タグ

任天堂に関するDRAM64KBのブックマーク (16)

  • なぜ「横井システム」はすごかったのか?|モバイルおやじ

    モバイルおやじインターネット&モバイル、国政&行政について。時々プライベートネタあり。なぜ「横井システム」はすごかったのか? 先日「任天堂が勝っている理由はただ一点「宮システム」にしかない 」というブログを読んで 「その前に「横井(軍平)システム」があるのに」と思っていたが 同じ方が「横井システムの誕生と終焉が宮システムを作った 」というエントリを書いていた。 そこで今日は・・・ なぜ「横井システム」はすごかったのか? ・・・ということを書いてみたい。 ・・・とは言って、 内容はインタビュー記事の転載だけである。 今回掲載するインタビュー記事は 私が働いていたGAME BUSTERSというインターネットメディアで 現在はエンターブレインの局長のmiyaさん が 横井軍平さんと直接会ってインタビューした時のものである。 インタビュー

  • [B! Nintendo] uemuのブックマーク

    粗末なアーキテクトによる車輪の再実装に膨大なリソースを浪費した 私はNokiaに入社するとN-Gageプロジェクトに配属された。N-GageとはNokiaの携帯上のゲーム用プラットフォームで、スペックの基準を満たした対応端末上でゲームをダウンロード購入して遊べるというものだった。ゲーム内課金や、ネットワーク対戦機能など、クオリティは低かったものの機能と仕組みはあった。 私の任務は当時は主流だった3Dアクセラレーターの載っていない端末上でも3Dゲームを動かせるようにソフトウェアのOpenGLES1.1スタックの実装することだった。しかしこれは自前でエンジンを実装、サポートすることがプロジェクトにとってナンセンスであり、HIのエンジンをライセンスするべきであるという度重なる主張が退けられた挙句に渋々受け入れたもので、会社の判断としては非合理的だと思った。当時はソフトウェアレンダラを書くのは自分

  • Philosophy of Nintendo

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

  • 【任天堂「ファミコン」はこうして生まれた】 最終回:野村証券と通信アダプタを開発、ゲームは断念 - 日経トレンディネット

    1983年に発売したファミリーコンピュータ(ファミコン)の普及台数が、1987年には1200万台近くに達していた。ここまで普及したファミコンに野村証券など証券業界が目を付けた。ファミコンを電話回線につないで、株価など証券情報の提供や株式の売買ができるようにしようという構想だ。任天堂は、ゲームなど多様な展開も可能と踏んで、通信アダプタを開発した。しかし株価の下落が始まると、顧客の株価への関心が薄れ、見向きもされなくなった。通信型ゲームも製品化できなかった。 1987年夏、任天堂の開発第二部部長の上村雅之(敬称略、以下同)に、同社社長の山内溥から1の電話が入った。用件は「ファミコンを使ったネットワークを野村証券と共同開発することを検討せよ」という指示だった。「四国の講演で、社長が野村証券の人と同席した。その場で、ファミコンを使ったネットワークを共同開発しようという話になったようだ」(上村)。

    【任天堂「ファミコン」はこうして生まれた】 最終回:野村証券と通信アダプタを開発、ゲームは断念 - 日経トレンディネット
    DRAM64KB
    DRAM64KB 2008/10/08
    予定調和の大団円で終わらないのはさすがNE / 読み応えあった。すげーな任天堂
  • ゲーム情報&ブログ(移転しました。【コラム】今まででもっとも最高傑作だったゲームハードは何?その1.

    今回はファミコン~現代までのメインハードで最高傑作は何?をチョイス。 自分はマスターシステム以前のセガハードには触れていない&ジャガーなどプレイディアなどは 抜粋して長所・短所・その他と記載していたら長くなりそうなので数回に分けてお届け。 ~以下最高のハードはナンだった?回想記事その1。 ~ファミコン(任天堂・1983年発売 長所:あの時代ではグラフィック機能やスプライト機能などがずば抜けていた。 同時期のセガマーク1、2とは比べ物にならないくらいすごかった。 あれで1万4800円はすごいと言わしめていた。 短所:音声がヘボかった(ただしコナミなどが独自音源を乗せたりと拡張していたソフトもあった 採用したCPUがかなりプログラムを組むのが難しいチップだったらしい。 その他:ゲームビジネスを日に根付かせたパイオニア。 「ゲームは諸悪の根源」というマスコミ等にも負けなかった精神が今も続いてい

