日本の識字率に関するやり取り。まとめを拒否されたので、自分のレスのみ記載(それでも情報価値ありと判断)。どちらが正しいかは読者にお任せしますが、まとめ側としては「日本に関する誇張されたデータが左右関係なく共有されている」ということに対する危機感として行いました。
話の変え方 「たとえば坐禅について、君は小難しい理屈を言うかと思うと、頭を冷やすためにするだの、リラックスの方法だのと、妙に簡単な話をする。方便と言えばそうかもしれないが、悪く言えば二枚舌じゃないのか?」 「対機説法という言葉があるのを知っているか?」 「ああ。お坊さんが相手に合わせて、つまり相手の立場や理解力に合わせて教えを説くことだろう」 「ぼくはね、相手に合わせて説くんじゃないの。相手の問題に合わせて言うの」 「どう違うんだ」 「『悟り』とか、『身心脱落』とか言い出す相手なら、小難しい理屈で話せばいいじゃない。だけど『最近煮詰まってて、頭を空っぽにしたい』とか、『職場のストレスがひどくて、何とかしたい』とか言う人に、『悟り』もへったくれもないでしょ。坐禅がそれなりに役に立ちそうだと思ったら、問題の範囲内で紹介すればいいだけさ」 「なんだか不誠実だなあ」 「そう思うのは、君が仏教の『真
発熱最中 ずいぶん久しぶりに風邪をひいて寝込んでしまいました(寝込むのは20年ぶりくらいか?)。インフルエンザでもないのに情けない話です。 こうなると手も足もです、ただ寝ているだけです。すると、子どもの頃からの習慣で、発熱した頭のまま、様々な妄想・追想が出てきます(私は熱に強いです。なんの自慢にもなりませんが)。その中で、ずいぶん昔のことをひとつ思い出しました。 中学生で京都に修学旅行に行った時のことです。私は初めて、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像という、有名な仏像を見ました(確か、国宝彫刻第一号だったでしょうか)。 私はこの時、像を見ているうちに、ほかの生徒が全部移動してしまい、探しに来た教師にえらく怒られてしまいました。 「お前はこういうのに感動するのか」 教師は聊かあきれてそう言いましたが、実は私にはそのとき何を感じていたのか、まったく記憶がありません。結構長い時間見ていたのでしょうが、
言葉と体験 「仏教とは根本的に言葉の問題だ」という言い方を時々していると、必ず「体験主義者」的人物から、同じような反論を繰り返し聞かされます。いわく、 「あなたは空の青さを言葉で言い尽くせますか? 無理でしょ。仏教の真理や悟りもそれと同じです。体験しない限り決してわからないのです」 たとえ上を向いて空の青さを見ていても、彼がそれきり何も言わなければ、「空の青」を見ていたかどうかさえわかりません。彼が「ああ青いねえ」と言い、別人が「そうだねえ」と言わない限り、「空が青い」かどうか、誰にも(本人にも)わかりません。 何をどう体験しようと、体験それ自体は、徹頭徹尾、無意味なのです。「意味」を作り出すの言語であって経験ではありません。 他方、言語はそれが語ろうとする当の対象に原理的に届きません。「私」という言葉が、自分以外のすべての人物にも使われていることを考えれば、一目瞭然でしょう。「今」「ここ
さて、この小さな連載の最終回です。 前回は、聖書の奇跡の話は比喩であり、 言葉の発生順でいえば 直喩の前に暗喩があったということを お伝えしました。 そして、さらに、暗喩の前には 虚喩という概念があったと 吉本さんは付け加えています。 ちょっとむずかしく聞こえるかもしれないけど、 ぜひ、ついてきてくださいね。 吉本さんのおっしゃっている虚喩は、 「たとえになる前の状態」を指すのだと思います。 ですから、それは、 ほんとうは名づけようのないものです。 あきらかに何か、 感情や心や経験や概念のもとがあるのに 何にも比喩されていない状態です。 黒澤明さんの映画『七人の侍』で、 長老が「やるべし」と言う 決断のシーンがあるでしょう。 あの人の「やるべし」というひと言には、 いろんな虚喩が入っています。 喩の根っこにドーンとしたものがあるのがわかるから、 村人が立ち上がり、 あの映画のお話が成り立つ
語る禅僧 (ちくま文庫)南 直哉 筑摩書房 2010-11-12 売り上げランキング : 20050 Amazonで詳しく見る by G-Tools現在恐山菩提寺の住職、南禅師の処女作。1994年から月刊誌『論座』に連載されていたエッセイ集だが、ホンモノは廃れない。まだ永平寺の修行僧をしていて、書いてることもやってることも青臭いが、仏道の核心を突いている。こういう方が出てくる限り、宗教は信じるに足る。その誠実さを信じても裏切られない。 やはりホンモノは、そこに神や仏がいない。自分を権威付ける「上位者」を持たない。ただ、過去に釈迦や道元がたどったであろう道を、自分もまたたどるだけである。「苦」という名の道を。「生きることは苦である」。それが仏道の根幹。なぜ「苦」なのかと言えば、本質を見ることを避けているからだ。だから「生きるとは何か」と問う。これには答はない。なぜなら、「生きること」とは「私
