人生と環境に関するsatoshiqueのブックマーク (5)

  • “世界一貧しい大統領” が語る「真の幸せ」とは? | NHK

    大統領在任中も公邸ではなく郊外の農場で生活を続け、1国のリーダーとしては異例の質素な生活を貫いた、南米ウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領。 かつて“世界一貧しい大統領”と呼ばれましたが、「多くのものを必要とする者こそ貧しいのだ」と意に介しませんでした。 そのムヒカさんに大統領を退任したあとのいまの生活ぶりや現代社会の課題、そして若者に向けたメッセージを聞きました。 (サンパウロ支局長 木村隆介) そもそもウルグアイってどんな国? 大西洋に面し、南米の大国、ブラジルとアルゼンチンに挟まれるように位置するウルグアイ。 ウルグアイの首都モンテビデオ郊外 面積は日の半分ほどで、人口はおよそ350万。 首都モンテビデオに人口の3分の1以上が集中しています。 “世界一貧しい大統領” ムヒカさんってどんな人? モンテビデオで演説するムヒカさん(1986年) モンテビデオ近郊の貧しい家庭に生まれたムヒカさ

    “世界一貧しい大統領” が語る「真の幸せ」とは? | NHK
    satoshique
    satoshique 2024/02/07
    “去る者はまだ去っておらず、来る者はまだ来ていない”
  • 坂本龍一は、驚くほど気さくで、唯一無二の人だった/佐々木敦 | 日刊SPA!

    「坂龍一がいない世界がやってきた」。 そう表現するのは、坂さんと長らく交流があった思考家の佐々木敦氏だ。日のポピュラー音楽史を通覧する氏の近著『増補・決定版 ニッポンの音楽』 でも、4章のうち丸々1章がYMOと坂龍一さんに割かれている。 3月28日に逝去した坂龍一さんの人と音楽について、寄稿して頂いた(以下、文/佐々木敦氏)。 Photo by zakkubalan (c)2022 Kab Inc. 昨年12月に配信された最後のコンサート<Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022>は、dTVで見ることができる(期間限定) 1979年、私は中学生だった。ある日、学校から帰ると、自宅のテレビに奇妙な光景が映し出されていた。不思議ないでたちをした男たち(女性もいた)が、不思議な楽器(機械?)を無表情で操りながら、それまで聴いたことのなかった不思議

    坂本龍一は、驚くほど気さくで、唯一無二の人だった/佐々木敦 | 日刊SPA!
  • 坂本龍一、亡くなる。 (渋谷陽一の「社長はつらいよ」)-rockinon.com|https://rockinon.com/blog/shibuya/205847

    悲しい。僕たちはとても大きなものを失ってしまった。 「NO NUKES」の時、既に闘病中であったのにもかかわらず、彼はいつも舞台袖で演奏を終えたアーティストを全員拍手で出迎えた。 万全な体調ではないので、休んでくれと言っても「参加アーティストに感謝の気持ちを伝えたい」と、彼は最後までやり続けた。 結果、半日以上の長いイベント中、彼はかなり長い時間、舞台袖に立っていた。 どこかシニカルでクールなイメージがあるが、とても熱い人だった。彼の音楽と向き合った人なら、その音楽がとてもエモーショナルで熱いことを知っていると思う。 当に残念だ。失ったものが大き過ぎる。悲しい。 ご冥福をお祈りします。

    坂本龍一、亡くなる。 (渋谷陽一の「社長はつらいよ」)-rockinon.com|https://rockinon.com/blog/shibuya/205847
  • 音楽家 坂本龍一さん死去 71歳 YMOなどで世界的に活躍 | NHK

    大学院を修了後、1978年にミュージシャンの細野晴臣さん、高橋幸宏さんとともに「イエロー・マジック・オーケストラ」=「YMO」としてアルバムを発表し、当時の最新の電子楽器を使った斬新な音楽性で“テクノポップ”という新たなジャンルを築きました。 1983年にYMOが解散したあと、坂さんは、同じ年に公開された映画「戦場のメリークリスマス」に俳優として出演し、坂さんが手がけた映画のテーマ曲は、長年にわたって聞き続けられる代表曲の一つとなりました。 そして1988年には、映画ラストエンペラー」の音楽でアカデミー賞作曲賞を受賞したほか、グラミー賞など数々の賞を受賞して国際的な評価を高めました。 また、東日大震災の被災者支援の音楽活動にも力を注いだほか、脱原発と非核を訴える活動を行うなど、社会的な活動にも力を入れてきました。

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  • 田舎が嫌いだったんじゃなくて、自分が嫌いだったんじゃないか【群馬県前橋市】(寄稿:朽木誠一郎) - SUUMOタウン

    著: 朽木誠一郎 2浪1留で6年制の大学を卒業したら27歳になっていた。不覚である。 大学は群馬県の前橋市というところにあった。人生の4分の1相当の時間をそこで生活したことになる。当時、僕は前橋が嫌いだった。 前橋市内の風景(画像:PIXTA) 前橋にも、そもそも群馬にも、縁もゆかりもなかった。受かった大学に入ったというのが正直なところだ。 赤城山と榛名山と妙義山に囲まれた市内には、大学と県庁くらいしかめぼしいものはない。遊び場は自遊空間かラウンドワンで、車社会だから飲み屋に行くにも運転代行が必要だった。 隣の高崎市は新幹線の停車駅で、セレクトショップやクラブがあり、郊外にはイオンモールもあった。週末はそこいらで過ごしたりしたけれど、そういうのもだんだん面倒になって、仲間内でもっぱら宅飲みをしていた。 内向的な性格というわけではないものの、次第に田舎らしいムラのようなコミュニティーが生まれ

    田舎が嫌いだったんじゃなくて、自分が嫌いだったんじゃないか【群馬県前橋市】(寄稿:朽木誠一郎) - SUUMOタウン
    satoshique
    satoshique 2016/11/24
    結局は内面の問題だとすれば、田舎に限らずどんな街でもあり得る話じゃないかな。あるいは国レベルでも。
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