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ブログとはてなと教会に関するumiusi45のブックマーク (9)

  • サマリヤの女―疎外感と帰属意識 - an east window

    ヨハネ4:4-30 この聖書の箇所に記述されているイエス・キリストと一人のサマリヤ人の女性との会話を読むと、ある一つの特徴に気が付く。一般論化するのは強引かもしれない。しかし、日常生活の中で多くの人が実感しているものでないかと思う。 疎外感と帰属意識という、一見矛盾する二つの意識を私たちは持っているということ。 この女性は、サマリアのスカルという町に住んでいたが、おそらく過去の男性関係が原因で、町の他の住民とは交流がなく、町の宗教的行事にも参加することができない状況だったと思われる。実際、当時の風習からすると、昼の一番暑い時間帯に井戸に水を汲みに行くことはまずあり得ず、通常女性達は午前中の涼しい時間帯に井戸に行き、あの全世界共通の女性の営み、「井戸端会議」をするのが常であった。しかし、このサマリヤの女性は違った。誰にも会わないように昼の12時頃、井戸に来たのである。彼女は同郷の人々から疎外

    サマリヤの女―疎外感と帰属意識 - an east window
    umiusi45
    umiusi45 2019/07/29
    彼女はそれを聞いて、目の前で話しかけているユダヤ人が只者ではなく、預言者だと認めた(19節)。しかし今度は、宗教的帰属意識を持ち出してまた一線を引こうとした」
  • ルツ記 1章 - サザエのお裾分け

    ルツ記は昔 歴史書ではなく、預言書に分類されていたんだそうな…。メシアや神に通じる記述が多いので、それはそれで納得。歴史書に分類された時、士師記のすぐ後という位置にも納得。分類される時も御霊の導きがあったのね。 ちなみに、ヘブライ語聖書では『諸書』に分類されてます。 ルツ記に登場する人物、それぞれの名前の意味は? ①エリメレク…私の神は王である。 ②ナオミ…喜び、快い。マラ…苦しみ。 ③マフロン…病める者。 ④キルヨン…消え失せる者。 ⑤オルパ…うなじ。 ⑥ルツ…友情。 ⑦ボアズ…力ある者。cf Ⅱ歴代誌3:17。 ⑧オベデ…仕える者。 *この名前の意味を理解しておくと、ルツ記を深く理解する助けになるのです。 ①ルツ記の背景は、どのような時代でしょう? ルツ記1:1ーさばきつかさが治めていたころ…cf 士師記21:25ーそのころ、イスラエルには王はなく、めいめいが自分の目に正しいと見えるこ

    ルツ記 1章 - サザエのお裾分け
  • 遠藤周作の『沈黙』について:ある遠藤マニアのクリスチャンからの視点 - 軌跡と覚書

    2017年1月26日追記:「補足:『沈黙』以降の遠藤の思想」について、実際の遠藤の著作をふまえて一部文言を修正しました。それに伴い、参考文献からの引用を含む脚注を追加しました。 カトリック作家である故・遠藤周作氏の代表作『沈黙』を原作にした、マーティン・スコセッシ監督の『沈黙─サイレンス─』が公開されますね。スコセッシ監督が『沈黙』を映画化したいというのはかなり前から話があったはずで(確か遠藤周作自身もスコセッシ監督と映画化について話してたはず)、彼にとっては長年の希望が叶ったというところなのでしょう。で、この公開に伴って、ネット界隈でもクリスチャンたちによる『沈黙』をどう捉えるべきか? といった議論が活発にされているようです。 遠藤周作マニアとしては、遠藤文学がまた取り上げられることに嬉しさもありつつ、いちいちその議論を見ながら「いや、そうじゃねえよ!」と思ってしまうような、オタク特有の

    遠藤周作の『沈黙』について:ある遠藤マニアのクリスチャンからの視点 - 軌跡と覚書
    umiusi45
    umiusi45 2017/01/24
    「しかし「沈黙」というタイトルが「神の沈黙を描いた作品」という誤読を招く原因となったことを悔んだ」。。。。
  • 初期キリスト教は、なぜローマ帝国に広まったのか - KANAISM BLOG ー真っ直ぐに行こうー

    1.ディアスポラ・ユダヤ人の拡散 紀元30年の春に、エルサレムで「イエス」というひとりの男が、ローマの総督ピラトのもとで、十字架刑に処された。しかし、イエスは三日目に復活して、彼の信奉者たちにその姿を現した。彼を「キリスト」と信じる者たちは、その後、連綿と続いている――。これは1世紀のユダヤ人歴史家ヨセフス(37年-100年頃)も書き記していることである(『ユダヤ古代誌』ⅩⅧ・ⅲ・3参照)。 イエスをキリストと信じる者たちの集団、すなわち「教会」がエルサレムで誕生した時にメンバーであった者たちは、ほとんどがユダヤ人であった。ただし彼らは、パレスチナで生まれ育って、アラム語とヘブル語を主に使用する「ヘブライスト」と、異邦で生まれ育って、ギリシア語を主に使用する「ヘレニスト」に、大きく二分される(使徒行伝6章)。アウグストゥス帝(在位 前27年-後14年)治下にローマ帝国に居住していたユダヤ人

