タグ

ブックマーク / pikarrr.hatenadiary.org (8)

  • <環境-調和図式>(全体)  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    1 環境と調和 2 自然な状態とは 3 「環境」の導入 1 環境と調和 <環境-調和図式> 以前から環境と人の関係を考慮したわかりやすい図式が必要だと考えていました。それで、<環境ー調和図式>を考案してみました。横軸は環境で人間が重視されているか、縦軸は環境が人間と調和しているか、を表します。 A.<強制>領域・・・人が環境に<強制>される関係 <強制>の領域は、先に環境があり、強制的に人がはめ込まれていく状況です。 交通環境でいえば道がない状況です。そこでは人は環境からの妨害を避けるように歩いて行かなければなりません。 B.<訓練>領域・・・人が環境を<訓練>する関係 <訓練>の領域は環境が先にあり人がはめ込まれるわけですが、<強制>と異なるのは人は訓練することによって環境に対応します。そして訓練が多く反復されることで環境からの強制があることは忘れられ、環境と調和状態になります。それが習

    <環境-調和図式>(全体)  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜ東浩紀はすごいのか。 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「動物化」という新時代宣言 東浩紀を象徴する言葉といえば「動物化」でしょう。「動物化」という考え方は既存言論のカウンターと位置づけられます。日の言論文化には文化サヨ的(主知主義的)な傾向が根強く残ります。「世界を理解しつくし世界を設計しなおせる。」このような傾向は東の登場前にすでに時代遅れなものと考えられ、パロディ、アイロニーへの転倒が行われていました。しかしこのような転倒さえ重たい。そこにはまだ言葉(思想)への執着がある。すでに若者はもっと軽く、世界にアディクションしていると訴えたのが東の「動物化」です。 これは社会への訴えというよりも、言論文化への訴えの意味が大きいでしょう。それまで時代の寵児とされていた浅田や宮台なども、もはや新たな若者文化からはズレているという新たな世代の言葉の到来を宣言したといえます。 そしていつの時代も一定数いる言論少年たちはいままでの言論を言語過剰で古いもの

    なぜ東浩紀はすごいのか。 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • 2ちゃねらーはなぜ気持ちが悪いのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ブログは前近代的合戦、2ちゃんねるは近代戦争 2ちゃねらーはいいたい放題、不作法などネットの荒らくれものというイメージで語られる。しかし2ちゃねらーの気持ち悪さはむしろその逆のところにあるのではないだろうか。2ちゃんねるはコミュニケーションのるつぼである。人類史上これほど不特定多数の人びとでコミュニケーションが行われたことはなかっただろう。このような場はネット上で2ちゃんねるだけとはいわないが、2ちゃんねるがネット上でも特殊な場であることにはかわりがない。 ホームページ、ブログ、パーソナルな掲示板では、参加者は参加者としての連続性をもつことで、ここに自らが表現される。そこでの議論はいわば近代以前の「合戦」である。かつての合戦では、「我こそは〜だ」と戦う前に名を名乗りあい、自らを誇示するとともに、相手が何者であるかをしる。 それに比べると、2ちゃんねるは近代の「戦争」のようだ。無名の人々が相

    2ちゃねらーはなぜ気持ちが悪いのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜ犯罪が暴力化するのか 動物化論の限界 その1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    1)欲求、欲望、享楽 まず欲求、欲望、享楽の違いについて、わかりやすく「」を例に説明しましょう。 欲求・・・「動物」的。空腹だ→べた→満腹だ。 欲望・・・「人間」的。みんな(他者)が望むものがほしい。彼がべているラーメンうまそうだいやテレビでやっていた寿司がうまそうだいやおしゃれなレストランでべると味が違うよね。たくさん頼んでちょっとずつべるか・・・と終わりがない。たかだが60億人で地球の資源の枯渇が問題になっていますが、人も動物のように欲求するだけならこのようなことはおこらないでしょう。 享楽・・・「狂人」的。すべてのものはべ飽きた→あとべてみたいものは人肉だけだ。享楽は近親相姦など社会的なタブーに関係します。より日常的にいえば拒症や過症など。 2)社会学的な動物化論 「動物化」とは、豊かな社会では容易に料が手にはいるために、もうあれをべたい、これをべたいという、

