リアリティと日本語の使い方に関するwakabaroomのブックマーク (74)

  • 日本の識字率に関する誤解について - Togetter

    の識字率に関するやり取り。まとめを拒否されたので、自分のレスのみ記載(それでも情報価値ありと判断)。どちらが正しいかは読者にお任せしますが、まとめ側としては「日に関する誇張されたデータが左右関係なく共有されている」ということに対する危機感として行いました。

    日本の識字率に関する誤解について - Togetter
  • 使う言語が「世界の見え方」を決めている:研究結果

    wakabaroom
    wakabaroom 2015/05/19
    ”バイリンガルの行動と周りの世界の捉え方は、その瞬間に話している言語に依存する。そして彼らは、使用する言語を変えると、同時に行動や物事の捉え方も変化させるという”"物事の捉え方などの非言語的な場面"→?
  • 恐山あれこれ日記: 見ただけで走る

    wakabaroom
    wakabaroom 2014/09/21
    ”釈尊の沈黙は、言葉と言葉で意味されるものとの間を見ています。すなわち、沈黙は単なる言語の欠如や無視ではないのです。”
  • 【言葉ってすごいねII(4)】つくり出せる“火事場のばか力”、恐怖を押さえ込む「鷹取の手」…異色の武術家、甲野善紀の物語(1/4ページ) - MSN産経west

    試合直前、アスリートなら誰もが緊張する。「いつも通りにやれば…」と言葉を繰り返してみても、大舞台になればなるほど身体はかえってこわばる。

    【言葉ってすごいねII(4)】つくり出せる“火事場のばか力”、恐怖を押さえ込む「鷹取の手」…異色の武術家、甲野善紀の物語(1/4ページ) - MSN産経west
    wakabaroom
    wakabaroom 2014/07/06
    "鶴の恩返しでの機織りの姿、浦島太郎の玉手箱の中身というように、見てはいけない、理由を知ろうとしてはいけないという題材は昔話によく登場する。"
  • 恐山あれこれ日記: 話の変え方

    話の変え方 「たとえば坐禅について、君は小難しい理屈を言うかと思うと、頭を冷やすためにするだの、リラックスの方法だのと、妙に簡単な話をする。方便と言えばそうかもしれないが、悪く言えば二枚舌じゃないのか?」 「対機説法という言葉があるのを知っているか?」 「ああ。お坊さんが相手に合わせて、つまり相手の立場や理解力に合わせて教えを説くことだろう」 「ぼくはね、相手に合わせて説くんじゃないの。相手の問題に合わせて言うの」 「どう違うんだ」 「『悟り』とか、『身心脱落』とか言い出す相手なら、小難しい理屈で話せばいいじゃない。だけど『最近煮詰まってて、頭を空っぽにしたい』とか、『職場のストレスがひどくて、何とかしたい』とか言う人に、『悟り』もへったくれもないでしょ。坐禅がそれなりに役に立ちそうだと思ったら、問題の範囲内で紹介すればいいだけさ」 「なんだか不誠実だなあ」 「そう思うのは、君が仏教の『真

    恐山あれこれ日記: 話の変え方
    wakabaroom
    wakabaroom 2014/06/30
    "彼に通じないのは、言い方じゃないよ。彼の抱えてる問題に関係ないからさ""仏教の言葉が語り手自身の体験に刺さっている。だから、その痛みから発する言葉で、教えをいくらでも具体的に語ることができる"
  • 恐山あれこれ日記: 発熱最中

    発熱最中 ずいぶん久しぶりに風邪をひいて寝込んでしまいました(寝込むのは20年ぶりくらいか?)。インフルエンザでもないのに情けない話です。 こうなると手も足もです、ただ寝ているだけです。すると、子どもの頃からの習慣で、発熱した頭のまま、様々な妄想・追想が出てきます(私は熱に強いです。なんの自慢にもなりませんが)。その中で、ずいぶん昔のことをひとつ思い出しました。 中学生で京都に修学旅行に行った時のことです。私は初めて、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像という、有名な仏像を見ました(確か、国宝彫刻第一号だったでしょうか)。 私はこの時、像を見ているうちに、ほかの生徒が全部移動してしまい、探しに来た教師にえらく怒られてしまいました。 「お前はこういうのに感動するのか」 教師は聊かあきれてそう言いましたが、実は私にはそのとき何を感じていたのか、まったく記憶がありません。結構長い時間見ていたのでしょうが、

    恐山あれこれ日記: 発熱最中
    wakabaroom
    wakabaroom 2014/03/21
    ”考えることは、私の「業」なのでしょう。そして、自分の考えることに大した根拠も意味もないことを、かなり以前から漠然と感じていたのだと思います"…と、プロセスワーク的に至るのが驚き。深い。
  • 恐山あれこれ日記: 言葉と体験

