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言葉に関するcorydalisのブックマーク (4)

  • 「文は短く」は俗説か?ー〈短文信仰〉を屠り、短文のレトリックと長文のロジックを取り戻すために

    語の作文教育から文章読に至るまで、〈短文信仰〉とでも言うべきものがある。 文章表現を主題とする書籍の多くが「文は短く」と主張する。 「われわれ新聞記者は、だから、入社以来、先輩たちから、文章はできるだけ短く書くように、といわれつづけてきた。短く書こうとすると、主語と述語が近づき、事実がはっきりしてくる。込み入った因果関係のある事件などの場合には、とくにこの心構えが大切である。」(猪狩章『イカリさんの文章教室』) 「短く、短く、短く。/とにかくそれを絶えず念頭に置いてほしい。そして、短い一文に、全力を傾けていくことである。/ひとつの文に、あいまいさを残さぬことである。/文章を短くすることによって、意味のつながりを明瞭にすることができる。」(馬場博治『読ませる文章の書き方』) 「平明な文章を志す場合は、より長い文章よりも、より短い文を心がけたほうがいい。/私は、新聞の短評を書いていたころ

  • Twitter / chodo: わーい死んだ爺さんが「不景気なったら書生っぽやらスネ ...

    わーい死んだ爺さんが「不景気なったら書生っぽやらスネかじりが見てきたみたいに外国が攻めて来るとか言い出すからな。世の中不安になったら今度はお上がやら芝居やらが低俗や、けしからん言い出したら戦争や。みんな戦争したなるねん。わしそんなん2回も見た」って言ってた通りになってるー 約9時間前 webから 100+人がリツイート

  • http://starscafe.net/kotoba/misuse/nuance_a.htm

  • ことばに見放されるということ。 - kananaka's blog

    ことばを私たちがうばわれるのではなく、私たちがことばから見放されるのです。ことばの主体がすでにむなしいから、ことばの方で耐えきれずに、主体であるわたし達を見放すのです。 (『海を流れる河』"失語と沈黙のあいだ"より引用) そう日社会へ警鐘を鳴らしたのは、詩人石原吉郎(1915-1977年)である。彼は24歳で召集され、敗戦後ソ連のラーゲリ(強制収容所)にて抑留、その後スターリン死去による特赦で帰国を果たすまでの8年を、シベリア各地を転々と過ごした。懐かしい祖国の土を踏んだ時、石原はすでに38歳になっていた。 石原が身を投じた最北8年の歳月は、私の想像も及ばぬ世界である。しかし、彼が遺した散文からその苛酷さを想像することは可能だ。 十七のときに抑留され、ハバロフスクで二十二になったこの<少年>が、声をころして泣いているさまに、私は心を打たれた。泣く理由があって、彼が泣いているのではなかった

    ことばに見放されるということ。 - kananaka's blog
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