アクティウムの海戦(アクティウムのかいせん、ラテン語: Actiaca pugna)は、紀元前31年9月にオクタウィアヌス支持派とプトレマイオス朝およびマルクス・アントニウス支持派連合軍の間で行われた海戦である。海戦の名は戦場がイオニア海のアクティウム沖(現在のギリシャ共和国プレヴェザ)だったことに因む。 背景[編集] グナエウス・ポンペイウスの子セクストゥス・ポンペイウスが処刑され、第二回三頭政治の立役者の1人で、最高神祇官でもあったマルクス・アエミリウス・レピドゥスが失脚したことにより、ローマの政争はアントニウスとオクタウィアヌスの対立へと移った。オクタウィアヌスの姉オクタウィアと離別し、ローマとは疎遠になっていたアントニウスはプトレマイオス朝エジプトのクレオパトラ7世と結び、東方専制君主の立場でオクタウィアヌスに挑もうとした。それに対しオクタウィアヌスは紀元前32年親戚関係を考慮し、