるとの密かな自負があった。しかし、宇宙研に来て研究をはじめ、「はやぶさ」の運用に関わり、自分は如何に無知であるかを思い知った。実宇宙機に関わるのは初めてであり、軌道計画、軌道決定、姿勢制御、通信、テレメトリ、地上局…、知らない事のオンパレードである。「推進機だけの宇宙機は存在しない」、昔どこかで聞いた言葉が強く思い出された。さらには、イオンエンジンμ10(ミューテン)の研究/開発の歴史と今を学ぶたび、その工学センスの高さ
2010年6月13日 約束 サンプラ担当、SV、回収隊・方探班本部、科学・輸送班 矢野 創 はやぶさへ、 いまは6月13日朝。僕は、オーストラリアのウーメラ砂漠の宿で一人、君への手紙を書いている。 君が内之浦の5月晴れの空に吸い込まれていったあの日から、もう7年が過ぎたね。今朝のウーメラも、打上げの日の内之浦みたいに雲ひとつない青空で、窓から入ってくるひんやりした風が、心地いいよ。 「はやぶさ、いってらっしゃい。」 2003年。僕は、君のお腹の中にあるサンプラに、打上げ直前まで地球の汚染物質を入れないように窒素ガスを送り続けるため、科学者として最初に内之浦に入った。打上げ12時間前にM-Vロケット先端のフェアリングに包まれた君からガスチューブを抜いて蓋をする、最後の一人でもあった。フェアリングのアクセス窓を閉じたときに君にささやいたのが、この言葉。そのとき君はまだ「MUSES-C」と呼ばれ
2010年6月13日 ~道~ 電池屋~方探班の一隊員として~ 曽根 理嗣 僕達のチームは方探班と呼ばれている。 カプセルが出すビーコンを捕らえて、着地点を絞り込むことが仕事だ。各班3人+1人体制で、3人が豪州の大地に展開し、1人は本部に残る。こういったチームがいくつか編成されて、各所に散っていく。 6月1日、僕達は、とうとう成田空港を発った。遂にこの日が来た。まだ予断は許されないのだろう。でも「はやぶさのカプセルを持ち帰る」という大義のために豪州にむかえることがうれしかった。 6月2日、豪州着。シドニー経由、アデレードへ。アデレードからは陸路でポートオーガスタまで移動。そうだ、この道を、ちょうど一年前も通った。景色が懐かしい。メンバーの中でも昨年の豪州での訓練に参加した者は多くはない。初めて豪州に来たメンバーは、周りの風景に感動しているようだった。僕は、もう一度、去年からブレていない同じ目
2010年6月13日 駒場、チリ、豊山、土岐、守谷、内之浦 サイエンス・チーム 高木 靖彦(愛知東邦大学) ちょうど25年前の1985年6月29日に、今は懐かしい駒場の45号館で「小惑星サンプルリターン小研究会」が開かれたことは 齋藤さんのメッセージ に紹介されていますが、その集録や、その年の11月にかけて5回開かれた「小惑星勉強会」(私自身は、この勉強会には参加できませんでしたが)の報告を眺めてみると、「はやぶさ」に直接つながる議論が25年前から行われていたことがわかります。例えば、電気推進を用いてErosにランデブーを行う案とか、発見まだ間もない1982DBについて、発見者 (E. F.Helin)による論文を基に軌道の議論が行われていました。この1982DB は、その後、4660 番の確定番号とネレウスという名前が付きました。そう、MUSES-C 計画の最初のターゲットだった小惑星で
2010年6月12日 「はやぶさ」よ。ご安全に 後方支援 米倉 克英 昨年11月、月周回衛星「かぐや」の追跡管制運用、後作業も無事終わり、次に私を雇ってくれるところはあるのか?と不安に駆られていた頃、「はやぶさ」プロジェクトマネージャーの川口先生からお誘いを頂き、カプセル再突入に係わる一連の作業について後方支援でお手伝いすることになりました。 そこから怒涛の作業開始です。 全体作業計画の確認、JAXA内安全審査や、豪州政府関係者にも参加頂いた「カプセル再突入・回収準備確認会(Reentry & Recovery Readiness Review)での事務局対応とめまぐるしく作業に追われる毎日でした。 「はやぶさ」プロジェクトとしては、打上げ前(旧:宇宙科学研究所時代)に様々な安全審査(当然、カプセル再突入に係わる作業も含む)に合格して打上げられたわけですが、なにせ約7年も前のことですし、「