  • 【任天堂「ファミコン」はこうして生まれた】 第7回:業務用機の仕様を家庭用に、LSIの開発から着手 - 日経トレンディネット

    1982年6月、ファミリーコンピュータ(ファミコン)の開発が始動した。外観デザインなど具体的な製品イメージのないまま、リコーと共同でLSIの開発を始めた。CPUには、リコーがライセンス権をもつ米Rockwell社の8ビット・マイコンの6502を採用した。業務用ゲーム機のソフト開発でZ80に慣れていた開発スタッフには、当初戸惑いがあった。そこへ、6502を知りつくしている新入社員がスタッフに加わり、開発ピッチが加速していった。 業務用ゲーム機の「ドンキーコング」の技術を基に家庭用テレビゲーム機を開発する――。 上村雅之(敬称略、以下同)が率いる任天堂 製造部 開発第二部がファミリーコンピュータ(ファミコン)の開発に着手したのは1982年6月である。開発コード名はガメコム(GAMECOM)だった。 Coleco社の製品に刺激された ファミコン開発に当たって、任天堂が強く意識した製品がある。

    【任天堂「ファミコン」はこうして生まれた】 第7回:業務用機の仕様を家庭用に、LSIの開発から着手 - 日経トレンディネット
    DRAM64KB
    DRAM64KB 2008/10/03
    リコーは、6502を使えばチップ面積はZ80の1/4になり、残り3/4に好きな回路を入れられると任天堂に説明した/他社から真似をされないためには国内であまり普及していないアーキテクチャのほうがよい
  • 【任天堂「ファミコン」はこうして生まれた】 第6回:業務用ゲーム機の挫折をバネにファミコンの実現に挑む - 日経トレンディネット

    携帯型ゲーム機の「ゲーム&ウォッチ」がヒット商品になろうとしていたころ、任天堂の開発第二部は業務用ゲーム機の開発に手を染めていた。ところが1981年に開発した「レーダースコープ」が不発に終わり、大量の在庫を抱えてしまう。ハードウエアをなんとか生かそうと社内公募でアイデアを募り「マリオ」が登場するドンキーコングが生まれた。このドンキーコングの回路がファミリーコンピュータ(ファミコン)の母体となった。ファミコンの開発は1982年の春にスター卜する。 任天堂 製造部 開発第一部に所属していた横井軍平(敬略、以下同)と岡田智のコンビで開発した携帯型ゲーム機「ゲーム&ウォッチ」がヒットし始めた1980年代初め、上村雅之が率いる開発第二部は業務用ゲーム機の開発に乗り出していた(図1)。1979年の「ブロック崩し」を最後に専用LSIを使った家庭用ゲーム機からは手を引き、CPUを搭載する業務用ゲーム機に

    【任天堂「ファミコン」はこうして生まれた】 第6回:業務用ゲーム機の挫折をバネにファミコンの実現に挑む - 日経トレンディネット
    DRAM64KB
    DRAM64KB 2008/10/02
    遂にファミコンの開発が始まった! / 社長の山内は、「遊んでいる社員が1人や2人いても会社はつぶれないから心配するな」とゲーム&ウォッチを開発する以前に岡田に言ったことがある。
  • http://www.inside-games.jp/news/print.php?id=17522

  • ■ ファミコンの開発  上村 雅之(うえむら まさゆき) ■

  • 「遊びをせんとや生まれけむ」--生みの親が語るファミコン成功の秘訣

    デジタルゲーム学会(DiGRA)は9月24日から28日まで、ゲーム研究の国際的・学際的交流を図るためのカンファレンス「DiGRA 2007」を開催した。最終日となる28日には、任天堂のファミリーコンピュータの生みの親である上村雅之氏と、ナムコ(現:バンダイナムコゲームス)の「パックマン」を生み出した岩谷徹氏の対談が行われた。ゲーム業界の2人の「神」が登場するとあって会場には海外からも多くの関係者が集まり、講演後には2人のまわりに聴衆が何十人も集まるなど熱気を帯びたセッションとなった。 セッションはまず2人がそれぞれがゲーム歴史を振り返り、その後司会者からの質問に答える形となった。ここでは、上村氏の話を紹介する。 玩具業界が支えたビデオゲーム歴史 上村氏は1971年に任天堂に入社。30年以上にわたり、ゲームの開発に携わってきた。現在は任天堂のアドバイザーを務めるとともに、立命館大学大

    「遊びをせんとや生まれけむ」--生みの親が語るファミコン成功の秘訣
  • ディスクシステムの生みの親 上村雅之氏インタビュー

    もともと私はシャープ株式会社の社員で、自分で開発した半導体の部品を売り歩いていたんですね。そのセールス先のひとつが任天堂で、"光線銃"という商品の電子回路を受託したことがご縁で、その後、任天堂へ入ることになりました。ディスクシステム誕生の前に、まずファミコンがあるわけですが、それ以前にビデオゲーム開発の責任者をやっていまして。それで、社長が「アーケードゲームテレビ画面でも遊べるようなものを作れ」ということを言いまして、そこからファミコン開発がスタートしたんです。 そうです。社長にファミコン開発を言い渡されたのが、ゲーム&ウォッチ全盛の1981年頃ですね。人気商品は必ずコピー商品が出て市場が飽和状態になりますから、それを見越してのことでした。ファミコンにあたるものの開発には、いろいろ考えましたよ。当時アメリカでは『ATARI2600』が大ブームでしたから、それを参考にしようかなと思ったんで

