2008年8月の南オセチア戦争の際もそうであったが、旧ソ連の周辺部で紛争が起きると、ロシアと北大西洋同盟の競合の文脈で解釈される。紛争の最大当事者である南オセチアやクリミアの市民の意向は無視されるか、あるいは彼らが誰かの傀儡であるか、誰かの銃剣で脅されて投票する哀れな存在であるかのような報道がなされる。このような見方の背景にあるのは、ウクライナ、モルドヴァ、南コーカサスの政治を決めるのは、その国をめぐるロシアと欧米の間の力関係であるという「代理戦争」論である。 クリミア現地の観点からは、2009年以降の政治史は次のようにまとめることができる。2010年のヤヌコヴィチの大統領選での勝利に前後して、クリミアにはドネツィク州、特に同州の中規模都市であるマキーイフカ(マケエフカ)市から指導者が送り込まれ、現地指導者を従属させた。出身地をもじって、これら外来エリートは「マケドニア人」と呼ばれた。マケ
【ドネツク(ウクライナ東部)=佐々木正明】ウクライナ南部オデッサで2日、親欧米路線を掲げるデモを行っていたウクライナ暫定政権支持派の住民らとロシア系住民らと激しく衝突した。後に労働組合の建物で放火とみられる火災が起こり、40人以上が死亡した。地元メディアによると、死亡者のうち15人がロシア人で、5人は隣国モルドバの親ロシア地域「沿ドニエストル」の住民だという。負傷者も100人以上出ている。 ウクライナ東部で続く、親露派住民をめぐる混乱が南部に拡大したかたちだ。暫定政権はヤレマ第一副首相をオデッサに派遣し、現場対応に当たらせている。 一方、露外務省は声明を出し、暫定政権に対し、責任を持って無秩序状態を収束させるよう要求した。 衝突は2日午後、オデッサ市内中心部で起きた。双方が石や火炎瓶を投げるなどして、少なくとも4人が死亡した。この後、衝突の場所は労働組合の建物に移り、火災が発生。中にいた人
ブログネタ:国際 に参加中! 2004年の「オレンジ革命」で脱ロシア・欧米接近を急速に進めたウクライナは、革命の敗者である野党の地域党党首ビクトル・ヤヌコビッチ前首相を新たな大統領に選出しました。 オレンジ革命と同時期に起こったグルジアの「バラ革命」やキルギスの「チューリップ革命」では、革命後の政権が翼賛体制を築き、民主化の後退が指摘されています。これに対し、ウクライナでは今回の大統領選で見られたように、報道・言論の自由や政党政治の機能が比較的維持されていて、革命の果実である民主主義が一定程度根付いていると言ってよいでしょう。 ユリア・ティモシェンコ首相は、選挙に不正があったとして結果を受け入れない姿勢を示していますが、再び「色の革命」が起きるような機運にはありません。ウクライナ国民は指導者の権力闘争にうんざりしていて、革命など欲してはいないことを“ウクライナのジャンヌ・ダルク”も認識すべ
【モスクワ時事】ウクライナ南部のクリミア自治共和国の親ロシア派のアクショノフ首相は1日、全軍と治安部隊を指揮下に置くと宣言するとともに、治安回復のためロシアのプーチン大統領に支援を要請した。 一方、ウクライナ新政権のテニュフ国防相は1日の初閣議で、クリミア半島南部フェオドシヤで、ウクライナ軍部隊が武装したロシア軍人らを拘束したことを明らかにした。ロシア軍人らはウクライナ海兵隊基地に侵入しようとして捕まったという。 ロシア大統領府は、アクショノフ首相の支援要請を「無視しない」との立場を明らかにした。アクショノフ氏は「内務省、非常事態省、陸軍、海軍、税務当局、国境警備隊を掌握する」と語っており、クリミア自治共和国による事実上の「軍」創設の動きとみられる。 ウクライナのヤツェニュク首相は、南部クリミア半島でのロシア軍の不穏な動きについて、「駐留協定違反だ」と批判した。
シリア反体制派の動向に注目していますが、どうやら段々、おかしな方向へ行きつつある気配です。 主流派の自由シリア軍については、かなり早い時期から、腐敗分子やならず者の混入、組織内部の連携の悪さ、熟練度の低さが表面化していました。海外の反体制派の代表組織もいつまで経ってもまとまれずにいます。 そんな中、これまではアルカーイダ系のヌスラ戦線や外国人義勇兵団ムハージリーンなどのサラフィ組織が—意外にも—評判がよく、反体制派の中で、とりわけ軍事的に重要性を増していました。 ところが、ここへ来て、今まで「意外にまとも」といわれたサラフィ組織が迷走を始めているようです。 まず、シリア版アルカーイダたるヌスラ戦線に「お家騒動」が持ち上がりました。ヌスラ戦線はもともと、イラクで活動している「イラク・イスラム国」から分かれてできたともいわれ、深い関係を持っています。この、イラク・イスラム国のアミール・バグダー
フリーの報道記者の常岡浩介さんちのツイートが判りやすいので紹介。 アルジェリア当局は「人質800人近くを解放した」などと発表していたが、犯行グループが拘束したと認知していたのは40人ほどだったみたいで、それより多くが殺害されてしまった:アルジェリア人質事件で首相が会見、「外国人37人死亡」 http://www.afpbb.c/10146636 ... 日本で、武器を持った犯人が人質を取って立て籠もり、なんて事件は珍しくないが、人質を警察が射殺すれば作戦大失敗だし、幹部の責任を問われる。今回、最終的な犠牲者数は50人近くに上りそうだと。アルジェリア当局がなにもしなかった方がまだ、被害は少なかったということか。そりゃ、失敗だろう。 そんなデタラメを仏をはじめ、欧米諸国は当初の批判ムードを変えて支持を表明。これは、マリでやらかしつつある、もっと大規模な殺戮を正当化するためだと、オランド自身が白
ロシア西部スモレンスク州で、空港近くの森にポーランド政府専用機が墜落し、ポーランド大統領夫妻や政府高官ら多数が犠牲となった。 1940年、ソ連がポーランドの軍人ら2万人以上を虐殺した「カティンの森事件」から今年で70年。7日にプーチン首相が追悼式典を行って「和解」を呼び掛けたばかりだったが、そこに招待されたのは首相だったので、改めてカチンスキ大統領が参加するポーランド主催の追悼式を、10日に行う予定だった。まさか墜落は純然たる事故ではあろうが、ロシアからの遠心力の強い大統領が招待されずに自前式典を余儀なくされたという複雑さに、ロシアの「政治的思惑」が表れている。 今更いうまでもないが、「カティンの森」の大量虐殺とその後の隠蔽と政治利用の歴史は、20世紀がどういう時代であったか、そして「政治権力」というものがどういうものであるか、をまざまざと示している。 ナチスがやったのだと主張し続けてきた
「死刑に賛成でも反対でも、執行を実際に見たら失望する」アメリカの元刑務官が語る制度の実態 今改めて考えたい「死刑」
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