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ブックマーク / www.h5.dion.ne.jp/~terun (34)

  • 史上最高の哲学議論大会

    <史上最大の哲学議論大会・選手入場!> 哲学の聖地、東京ドーム地下議論場では、 今まさに史上最大の哲学議論大会が行われようとしていた……。 とくがわ「史上最高の『真理』を知りたいか―――ッ!」 観客「オ―――――――――!!!!」 とくがわ「ワシもじゃ、ワシもじゃみんな!!」 「全選手入場です!!!!」 神殺しは生きていた!! 更なる研鑽を積み人間狂気が甦った!! 超人!! ニーチェだァ――――!!! 近代哲学はすでに私が完成している!! ヘーゲルだァ――――!!! 経験されしだい還元しまくってやる!! 現象学の開祖 フッサールだァッ!!! 哲学・科学なら我々の歴史がものを言う!! 自然哲学者 デモクリトス!! 真の学問を知らしめたい!! カール・ポパーだァ!!! 著作は3部作未完だがケーレならお手のものだ!! ナチスの鉄拳 ハイデガーだ!!! 方法的懐

  • 哲学的な何か、あと科学とか

    飲茶な日々 (3日に1度は更新予定の哲学日記) 2008年10月11日 僕の中二病告白 中二病という言葉があるそうです。 ―――――――――――――――――――――― 中二病(ちゅうにびょう)とは日の俗語、スラング。 思春期にありがちな微妙にズレた自意識過剰、 それから転じて起こる数々の「中学二年生くらいの頃に ありがちな言動」を「症状」として比喩したもの。 子供が大人になろうとして、 「大人が好みそうな(と子供が考える)格好いいもの」に興味を持ち、 子供に好かれるようなもの、幼少の頃に好きだった幼稚なものを 否定したりなどする。「もう子供じゃない」「(汚い)大人になりたくない」 という自己矛盾が、実際の大人から見ると非常に「ズレて」おり、 滑稽に見えることが大きな特徴である。 さらに、生死や宇宙について思い悩んでみたり、 政治や社会の汚さを批判してみたり

    哲学的な何か、あと科学とか
  • 人工生命ティエラ - 哲学的な何か、あと科学とか

    人工生命ティエラ 「人工生命は、生命系特有の振る舞いを示す人工的なシステム についての研究である。 これは生命というものを、地球に生じた特別な例に限定せず、 可能な限りの表現を通して説明しようとするものである。(中略) 究極の目標は、生命系の論理形式を抽出することである」ラングストン 進化生物学者であるトム・レイは熱帯雨林で、 進化の形跡を求め観察を続けていたが、 次第に強い不満を感じるようになっていった。 「進化のプロセスに対して、人間の寿命はなんて短いんだ! 進化のプロセスをこの目で見ることはできないものか!」 1987年。 トム・レイは東芝のパソコンを買い、それを使って、 学生のころに思いついた自己複製するプログラムを作ろうと考え始めた。 レイは、人工生命という言葉の名付け親であるラングストンの噂を聞きつけ、 彼と連絡を取り合い、ついには、 人工生命システム「ティエラ」を生み出し、

  • 脳分割問題 - 哲学的な何か、あと科学とか

    1960年頃、てんかん患者の治療として、 左右の脳を繋ぐ脳梁(のうりょう)を切断する手術が行われた。 てんかんとは、 神経細胞の異常放電によって、脳全体に不当な信号が次々と伝播して、 「けいれん」などの発作を引き起こす脳の機能障害のことである。 このてんかんの信号は、左右の脳を繋ぐ脳梁(のうりょう)を 伝播することを好み、この脳梁を介して、 左右の脳に繰り返し伝播すること(共鳴現象)によって 発作を引き起こす。 そこで、当時の医者たちは、 「じゃあさ、左右の脳を繋いでる線を切っちゃえば、いいじゃん。 物理的に切ってしまえば、信号が伝播しなくなるから、 発作を軽減することができるかも♪」 と考えたのである。 そして、実際、その考えは正しく、 この脳梁切断手術(脳分割手術)によって、 多くのてんかん患者の発作がなくなった。 さて、この脳梁切断手術(脳分割手術)によって、 「左右の脳の連絡網を切