    言葉と体験 「仏教とは根的に言葉の問題だ」という言い方を時々していると、必ず「体験主義者」的人物から、同じような反論を繰り返し聞かされます。いわく、 「あなたは空の青さを言葉で言い尽くせますか? 無理でしょ。仏教の真理や悟りもそれと同じです。体験しない限り決してわからないのです」 たとえ上を向いて空の青さを見ていても、彼がそれきり何も言わなければ、「空の青」を見ていたかどうかさえわかりません。彼が「ああ青いねえ」と言い、別人が「そうだねえ」と言わない限り、「空が青い」かどうか、誰にも(人にも)わかりません。 何をどう体験しようと、体験それ自体は、徹頭徹尾、無意味なのです。「意味」を作り出すの言語であって経験ではありません。 他方、言語はそれが語ろうとする当の対象に原理的に届きません。「私」という言葉が、自分以外のすべての人物にも使われていることを考えれば、一目瞭然でしょう。「今」「ここ

    恐山あれこれ日記: 言葉と体験
    wakabaroom
    wakabaroom 2014/03/03
    "体験そのものは無意味であり、言語自体は無力です。私が「仏教は言葉の問題だ」と言うのは、正確には「仏教の根本的テーマは言葉と経験の間にある」ということです。"
  • ほぼ日刊イトイ新聞 - 糸井重里の 「喩としての聖書──マルコ伝」の 聞きかた、使いかた。

    さて、この小さな連載の最終回です。 前回は、聖書の奇跡の話は比喩であり、 言葉の発生順でいえば 直喩の前に暗喩があったということを お伝えしました。 そして、さらに、暗喩の前には 虚喩という概念があったと 吉さんは付け加えています。 ちょっとむずかしく聞こえるかもしれないけど、 ぜひ、ついてきてくださいね。 吉さんのおっしゃっている虚喩は、 「たとえになる前の状態」を指すのだと思います。 ですから、それは、 ほんとうは名づけようのないものです。 あきらかに何か、 感情や心や経験や概念のもとがあるのに 何にも比喩されていない状態です。 黒澤明さんの映画『七人の侍』で、 長老が「やるべし」と言う 決断のシーンがあるでしょう。 あの人の「やるべし」というひと言には、 いろんな虚喩が入っています。 喩の根っこにドーンとしたものがあるのがわかるから、 村人が立ち上がり、 あの映画のお話が成り立つ

    wakabaroom
    wakabaroom 2014/02/21
    "沈黙の根っこのところで見てきたものや感じてきたものが豊かにある人は、どんな言葉の上手な人にも匹敵するし、負けない。"…吉本さんの「そんな簡単な喩で分かったなんて言っているやつはダメなんだ」が凄い。
  • 語る禅僧 - 蔵出し心理学

    語る禅僧 (ちくま文庫)南 直哉 筑摩書房 2010-11-12 売り上げランキング : 20050 Amazonで詳しく見る by G-Tools現在恐山菩提寺の住職、南禅師の処女作。1994年から月刊誌『論座』に連載されていたエッセイ集だが、ホンモノは廃れない。まだ永平寺の修行僧をしていて、書いてることもやってることも青臭いが、仏道の核心を突いている。こういう方が出てくる限り、宗教は信じるに足る。その誠実さを信じても裏切られない。 やはりホンモノは、そこに神や仏がいない。自分を権威付ける「上位者」を持たない。ただ、過去に釈迦や道元がたどったであろう道を、自分もまたたどるだけである。「苦」という名の道を。「生きることは苦である」。それが仏道の根幹。なぜ「苦」なのかと言えば、質を見ることを避けているからだ。だから「生きるとは何か」と問う。これには答はない。なぜなら、「生きること」とは「私

    語る禅僧 - 蔵出し心理学
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    wakabaroom 2014/02/04
    "禅語はいずれも教義ではなく、挑発である。"
  • 恐山あれこれ日記: 頭を「空」っぽに

    頭を「空」っぽに 「あなたは、仏教の思想は、根的に言語の問題だと言ってますが、どういうここですか」 「私は、仏教においては『「空』という考え方が、もっともオリジナルでユニークだと考えています。その場合、『空』とは、 一、存在するすべてのものには、それがそのようにあるいかなる根拠もないこと、つまり、そのものがそのままであり続けること(同一性)を保証するもの、すなわち『実体』とか『質』と呼ばれるようなものを想定しないことであり、 二、にもかかわらず我々が『存在する』と言表できるのは、『存在している』とされるものが、その ものではないものとの関係において成立していて、その関係性が暫時維持されて いる(縁起)からだ、 と考えることです。 たとえば、『机』は、机そのものに『机』である根拠が『質』として内在しているのではなく、我々が『机』として使うという関係性が、そのものを『机』にしているにすぎ

    恐山あれこれ日記: 頭を「空」っぽに
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    wakabaroom 2014/01/11
    「考えること自体から離れてみないといけないわけですね」「非常にむずかしいですが、それを必須条件として要求するのが仏教です」
  • 恐山あれこれ日記: 「本物」はウマイか?