頭を「空」っぽに 「あなたは、仏教の思想は、根本的に言語の問題だと言ってますが、どういうここですか」 「私は、仏教においては『「空』という考え方が、もっともオリジナルでユニークだと考えています。その場合、『空』とは、 一、存在するすべてのものには、それがそのようにあるいかなる根拠もないこと、つまり、そのものがそのままであり続けること(同一性)を保証するもの、すなわち『実体』とか『本質』と呼ばれるようなものを想定しないことであり、 二、にもかかわらず我々が『存在する』と言表できるのは、『存在している』とされるものが、その ものではないものとの関係において成立していて、その関係性が暫時維持されて いる(縁起)からだ、 と考えることです。 たとえば、『机』は、机そのものに『机』である根拠が『本質』として内在しているのではなく、我々が『机』として使うという関係性が、そのものを『机』にしているにすぎ
「本物」はウマイか? 人間の食行動、あるいは食べ物に対する最も基本的な態度は、それが「食べられるかどうか」で、このことは動物と共通です。そしてこれを判断できる人間は、とりわけ採集狩猟段階にある共同体では珍重され、敬意を払われたでしょうし、しまいには職業化さえしたでしょう。いわゆる「毒見役」です。 食べられる物がある程度恒常的・安定的にに確保できる段階になると、次に問題となるのは、人間の場合、「栄養があるかどうか」です。 これは要するに、労働に耐えられる身体を維持・強化できるかどうかという問題意識からくる食への要求です。すなわちそれは、共同体においてメンバーを長時間一斉に働かせるような状況(近代以降)が生まれたことを意味します。ここに対応する役目が「栄養士」でしょう。彼が必要なのは、人間が共同体において「労働する実存」として再構成され、身体がそうプログラムされたときなのです。 さらに共同体内
「言葉の力」という言葉を、たまに耳にします。 その度に、こんなに気持ちの悪い言葉も中々ないよなと思う。ザワザワします。それがもしコピーライターが使っている言葉だとしたらなおのこと。その違和感を強く感じたのは、ちょっと昔の朝日新聞の広告でした。 言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。 それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。 ジャーナリスト宣言。 どうですかなんとなくモヤモヤする何かがありませんか?僕も最初は、そのモヤモヤの在処を突き止めることはできなかったのですが、小田嶋さんがとてつもなく鋭く射抜いてくれました。それがこの「コラムニスト宣言」です。とても好きな文章です。一部を引用します。 マジレスをすると、言葉を信じることより、言葉のうさんくささを自覚して、常に自らをいましめることが、ジャーナリストたる者が持つべき心構えの第一条だと思う。…中略…そう。言葉の残酷さを、言葉のせいにしては
言い方の問題 「某氏が最近出した本に『南さんは輪廻の教えを否定している』と書いてあると聞きましたが、そうなのですか」と、質問されました。当ブログでも何度か書いた問題ですが、あらためて現時点の見解を述べさせていただきます。 輪廻が実際に起こる出来事かどうかは、死んだことのない今の我が身にはわかるはずがありません。私が言いたいのは、「輪廻」というものの考え方はナンセンスで、仮に「輪廻からの解脱」が言語内存在としての人間に起こるとするなら、それは「輪廻という考え方からの解脱」ということ以外にありえない、ということです。 そもそも「輪廻」という概念が意味を持つのは、まず前世・現世・来世がそのものとして実在し、その間に何らかの同一性を一貫して保持するものあって、それが「生まれ変わり死に変わり」するーーー という考え方を核心とする場合のみです。これが、私が議論する場合の「輪廻」の定義です。 つまり、「
内田樹「呪いの時代に」~異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか 他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人 自己の正当性ばかりをやたら主張する。他人の揚げ足を取っては喜ぶ。他者の痛みに思いが至らず、幼稚な論理を振り回す。気持ち悪い、変な人間がこの国を跋扈している。あなたの周囲にもいますよね。 呪いをかける人たち 現代日本社会は「呪い」の言葉が巷間に溢れ返っています。さまざまなメディアで、攻撃的な言葉が節度なく吐き散らされている。 現実に、ネット掲示板に「死ね」と書かれ、それにショックを受けて自殺する人たちがいる。これを「呪殺」と呼ばずにどう呼べばいいのでしょう。 中世までの日本人は、呪いの実効性を信じていました。実際に呪いや祟りで人は死に、それに対する呪鎮の技法も存在した。現代人は、呪いなどというものは存在しないと思っています。でも、私たちの社会でもやはり呪いは活発に機能しています。
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