  • どこでもドア - 哲学的な何か、あと科学とか

    ――ある未来の話のこと。 ついに、人類は、永年の夢であった「ドラえもん」を開発することに成功した! そして、同時に「出して欲しい道具ランキング」で常に上位であった 『どこでもドア』も開発された。 しかし、この『どこでもドア』。 原作のように、念じた場所に自由に行けるような都合の良いものは、さすがに作れず、 事前に、町中に設置されている、別の『どこでもドア』に瞬時に移動できるという ものであった。 まぁ、ようするに、「あらかじめ、決まっている場所」にしかいけないのだが、 それでも、遠くの場所に瞬時に移動することができるわけで、 充分「どこでもドア」を再現することに成功したと言える。 この「どこでもドア」の発明により、 「通勤、通学、買い物、旅行」などの移動時間は 大幅に短縮され、人類の生活はさらに快適なものになっていった。 ――そんな、ある未来の話のこと。 ●「うわぁあぁぁぁあわあぁぁああ!

    isaisstillalive
    isaisstillalive 2011/06/03
    若返り装置のブラックジョークも似たような感じ
  • 原理的不可 - 哲学的な何か、あと科学とか

    原理的に不可能 「原理的に不可能です」という言葉があり、サイトでもよく使っているが、 そもそも、この 「原理的に不可能」とは一体どういうことだろうか? 当に、「不可能」なのだろうか? 人類は進歩することによって、今まで「不可能」だったことを 「可能」にしてきたじゃないか! いやいや、そういうことではない。 「原理的に不可能」は、ただの「不可能」とはわけが違うのだ。 禅に、こんな物語がある。 夜中、いきなり師匠が飛び起きて、弟子達をたたき起こした。 師匠「こんな夢をみたんだ!誰かこの謎を解いてくれ!」 それはこんな夢だった。 ツボに入っていたガチョウの卵が、そのまま孵化してしまった。 このまま、放っておいたら、ヒナのガチョウは死んでしまう。 しかし、そのヒナのガチョウは、ツボから出るには、大きすぎた。 だから、ガチョウをツボから出すためには、ツボを割るしかないのだが、 そのツボは非常に高

  • 哲学的問題、東洋哲学 - 哲学的な何か、あと科学とか

    つまり、あらゆる問題は、それを問題だと思わない人からすれば、 決してラチのあかない机上の空論にすぎない。 もしくは、なぜ、それが問題なのかすらわからない。 ところで、東洋の哲学(仏教を含む)などは、 この点を踏まえていて、面白い。 西洋の哲学は、そういうラチのあかない問題について、 徹底的に議論を重ねて、仮説を立てて、検証を繰り返すのに対して、 東洋の哲学は「そもそも、なぜそれを問題だと思うのか?」 という『精神構造』『思考体系』の方を主題とする。 つまり、東洋哲学における問題の解決の仕方は、 問題そのものを解くのではなく、 「それを問題視する精神構造を徹底的に理解して、 それを問題だと思わないようにする」 というものである。 それはある意味では、完璧な解決方法だ。 西洋的な解決方法では、原理的に、問題を解決することができない。 「なるほど。この問題の原因は、『A』が理由だったんだね。 お

  • 我思う、ゆえに我在り - 哲学的な何か、あと科学とか

    我思う、ゆえに我在り 誰でも知っているデカルトの有名な言葉だが、 これは「俺が考えているってことは、俺がいるんだなぁ」 という単純なものではない。 もう少し深い意味を持つ。 この世で、「最も確かなこと」は、何だろう? この世で、「全く疑う余地のないこと」は、何だろう? これをデカルトは考えた。 たとえば、目の前にある世界は、物だろうか? いやいや、これは幻なのかもしれない。夢なのかもしれない。 だって、夢を見ているとき、これが夢だとは気がつかないではないか。 今、見ているものは、実際には存在しないのかもしれない。 これが夢、幻じゃないと、どうやって証明できるだろう。 そんなことは、原理的に、決してできない。 じゃあ、数学は?学問は?論理は? いやいや、それが正しいと思うのは、思い込みかもしれない。 だって、夢をみているとき、論理的におかしなことが起きても、 それをおかしいと感じないではな

    isaisstillalive
    isaisstillalive 2011/06/03
    他のすべてが嘘だとしても「疑っている何者かがいる」ということだけは事実である。なぜならそれを疑おうとすればまた「疑っている何者かがいる」ため
  • 哲学的名言集(3)- 哲学的な何か、あと科学とか