昨年の6月中旬、JAXAでは「「はやぶさ」再突入までいよいよ1年を切りました!」とますます士気が高まってきていたころ、私は「はやぶさ」の存在すら知りませんでした。その直後、去年の6月下旬にJAXAの「はやぶさ」プロジェクトのサポートメンバーとして参加することになったのですが、「はやぶさ」プロジェクトがどういうものなのか、私の役割がいったい何なのかまったくわからない状態でのスタートでした。 そんな中で時間だけが過ぎて行き、一時は「このままここにいてもいいのかな?」なんて思いながらも、プロジェクトを支援する立場にあるはずの私が逆に國中先生をはじめとするプロジェクトメンバーの皆さんに助けていただきながら、気がつけば現在はオーストラリアの砂漠に通う日々を過ごしています。 「はやぶさ」カプセル回収チームの先発隊は5月29日に成田から出発しました。翌朝パースに到着し飛行機を乗り継ぎアデレードへ、そこか
2010年6月12日 「MUSES-C」以前 スーパーバイザ 早川 雅彦 今、私は「はやぶさ」となった「MUSES-C」地球帰還運用のスーパーバイザのひとりとなってその最後を見届けようとしている。 初めてスーパーバイザとして運用したのが、「はやぶさ」が行方不明になった後に再び通信可能になり、地球帰還時期が3年遅れると決まってからだから、かれこれ4年のキャリアとなった。それまで私は別のプロジェクトに力を注いでいたため、残念ながら「はやぶさ」のイトカワへの到着やタッチダウンといった劇的なイベントの時は傍観者という立場でしかなかった。 しかし、まったく縁がなかったかというとそうではない。「MUSES-C」がプロジェクトとして認められるのに先立つこと数年前、今から、かれこれ20年以上前のことになるが、まだ名古屋大学の大学院生だった私は、宇宙研に移ったばかりの指導教官である水谷仁先生の研究室をしばし
2010年6月12日 ウーメラにて、「はやぶさ」の帰還を待つ! 航法誘導系 久保田 孝 宇宙研にはいって、私が最初に従事したプロジェクトは、M-Vロケットと「はやぶさ」プロジェクト(当時のコードネームは、MUSES-C)です。特に「はやぶさ」は、構想段階から検討に加わりましたので、かれこれ15年以上になります。 「はやぶさ」は、御承知の通り、小惑星「イトカワ」の探査を行い、サンプルを持ち帰るミッションです。成功すれば、太陽系の始まりの手掛かりを得られる、とてもわくわくするミッションです。一方、探査する小惑星の正確な位置はわからないし、大きさや形、表面の状態も行ってみないとわかりません。そんな天体に到達して、サンプルを持って帰ってくる、まさしくチャレンジングなミッションです。当時、チャレンジング過ぎると言われたこともありますが、工学者としては、逆に意欲を掻き立てられ、成し遂げるためのアイデア
2010年6月11日 「はやぶさ」帰還にむけて 内之浦宇宙空間観測所 運用支援 篠原 誠・谷口 和久(NECネッツエスアイ(株)) 内之浦運用スタッフが「はやぶさ」の業務を始めたのは、2003年4月打上げ前の地上試験からでした。幾度かの地上試験を経て、2003年5月9日に大空に飛翔していくM-Vロケット5号機と「はやぶさ」を万感の思いで見送ってから、はやいもので7年が経ちました。 内之浦局での運用は、初期運用以降、約1年毎に発生するイベント時のバックアップ運用が中心となりました。“年一回の里帰り”をする「はやぶさ」の往復電波伝搬時間や受信レベルの低さを見て“随分遠くに行ってしまったのだな”と感じていました。その後小惑星「イトカワ」へのタッチダウンを果たし、見事サンプルリターンの偉業を成し遂げて地球へ“凱旋”する「はやぶさ」を“おかえりなさい”との思いで迎えられることを楽しみにしております。
2010年6月11日 「はやぶさ」を支える臼田宇宙空間観測所の運用業務 臼田宇宙空間観測所 局運用支援 狩野 光夫・三上 俊彦(NECネッツエスアイ(株)) 思い起こせば、長い道のりでした。「はやぶさ」が小惑星「イトカワ」にタッチダウンするまでの工程は概ね順調でしたが、まさかタッチダウン後に衛星からの信号が消失する事を誰が予想したでしょうか? 信号消失後、真っ先に頭によぎった事は、1998年7月4日に打ち上げられた日本初の火星機「のぞみ」の運用です。「のぞみ」は不運にも通信機器のトラブルで信号が消失し、キャリアサーチ運用と1ビット通信を余儀なくされました。「のぞみ」で行なったキャリアサーチ運用は臼田運用者にとって本当に辛い日々でした。 キャリアサーチ運用とは、受信機では捕捉しきれない微弱な信号をスペクトラムアナライザ(信号を観測する測定器)を使用して捕捉することで、いつ現れるかわからない信
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