    なぜ犯罪が暴力化するのか 動物化論の限界 その1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    BigHopeClasic
    BigHopeClasic 2008/07/22
    かなり説得力を感じる緒論のまとめ。
  • 「ネットユーザーはルサンチマンだからちょっと刺激的なタイトルですぐ炎上するよね」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ネットユーザーは馬鹿だから、ちょっと刺激的なタイトルですぐ騙されるよね | Web担当者Forum http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2008/07/08/3508 IT系の出版社の編集者があつまる飲み会というものがあり、ネット系のメディアが中心になってからもたまに参加している。だいぶ前になるが、その集まりで、こんな発言があった。 「ネットユーザーは馬鹿ばっかりだから、ちょっと刺激的なタイトルをつけたら、すぐ騙されてクリックしちゃうんだよね。」 大手ニュースサイトであっても、記事タイトルの付け方1つでアクセス数は倍どころでなく変わるというのは、よく言われることだ。ユーザーを惹き付ける“良い”タイトルを付ければ、トップページでもクリックされやすくなるし、はてなブックマークなどのソーシャルサイトで取りあげられた場合にも加速度がつきやすくなる。 しかし、良い

    「ネットユーザーはルサンチマンだからちょっと刺激的なタイトルですぐ炎上するよね」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    BigHopeClasic
    BigHopeClasic 2008/07/15
    いくらなんでも悲しい結論だなあ。むしろ暇人による言論は「ギリシャの昔に戻った」とも言えるし、二極化の進行と見ることもできる。われながら苦しいが。
  • まなざしの快楽 - なぜ「感情労働」は「マクドナルド化」によって対処されるのか

    「感情労働」時代の過酷 以下の「「感情労働」時代の過酷」の記事は現代の傾向を象徴しているのではないだろうか。 「感情労働」時代の過酷 (AERA:2007年06月04日号)  http://www.asahi.com/job/special/TKY200706050068.html 看護の領域などで知られる、「感情労働」という言葉がある。「肉体労働」「頭脳労働」と並ぶ言葉で、人間を相手とするために高度な感情コントロールが必要とされる仕事をさすものだ。・・・平たく言えば、働き手が表情や声や態度でその場に適正な感情を演出することが職務として求められており、来の感情を押し殺さなくてはやりぬけない仕事のことだ。・・・そしてここにきて、この「感情労働」があらゆる職種に広がり始めている。 ・・・「ひと相手の仕事は昔からあっただろうと、働く側の問題点を指摘する声もありますが、一概にそうではないと考えま

    まなざしの快楽 - なぜ「感情労働」は「マクドナルド化」によって対処されるのか
  • なぜ最初はネタがベタになるのか 「秋葉原無差別殺傷事件」雑感 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    自らが「彼」になるのではないかという恐怖 「秋葉原無差別殺傷事件」の衝撃が続いている。あの事件の衝撃の大きさはなんといっても犯人があまりに「普通」であるということだろう。このような衝撃的な事件は社会的な不安を引き起こし、人々はその原因を求めようとする。それは非日常的で異常であるほど安心する。「自ら」とは関係がない別の異常な世界の出来事となるからだ。 親の過剰な期待、派遣での厳しい待遇、あるいはイジメ、そしてオタク、彼女ができないなどが上がっているが、どれも「彼」を異常な世界へと排除する決定力に欠ける。 そうすると隣にいる人が「彼」になりえる可能性がある。そして「彼」のような気持ちは「自ら」の中にもある。ただからほんの少しのことで「彼」になるのではないか、ということに恐怖する。誰もが彼が言った愚痴のような疎外を味わったことはあるだろう。その意味でのあまりに身近に感じてしまう。だからこそ怖いの

    なぜ最初はネタがベタになるのか 「秋葉原無差別殺傷事件」雑感 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜ村上春樹はオタクよりもタフなのか その2 オタクよ、美しく咲きそして散れ - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「なぜ村上春樹はオタクよりもタフなのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080204に質問をいただいたので、解説してみる。 「物語」とはなにか まず「物語」とはなにか。それは動物と違う「人間」とはなにか、ということです。動物は「世界において自分は多くの一人であるということ、そしてもし自分がいなくなっても明日は変わらずくる」世界を生きています。簡単にいえば、代替可能性です。自分がいなくなっても、誰かが代替するだけのことです。 しかし人間は、代替可能性を受け入れることはできません。たとえば子供を失った親は、違う子供で入れ替えることはできないということです。親にとって子供は唯一の存在です。そしてこの代替不可能性を支えるのが、その人の「物語」です。その人にはその人だけの物語があるのです。「自分の物語では自分が主人公」という歌がありましたが、人間であるということは、「

    なぜ村上春樹はオタクよりもタフなのか その2 オタクよ、美しく咲きそして散れ - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • 1