    「俺は『納得』したいだけだッ! 『納得』はすべてに優先するッ!」 ジャイロ・ツェペリ 「JOJOの奇妙な冒険 第7部」 ぜんぜん ぜんまい まわる かぎり この世を うんと 楽しもう…… 一日一善で ぜんまい 巻き上がる これはぜいたくパラダイス…… ぜんまいざむらいの唄 ※ぜんまいざむらいとは 悪党「ぜんの助」は、泥棒の最中に、井戸に落ちて死んでしまう。 そこに神様が現れ、死体にぜんまいをつけて、 「ぜんの助」を「ぜんまいざむらい」として 生き返らせるのだった。 「ぜんまいざむらい」は、ぜんまいバネがほどけ切ってしまうと 再び死んでしまうが、善いことをするとバネが巻かれて、 しばらくの猶予を得る。 こうして、「からくり大江戸」を舞台に、 「ぜんまいざむらい」の 困っているヒトを助けて善行を積もうと奮闘する ドタバタの日々がはじまったのである。 「ぜんまいざむらい」とは、子供たちに、 善行

  • 公理(3)ルイスキャロルのパラドックス - 哲学的な何か、あと科学とか

    公理とは、「証明不可能な暗黙の了解」である。 すべての理論体系(科学、数学、哲学など)は、 いくつかの公理から、論理的に導き出された構築物である。 だが、「論理さえ公理(暗黙の了解)にすぎない」と 『不思議の国のアリス』の作者であるルイスキャロルは、自分の作中で述べている。 以下は、その内容の要約だ。 アキレスは、頭の回転の遅いカメに、 ある命題が論理的に正しいことを説明しようとしていた。 前提1 A=B である。 前提2 B=C である。 ↓ 結論  A=C である。 アキレス「というわけだ。つまり、論理的にこうなるのさ」 カメ「ん〜、わからないよ」 アキレス「論理的に考えたら、間違いなくこうなるだろ!」 カメ「ん〜、なんで間違いなく言えるの?僕もそんなに馬鹿じゃない。 A=Bはわかった。B=Cもわかった。 でも、A=B、B=Cだったら、どうしてA=Cになるの? 何の必然性もないじゃない

  • 公理(2)- 哲学的な何か、あと科学とか

    「宗教とは、『神が存在する』という公理をもとにして構成された世界観である。 したがって、宗教について反論することは無意味なことである。 結局のところ、 議論の焦点は『神が存在する』という根的な公理を認めるかどうかであり、 そもそも公理の質が『証明不可能な暗黙の了解』であるのだから、 その公理を受け容れるかどうかの個人的な問題となり、 一般的理論的な議論は無為である」 「『宗教を信じること』 と 『幾何学を信じること』は、 証明不可能な公理を受け容れているという点で、質的に同じことである」 なんと、このサイトがになりました! だと、もっと読みやすいですよ~(編集者のチェックが入っているので) 「哲学的な何か、あと科学とか」 飲茶 送料無料で注文できます Amazon 楽天 好評につき、2冊目がでました!(書き下ろし) 「哲学的な何か、あと数学とか」 飲茶 送料無料で注

  • 波動関数の収縮 - 哲学的な何か、あと科学とか

    量子力学の通俗を読むと、必ずと言っていいほど、 「波動関数の収縮」という言葉が出てくる。 今回は、この「波動関数の収縮」について、説明してみようと思う。 まず。 2重スリット実験をおさらいすると、その結論(コペンハーゲン解釈)は、 「観測していないモノについては、 ここにあるかも、あそこにあるかも、 という可能性としてしか論じることができない。 そして、その言葉どおり、観測していないモノは、 『ここにあるかもという可能性』という形で存在している」 というものであった。 もっと端的にいえば、 「観測される前の、電子や原子の位置は、確率的に存在している」 ということである。 さて。 この確率、―つまり、モノが「ここで見つかるかもしれないよ」という確率― の形は、波の形になっている、ということが実験的に確認されている。 (なぜ、そうなるかは、誰もわかっていない。 とにかく、実験すると、いつもそ

