タグ

関連タグで絞り込む (2)

タグの絞り込みを解除

Literatureとreviewに関するwideangleのブックマーク (5)

  • 『回想の太宰治』津島美知子(講談社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「太宰はエアロビクスをするか?」 太宰夫人はいたってふつうの人だった。『漱石の思い出』の夏目鏡子が、夫を凌ぐかというほどの強烈な個性の持ち主なのに対し、津島美知子は常識と良識の人だった。 太宰のような作家を語るには、この〝ふつうさ〟がうまく作用する。何しろ、口から先に生まれてきたみたいにぺらぺらと文章をはき出す男である。悲しいとか自意識とか言っているが、この人、ほんとに悩むヒマあったのかね、と思いたくなるほど、生きることと書くことに忙しかった。 美知子はぜんぜん違う。文章もぺらぺら出てくるわけではなく、むしろ寡黙で木訥。しかし、いかにも口数の少ない人らしく、しゃべるときにはけっこう痛いことを言う。そんな美知子が一枚一枚皮を剥ぐようにして、太宰を裸にしていくのである。美知子の〝ふつうさ〟の領域に、「ふつうなんか嫌だ!」と叫び続けた太宰が少しずつ引きづりおろされてくる。

    『回想の太宰治』津島美知子(講談社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
  • 『クォンタム・ファミリーズ』 東浩紀 | 新潮社

    『クォンタム・ファミリーズ』(以下『QF』と略記)は、量子(クォンタム)コンピュータのネットワークによって相互干渉する並行世界を舞台に、出会うはずのない「家族」が時空を超えてリンクされる歴史改変SFである。グレッグ・イーガンやP・K・ディック、瀬名秀明や麻枝准らの先行作品と、ジャック・デリダの脱構築哲学を同時に視野に収めながら、作者自身とその家族を投影した作中人物(東浩紀は作家のほしおさなえと結婚し、娘がひとりいる)が離合集散する、思弁的でプライベートな色合いの濃い小説になっている。 作中で示唆されているように、『QF』は村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に宛てた、二一世紀からの返信でもある。春樹作品はディック(世界の終り)とレイモンド・チャンドラー(ハードボイルド・ワンダーランド)のハイブリッド小説だが、書の中にチャンドラーの占める席はない。その空隙を埋めるのは、一

    『クォンタム・ファミリーズ』 東浩紀 | 新潮社
  • 『ケータイ小説は文学か』石原千秋(ちくまプリマー新書) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「ケータイ小説とは何か?」 「ケータイ小説」という言葉は聞いていたが、それほど読みたいとも思わなかったし、フランスで使っている携帯はインターネットの契約をしていないので、携帯では読めない。そんな時新聞で、瀬戸内寂聴さんがこっそりとケータイ小説を書いていたという記事を読んだ。何と好奇心の強い、お茶目な人(失礼)だろう。彼女が興味を持ったのならば、何か面白いことがありそうだ。だが、書籍版を買って読みたいというほどの意欲は起きない。 そこで、邪道だが、まずはケータイ小説を知るためのを入手した。石原千秋の『ケータイ小説は文学か』だが、筆者は興味深い評論を書き続けている、早稲田大学の教員だ。ケータイ小説と同じ様に、このも横組みになっている。形からして既にケータイの世界か? まず石原は、タイトルにもなっている「ケータイ小説は文学か」という問いに対し、「二〇〇七年の文芸書年間ベ

    『ケータイ小説は文学か』石原千秋(ちくまプリマー新書) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
  • 『1冊でわかるカフカ』 リッチー・ロバートソン (岩波書店) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 2004年に出版された最新のカフカ入門の邦訳である。 「最新」と断ったのには理由がある。カフカは80年以上前に亡くなっているが、1982年から旧来のブロート版全集とは相当異なる文を提供する批判版(白水社から刊行中の『カフカ小説全集』はこちらにもとづく)、1997年年からは手稿の写真版を提供するとともに「帳面丸写し主義」に徹した史的批判版という二つの新たな全集の刊行がはじまっている。伝記研究や当時のプラハの状況も解明が進んでいて、従来のカフカ神話の多くが訂正されている。最初の長編小説の題名が『アメリカ』から『失踪者』に変わったことでもわかるように、カフカ像は今なお揺れうごいているのである。 わたしは一昔前の知識しかもっていなかったので、書は驚きの連続だった。学生時代にカフカを読んだだけという人はぜひ書を読むべきだ。 カフカというと無名のまま死んだ孤立した作家という

    『1冊でわかるカフカ』 リッチー・ロバートソン (岩波書店) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    wideangle
    wideangle 2008/12/02
    このシリーズ、ハズレがないんですよね……。
  • 「赤毛のアン」を読み終えて - ハックルベリーに会いに行く

    「赤毛のアン」を読み終えて、「世界的名作にはやはり同一の刻印というものがいつも押してあるのだなあ」というのを再確認した。同一の刻印――それは「天才の刻印」と言っても良い。「天才」と言っても書いたモンゴメリが天才というのではなく、「赤毛のアン」という作品自体が天才なのだ。小説というのはそういう自立性と人格を持っている。そして「赤毛のアン」はまちがいなく天才の小説の一つだ。 天才の刻印の一つに「風景」がある。作品中に美しい風景が描かれているか否かがその作品の価値を決める。その作品が「天才」であるかどうかを決めるのだ。全ての天才の作品には美しい風景が描かれている。これはもうあまねく共通している。「ドン・キホーテ」も「ハックルベリー・フィンの冒険」も「風と共に去りぬ」みんなそうだ。「赤毛のアン」にもそれが出てくるのは言うまでもない。そこでは特に夕景がよく出てくる。それはもうありとあらゆる夕景が出て

  • 1