第5章 眺望固定病 力への意志は、超人にしか見えないものである。とすれば、我々が力への意志を認識できないのは、なぜか。それは眺望固定病(パースペクティズム)に陥っているからである。 眺望固定病とは、自分自身を尺度として、自分の支配に好都合な価値を、あたかも普遍的で客観的なものとして、世界を見てしまうことだ。たとえば「価値観の押し売り」がよい例で、これは自分の価値を相手に押し付けるものである。ニーチェは言う、「すべての価値は・・・人間の支配形態を維持し上昇させるのに有用だからという理由で生まれ、事物の本質の内へと誤って投影されたものであり、パースペクティズムの成果にすぎない。自分自身をものごとの意味や価値の尺度とみなすのは人間の幼稚さの極みである。」 また「自我」も眺望固定病の産物だ。生命とは、生体を構成する機能が自身を最大化しようとする力への意志であった。生命に限らず、意識や精神、思考、心
すべて「あとの祭り」なのだが、勉強はできるときにしておくべきだったと、後悔する日々だ。 いや、勉強して、いい会社に入って・・・とかいう意味ではなく、人生の半分強を消費したこの時点で、猛然と「いろんなことを知りたい」という知識欲が湧き起こっても、生活に追われる身となれば、なかなか本を読む時間を確保できない。 今は、「文学報国会の時代」(吉野孝雄・著)という本を読みつつ、文学者が戦争協力をしないと生きていけなかった「悲劇の時代」を感得し、多量の悲愁を胸の底に沈殿させているのだが、あることがきっかけで、また別のテーマに興味を持ってしまったのである。 そのあることとは、例のレイシスト、ファシスト集団である「在特会」が、最近のデモ行動のなかで撒き散らしているらしいビラ「『朝鮮進駐軍』をご存知ですか?」を、ネットで目にしたこと。 在特会サイトを開き、最初の「朝鮮進駐軍をご存知ですか?」の上のURLをク
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