  • 道具主義 - 哲学的な何か、あと科学とか

    道具主義 「概念、理論は、それらがいかに精密で無矛盾であっても、 仮説とみなされるべきである。概念、理論は、道具である。 すべての道具と同様に、それらの価値は、 それ自身の中にあるのではなく、 その使用の結果、あらわれる作業能力(有効性)の中にある」デューイ 道具主義とは、 「科学理論の役割は、結果の予測をすることなんだから、 予測と結果に整合性さえあれば、理論は何でもいい」 という考え方だ。 たとえば、キミがある実験をしていたとして、 その実験結果と たまたまぴったり合う方程式を見つけたとしよう。 だが、その方程式は、虚数などが出てきて非現実的で、 しかも実験とはなんら関係のない数式に見える。 キミは、この方程式を世の中に発表するだろうか? もしかしたら、 『いやいや、実験結果と合っているのは偶然かもしれない。 この方程式の理論的な意味づけがわからないのに、 この実験と関連していると決め

  • 解釈問題 - 哲学的な何か、あと科学とか

    コペンハーゲン解釈、多世界解釈、パイロット解釈。 量子力学について、色々な解釈を述べてきたが、 はたして、どれが正しいのだろう? ホントウのことを言えば、どれも正しくない。 今まで、さんざん、観測してない1個の電子が、 「複数の位置に同時に存在している。2つのスリットを同時に通り抜けた」 とか言ってきたが、それだって、ホントウは、嘘っぱちである。 どういうことだろうか? まずそもそも、今まで紹介してきた話は、 すべて「○○解釈」であることに注目して欲しい。 「コペンハーゲン理論」「パイロット理論」ではなく、 「コペンハーゲン解釈」「パイロット解釈」と呼ばれていることに 注意して欲しい。 なぜ、これらは「理論」ではなく、 「解釈」と呼ばれているのか? 量子力学をきちんと理解するためには、 このへんの事情をよく知っておく必要がある。 ●古い時代における科学観 そもそも、古くから物理学では、 あ

  • 量子力学 パイロット解釈の問題 - 哲学的な何か、あと科学とか

    そもそも、2重スリット実験で、 科学者たちを悩ませてきた不可思議な現象とは、 「1個1個、粒子を発射しているのに、 粒子が観測される場所の分布が、なぜか波の形になっているぞ」 ということであった。 この不可思議な現象のツジツマを合わせて説明するため、科学者たちは、 「1個の粒子が、観測していないときは『波』のようになって、 2つのスリットを同時に通ったのさ」 というヘンテコな解釈(コペンハーゲン解釈)をせざるを得なかった。 だが、しかし! そんなヘンテコな解釈をしなくても、パイロット解釈のように、 「パイロットウェーブという『未知の波』があって、 それが粒子の行き先に影響を与えている」 という考え方をすれば、2重スリット実験を合理的に説明できてしまうのである。 しかも、このパイロット解釈の説明は、 ワレワレの日常的な世界観と、とてもよく一致する。 パイロット解釈では、電子や原子や分子は、カ

  • パイロット解釈 - 哲学的な何か、あと科学とか

    今まで、量子力学(コペンハーゲン解釈)の説明として、、 「1個の粒子が、観測されていないとき、 波のような状態になって、スリットA、スリットBを同時に通り抜ける」 という、日常的な感性からすれば、まったく常識ハズレなことを述べてきた。 だが、 「その常識的な世界観では説明のつかない実験結果(2重スリット実験)」が 現実に存在するのだ。 だから、その「ヘンテコな実験結果」と、ツジツマを合わせるために、 「ヘンテコな新しい考え方」を作り出すしかなかったのは、仕方がないだろう。 「だけど、それにしても……」 と思うかもしれない。 「もっとマシな考えはなかったの? なんかこう〜、もっと日常的で合理的で、 ツジツマの合う考えって、 当に、ほかになかったの?」 と疑問に思うかもしれない。 実を言えば、ある! それがボームの提唱した「パイロット解釈」だ! ●パイロット解釈とは まず、2重スリット実験を