  • 上村雅之×細井浩一「ファミコンとは何だったのか──ディジタルな表象文化の成立」

    ファミコンとは何だったのか ──ディジタルな表象文化の成立── 上村雅之×細井浩一(対談) 連続講演会 21世紀・知の潮流を作るパート2 第4回(表象テーマ領域) 2002/12/18 於:立命館大学衣笠キャンパス・創思館カンファレンスルーム 司会(渡辺公三) まず、最初に、この「21世紀・知の潮流を創る」について簡単に紹介します。ここに先端総合学術研究科のパンフレットを用意していますが、その巻頭に趣旨を紹介していますように、20世紀の正負さまざまな遺産を引き継ぎながら、今後21世紀にわれわれが生きていくときに、人文科学、社会科学をどう作り変えていくか、その視点をわれわれがどう生きていくべきかという広い意味での倫理の視点をベースにおいて、それを軸に人文科学、社会科学を自然科学の成果を踏まえながら再編成していこうということです。大学院生自身がプロジェクト研究を通じて、自分の研究力量を身に付け

  • 【E3】任天堂が「Wii Sports Resort」を発表--Wii MotionPlusの使い心地は?

    図1 「Wii Sports Resort」では,チャンバラ,フリスビー,水上バイクなどを,Wii MotionPlusと組み合わせて楽しめる (画像のクリックで拡大) 任天堂は「E3 Media & Business Summit」向けプレス・イベントで,人気ゲーム「Wii Sports」の続編「Wii Sports Resort」を発表した(ニュース・リリース)。Wiiリモコンのセンサ機能を強化する「Wii MotionPlus」を標準で同梱する(Tech-On!関連記事)。発売時期は2009年春。 「Wii MotionPlus」をWiiリモコンに接続することで,リモコンの角度を高い精度で検出したり,手首のひねりなど従来は検出が難しかった動きを認識できるという。Wii Sports Resortでは,「リモコンの剣に見立てて丸太を輪切りにする」「手首のスナップを利かせてフリスビーを投

    【E3】任天堂が「Wii Sports Resort」を発表--Wii MotionPlusの使い心地は?
    DRAM64KB
    DRAM64KB 2008/07/16
    MEMS方式多軸ジャイロ・センサー「IDG-600」が採用されている模様
  • 宮本茂伝説

    イチロー伝説やdankogai伝説に触発されて、宮茂伝説を書いた。 グッとガッツポーズをしただけでソフトが500万ぐらい売れた プロデュース作品が発売日前日のフライング販売だけでミリオン 海外未発売なのに個人輸入のため各国でミリオン 新作発表の数分後に任天堂の時価総額が1兆円増加 その翌日に行列が店頭にできたことも 全盛期は週間チャートトップ10に関わったソフトが15作品ランクイン 3作品が同時に売り上げ1位になった週も Haloと同じ企画を20年前に考案済み 世界的に有名なエピソード「宮茂のサインを求めてビートルズのメンバーとその家族が行列を作った」 その後、ジョージハリスンは感銘のあまりNINTENDO OF AMERICAに入社 開発部署の廊下を歩いただけで仕様書がすべてひっくり返った 睡眠中に仕様変更の指示を出したことも すでに出荷済みのソフトの出来に納得がいかず、仕様変更を

    DRAM64KB
    DRAM64KB 2007/12/14
    グッとガッツポーズをしただけでソフトが500万本ぐらい売れた
  • Happy Today 横井軍平さんの開発商品

  • 任天堂のちょっと良い話 - WEBお笑いエンジニアの日記

    語り継がれる任天堂伝説。 出所はブログだったり2chだったり。 当かどうかはわかりませんが、当であって欲しい!と思う話の数々。 心がほっこりします。 ピコーン。 93年だったか94年だかに弟が小3の時に車に跳ねられて乗ってた自転車のカゴからGBが転げ落ちて、アスファルトで削られボロボロになったんだよ。 弟が病室でボロボロになったGB見て泣きながら電源入れたんだよ。 カチッ・・・ピコーン。 それでも起動すんのな、GB。 それを修理に任天堂に送って数日後、任天堂の人から電話があったらしいのな。 「あまりにも凄い事になってるから、原因を聞きたい」とかなんとか。 母が「息子が事故にあって」って言うと修理費はいらんと。 結局こっちが負担したのは送る時だけの送料だった訳だよ。 その時は「すげーなー」位の感想だったんだが、就職して社会とか商売ってのが少しずつ判りだしてから、子供相手の商売ってこう言う

    任天堂のちょっと良い話 - WEBお笑いエンジニアの日記
  • 1