    初期キリスト教は、なぜローマ帝国に広まったのか - KANAISM BLOG ー真っ直ぐに行こうー
    umiusi45
    umiusi45 2016/06/10
    実に分かり易い!もったいないのは、なぜはてなブログなのか!!
  • 「プロ市民」と化した牧師たち - カナイノゾム研究室

    2015-10-10 「プロ市民」と化した牧師たち 「プロ市民」という用語があります。アマチュアの市民活動のように見せかけているけれど、実態は政党、左翼団体、右翼団体、在日民族団体、労働組合、教職員組合、生協、業界団体、宗教団体等に属するプロの活動家たちが指導している、というものです。私もかつて、労働組合、生協、宗教団体に属して、市民運動的な社会運動に関わったことがあるので、その辺りの事情が多少わかります。左翼政党は政党交付金を受け取らなかったり、受け取っても少額だったりするので、資金にいつも困っています。だから、そうした支持母体や関係団体の人・物・金の動員に頼る部分が非常に大きいのです。テレビ局は、市民の活動を報道すれば中立性を保てる、という名目があります。そのため、デモの参加者にインタビューをして、そのままニュースで流しています。しかし実は、上手に受け答えしている人はプロ市民だったりす

    「プロ市民」と化した牧師たち - カナイノゾム研究室
  • 「PTL主をほめよ」と「ビデオドローム」の関係 - 映画評論家町山智浩アメリカ日記

    昔、日でも「PTL 主をほめよ」というキリスト教伝道番組が放送されていた。 PTLというのは、 Praise The Lord(主を称えよ)の略だが、PTLというキリスト教伝道専用テレビ局のことだ。 PTLを設立したのはジム・バカーという元人形劇師。 バカーはのタミー・フェイと二人で(写真)、教会を回って子供のために聖書の話を歌と人形劇で演じるキリスト教の林家ぺー&パー子だったが、テレビに出てから人気になって、ついには自分たちのTV局まで所有したのだ。 アメリカ人は日曜の朝に教会に行く習慣があるが、それを代行するのがTV伝道師だが、教会よりはるかに寄付が儲かる。教会では席に回ってくる皿の上に信者が財布から現金を置いていくから、金額はたかが知れている。しかしテレビでは「今すぐここに電話してください。クレジットカードでもOK」と全米からいくらでも集金できる。もちろん宗教法人なので税金がかか

    「PTL主をほめよ」と「ビデオドローム」の関係 - 映画評論家町山智浩アメリカ日記
  • コンシャンス - HODGE'S PARROT

    増田祐志 編『カトリック神学への招き』の実践神学-倫理神学より、〈良心〉についてメモしておきたい。まずは〈良心〉なるものについて。 良心は、人格的存在としての人間の深奥に生得的に刻み込まれている。それは存在論的に人間存在を根拠づけ、倫理的に人格の成長を促す。「善をなし悪を避けよ」──これは私たちに対する良心の要請である。良心は、ただ単に、正・不正や善・悪の識別・判断に尽きるものではなく、むしろ、人間が人間として生きるための根的な在り方を開示する。それゆえ良心において、人間は、自らの究極的根源(神)の声を聞き、それに応えることができる。 良心はまた、人間に求められる二つのこと──善い人間であること(倫理)と聖なる人間であること(霊性)──の邂逅の場でもある。 竹内修一「倫理神学」(『カトリック神学への招き』より、上智大学出版)p.234-235 「人間は人格的存在である」という命題には、人

    コンシャンス - HODGE'S PARROT
    umiusi45
    umiusi45 2013/10/31
    「「コンシャンス」は、「コン」(con 「~とともに、全体」)と「シャンス」(science 「知」)とから成り立つ。このことからもわかるように、「コンシャンス」には、「何かをともに知ること」「共通の知を持つこと」
  • バイブル・エッセイ(293)幼子の心 - 片柳神父のブログ「道の途中で」

    幼子の心 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」(マタイ11:25-27) 「知恵ある者や賢い者」には隠され、「幼子のような者」に示されるという救いの神秘。この両者の違いは一体どこにあるのでしょう。なぜ「幼子のような者」にさえ分かることが、「知恵ある者や賢い者」には分からないのでしょう。 先日、教会学校の子どもたちと遊んでいたとき、小学校1年生の女の子が何かを大事そうに両手で包んでわたしのところに持ってきました。「やぎぃ、これ見て」と言うのでなんだろうと思って手の中を覗き込むと、中に入っていたの

    バイブル・エッセイ(293)幼子の心 - 片柳神父のブログ「道の途中で」
    umiusi45
    umiusi45 2012/07/19
    「「なんだ、いつもの花や木、家族や友だち、聖書の言葉か」と思うとき、わたしたちは目の前にある神の神秘に対して目を閉ざすことになります」
  • バイブル・エッセイ(268)宣教せずにいられない - 片柳神父のブログ「道の途中で」

    宣教せずにいられない 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞

    バイブル・エッセイ(268)宣教せずにいられない - 片柳神父のブログ「道の途中で」
    umiusi45
    umiusi45 2012/04/17
    「首の痛みが消えただけでもそうなのですから、人生そのものの痛みがイエスとの出会いによって消えたなら一体どうでしょう」
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