  • 多世界解釈の問題(完結編) - 哲学的な何か、あと科学とか

    多世界解釈には、3つの問題があった。 1)多世界なんて、日常的な感性では受け容れらない → 問題(1) 2)多世界があることを、観測によって証明できない → 問題(2) 3)たくさん世界があるのに、 「現に、今、この世界であること」を説明できない → 問題(3) これらの3つの問題は、一見、致命的な問題のように思えるが、 多世界解釈ファンに言わせれば、実のところ、まったく問題ではない。 というのは、量子力学で標準的な解釈とされている コペンハーゲン解釈も、まったく同じ問題を含むからだ。 1)多世界なんて、日常的な感性では受け容れらない そんなこといったら、コペンハーゲン解釈だって、同じである。 2重スリット実験において、観測していない1個の電子は、 「スリットAを通ったかもしれない電子」「スリットBを通ったかもしれない電子」 という2つの状態で、同時に存在している、 というコペンハーゲン解

  • 多世界解釈の問題(2) - 哲学的な何か、あと科学とか

    ●多世界があることを、観測によって証明できない 多世界解釈の問題は他にもある。 質問)たくさんの世界が、重なり合って同時に存在しているっていうけど、 どうやったら、もうひとつの別世界を認識できるの? もっともな質問だ。 だが、これについて、多世界解釈は、 「多世界を認識することは、どうやっても無理だ」と あっさり答える。 そうすると、 「えぇ〜?じゃあ、多世界があるかどうかを絶対に証明できないってこと?」 というミモフタモナイ話になるが、まったくそのとおりで、 ようするに、多世界解釈は、 「多世界があると言っておきながら、多世界なんか絶対見れないけどね〜」と 言っているのだ。(笑) 「人間が、多世界を認識することは原理的にできない」 これが「多世界解釈の2つ目の問題」であるが、 よくよく考えれば、当たり前の話である。 たとえばの話、シュレディンガーのの実験において、 「生きている」と「

  • 多世界解釈の問題(1) - 哲学的な何か、あと科学とか

    ●多世界なんて、日常的な感性では受け容れらない ようするに、多世界解釈とは、 「1個の電子が、 『こっちの場所にもある』 『あっちの場所にもある』 という感じで、 多重に存在できるっていうなら、 だって多重に存在するはずだ!」 「だったら、を見ている人間(私)だって、多重に存在するはずだ!」 「ということは、『この私』のほかにも、『たくさんの私』が存在し、 『それぞれの私の世界』があるってことだ!」 という話だ。 ちょっと日常的には受け容れがたい話ではある。 しかし、多世界解釈の理屈は、実のところよくできている。 そもそも、人間だって、『電子と同じ物質』でできているんだから、 人間にも量子力学を適用することは、当然で公平なことだし、 人間にも量子力学を適用したら、「多世界がある」って結論になるのも しごく当たり前のように思える。 (だいたい、「生きている」と「死んでいる」が重なって

  • 量子力学 多世界解釈 - 哲学的な何か、あと科学とか

    「シュレディンガーの」の思考実験の問題について、 1957年、当時、プリンストン大学の大学院生にすぎなかったヒュー・エヴァレットから、 とてつもなく画期的なアイデアが提示される。 そのアイデアはとてもシンプルなものだった。 「電子もも、あらゆるミクロの物質は、 可能性のまんまで、重なり合って多重に存在している、 ってのが、量子力学の結論なんでしょ? でもさぁ、『を観測している人間』だって、同じミクロの物質で作られているんだよね? だったら、なんで、 その量子力学の結論を 『人間』にも適用してあげないのさ」 それを聞いて、誰もが、はっとした。 それは、当時のどんな天才科学者たちも、みな見落としていたことだった。 よくよく考えたら、「を観測している人間」だって、 電子やと同じ物質で出来ているんだから、 「人間」にも量子力学を適用しなければ、公平ではないだろう。 「なぜ、誰も気がつかな