    物」はウマイか? 人間の行動、あるいはべ物に対する最も基的な態度は、それが「べられるかどうか」で、このことは動物と共通です。そしてこれを判断できる人間は、とりわけ採集狩猟段階にある共同体では珍重され、敬意を払われたでしょうし、しまいには職業化さえしたでしょう。いわゆる「毒見役」です。 べられる物がある程度恒常的・安定的にに確保できる段階になると、次に問題となるのは、人間の場合、「栄養があるかどうか」です。 これは要するに、労働に耐えられる身体を維持・強化できるかどうかという問題意識からくるへの要求です。すなわちそれは、共同体においてメンバーを長時間一斉に働かせるような状況(近代以降)が生まれたことを意味します。ここに対応する役目が「栄養士」でしょう。彼が必要なのは、人間が共同体において「労働する実存」として再構成され、身体がそうプログラムされたときなのです。 さらに共同体内

    恐山あれこれ日記: 「本物」はウマイか?
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    wakabaroom 2013/12/18
    "「本物」は物体として存在しません。それは、市場が物体を「商品」化する際に採用した一定の手続きのことであり、いわば「物」語り=観念です。"
  • 「言葉の力」を信じない。 - 文鳥社とカラスの社長のノート

    「言葉の力」という言葉を、たまに耳にします。 その度に、こんなに気持ちの悪い言葉も中々ないよなと思う。ザワザワします。それがもしコピーライターが使っている言葉だとしたらなおのこと。その違和感を強く感じたのは、ちょっと昔の朝日新聞の広告でした。 言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。 それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。 ジャーナリスト宣言。 どうですかなんとなくモヤモヤする何かがありませんか?僕も最初は、そのモヤモヤの在処を突き止めることはできなかったのですが、小田嶋さんがとてつもなく鋭く射抜いてくれました。それがこの「コラムニスト宣言」です。とても好きな文章です。一部を引用します。 マジレスをすると、言葉を信じることより、言葉のうさんくささを自覚して、常に自らをいましめることが、ジャーナリストたる者が持つべき心構えの第一条だと思う。…中略…そう。言葉の残酷さを、言葉のせいにしては

    「言葉の力」を信じない。 - 文鳥社とカラスの社長のノート
    wakabaroom
    wakabaroom 2013/09/06
    “言葉のプロは、言葉を信用していない。僕が知る限り、本当の言葉のプロは言葉を安易に信じたりはしない。”
  • 恐山あれこれ日記: 言い方の問題

    言い方の問題 「某氏が最近出したに『南さんは輪廻の教えを否定している』と書いてあると聞きましたが、そうなのですか」と、質問されました。当ブログでも何度か書いた問題ですが、あらためて現時点の見解を述べさせていただきます。 輪廻が実際に起こる出来事かどうかは、死んだことのない今の我が身にはわかるはずがありません。私が言いたいのは、「輪廻」というものの考え方はナンセンスで、仮に「輪廻からの解脱」が言語内存在としての人間に起こるとするなら、それは「輪廻という考え方からの解脱」ということ以外にありえない、ということです。 そもそも「輪廻」という概念が意味を持つのは、まず前世・現世・来世がそのものとして実在し、その間に何らかの同一性を一貫して保持するものあって、それが「生まれ変わり死に変わり」するーーー という考え方を核心とする場合のみです。これが、私が議論する場合の「輪廻」の定義です。 つまり、「

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    wakabaroom 2012/06/14
    “今日の自分と昨日の自分の同一性を証明することさえ不可能なのに(昨日の自分はもういません)、前世と現世の間での証明など、冗談にすぎません”“輪廻するものがあるとするなら、それは言語です”
  • 内田樹「呪いの時代に」~異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか(週刊現代) @gendai_biz

    内田樹「呪いの時代に」~異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか 他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人 自己の正当性ばかりをやたら主張する。他人の揚げ足を取っては喜ぶ。他者の痛みに思いが至らず、幼稚な論理を振り回す。気持ち悪い、変な人間がこの国を跋扈している。あなたの周囲にもいますよね。 呪いをかける人たち 現代日社会は「呪い」の言葉が巷間に溢れ返っています。さまざまなメディアで、攻撃的な言葉が節度なく吐き散らされている。 現実に、ネット掲示板に「死ね」と書かれ、それにショックを受けて自殺する人たちがいる。これを「呪殺」と呼ばずにどう呼べばいいのでしょう。 中世までの日人は、呪いの実効性を信じていました。実際に呪いや祟りで人は死に、それに対する呪鎮の技法も存在した。現代人は、呪いなどというものは存在しないと思っています。でも、私たちの社会でもやはり呪いは活発に機能しています。

    内田樹「呪いの時代に」~異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか(週刊現代) @gendai_biz