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ブックマーク / sunakago.hateblo.jp (8)

  • 批評という檻、解釈の迷宮 ――山川賢一の初期三部作について - 鳥籠ノ砂

    山川賢一は新進気鋭の文芸批評家として、これまでに三つの単著『成熟という檻 『魔法少女まどか☆マギカ』論』(2011)『Mの迷宮 『輪るピングドラム』論』(2012)『エ/ヱヴァ考』(2012)を上梓してきた。全て近年話題になったオリジナルアニメーション作品を題材にしたものであり、さらに、いずれも共通の主題を扱った論考になっていると言ってよい。それは最新作『エ/ヱヴァ考』の語彙を借りれば、私たちの正義を堕落させる「偽りのリアリティ」をめぐる問題であり、そこで経験される「ホメオスタシスとトランジスタシス」の葛藤である。 簡単に説明しておけば、偽りのリアリティとは文字どおり虚偽の現実性によって私たちを閉じ込める檻であり、ホメオスタシスとトランジスタシスとはそこで経験される維持と変化の葛藤である。たとえば偽りのリアリティは、処女作である『成熟という檻』ではタイトルどおり「成熟という檻」と名指され、

    批評という檻、解釈の迷宮 ――山川賢一の初期三部作について - 鳥籠ノ砂
  • バッドエンド症候群を超えて ――虚淵玄論(小説『Fate/Zero』について) - 鳥籠ノ砂

    はじめに なぜ、私たちは時として自他の不幸を望んでしまうのか。どうすれば、自他の幸福を望むことができるようになるのか。 虚淵玄は、株式会社ニトロプラスの取締役かつシナリオライターである。同社のデビュー作『Phantom』を手がけたのち『吸血殲鬼ヴェドゴニア』『鬼哭街』『沙耶の唄』そして『続・殺戮のジャンゴ』といったゲームシナリオを担当した。『白貌の伝道師』『アイゼンフリューゲル』といった小説や『リベリオン』の二次創作、さらに『ブラック・ラグーン』のノベライズなど活躍は多岐に渡っている。特に『ブラスレイター』『魔法少女まどか☆マギカ』『PSYCHO-PASS』『翠星のガルガンティア』といったTVアニメ作品の脚・構成・原案などは若いファンの記憶にも新しいはずだ。かくいう私も、そうした未熟な視聴者のひとりである。 虚淵玄を語る上で欠かせないのは、いわゆるバッドエンド症候群の存在である。「心温ま

    バッドエンド症候群を超えて ――虚淵玄論(小説『Fate/Zero』について) - 鳥籠ノ砂
  • 議論しない哲学者 ――ドゥルーズ+ガタリ『哲学とは何か』感想 - 鳥籠ノ砂

    ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ最後の共著であり、その思想の総決算とも呼ぶべき『哲学とは何か』(1991)は、タイトルが示すとおり、「そもそも、ドゥルーズとガタリは哲学をどのように捉えていたのか」について教えてくれる。一言で言うとすれば、彼らにとって哲学とは「概念(コンセプト)を創造すること」らしい。《こうして結局、かの問は、すなわち哲学についての問は、そこで概念と創造が互いに関係しあう特異点なのである》(23p)。ここで当然疑問に思うのは、ではその概念とはどのようなものか、ということだ。彼らの説明を順に追っていこう。 ひとつの概念とは、それ自体が概念となりうるような不可分の合成要素群から構成された「集積点」のようなものである。それは物体や身体ではないし、論理学的な命題でもないとドゥルーズ+ガタリは言う。彼らが挙げているデカルトのコギト、すなわち「我思う、ゆえに我あり」の例を見てみよ

    議論しない哲学者 ――ドゥルーズ+ガタリ『哲学とは何か』感想 - 鳥籠ノ砂
  • 現在と過去、そして病 ――TVアニメ『中二病でも恋がしたい!』論 - 鳥籠ノ砂

    TVアニメ『中二病でも恋がしたい!』は、むかし中二病を患っていた主人公・富樫勇太が、今も中二病のヒロイン・小鳥遊立花と結ばれるまでを描く恋愛劇である。そしてまた、主人公と同じく元・中二病の丹生谷森夏と、ヒロインと同じく現・中二病の凸守早苗との関係を描く青春劇であるとも言えるだろう。改めて解説するまでもなく、中二病とは主に中学生がこじらせる自意識過剰の俗称であり、多くの人間にとって消し去りたい恥の歴史である。この作品は、直視できない過去を持つ者(勇太および丹生谷)と、その過去を改めて想起させる者(六花および凸守)の二項から構成されているのだ。 とはいえ、勇太と六花の対関係は、丹生谷と凸守のそれとは決定的に異なっている点がある。一言で言えば、それは勇太に「中二病」なる忘却したい記憶があるように、六花にも「父の死」なる忘却したい記憶があることだ。そもそも彼女の中二病の原因は、幼くして経験した父の

    現在と過去、そして病 ――TVアニメ『中二病でも恋がしたい!』論 - 鳥籠ノ砂
    highcampus
    highcampus 2013/03/04
    "丹生谷は過去と現在の連続性を主張する必要に駆られている。[…]我々がやるべきは、現在と過去を調和させた上で目の前の問題を解決すること、己という「病」を生き抜くことだ。"
  • ボカロ良曲の紹介と感想 ――2013年1月『アンダンテ』『16ビットガール』『エレクトロサチュレイタ』『Don't pop me』『Q』 - 鳥籠ノ砂

    ① Dixie Flatline『アンダンテ』 http://www.nicovideo.jp/watch/sm19639179 初音ミクの「里帰り」を描く Vocaloid イメージソング。タイトルには、「大きなうねりの中でも方角を見失わないように。心は常にアンダンテ(歩くような速さで)で」という Dixie 氏の Vocaloid 文化に対する想いが込められている。『ジェミニ』のデビュー以降変わらない繊細な言葉選びによって紡がれる彼の歌詞と美しいメロディは、それだけで必聴。 原案及びPVは、ゆうゆP『深海少女』を手がけたグラフィックチーム「ODESSA」。はるよ氏によれば、ryo『ODDS&ENDS』への「視聴者側からのアンサーソング」という考えもあるとか。個人的なポイントは、里帰りするポンチョコートのミクと、Vocaloid としてのお馴染みの制服を着たミクの対比。単なる音声ソフトだ

    ボカロ良曲の紹介と感想 ――2013年1月『アンダンテ』『16ビットガール』『エレクトロサチュレイタ』『Don't pop me』『Q』 - 鳥籠ノ砂
  • 長井龍雪作品における「見る」ことと恋愛。 ――『あの夏』から『あの花』『とらドラ!』へ - 鳥籠ノ砂

    なぜこんなにメガネをかけた登場人物が多いのか。長井龍雪『あの夏で待ってる』の物語を動かす六人のうち、三人がメガネをかけている。これはアニメの伝統から言って、いささか大きな割合を占めすぎではないだろうか。メガネはたんなる物体ではなく、キャラクターの個性を形づくる「記号」のひとつだ。だが、それが約半分のキャラクターに与えられているなら、もはや個性でもなんでもない。ならば、この多すぎるメガネが作品のなかでどのような役割を果たしているのか、改めて考えなければならないだろう。そのヒントになるカットが、オープニングの最後に提出されている。そこではメガネは、映画撮影用のカメラとともにテーブルのうえに置かれている。このカメラこそ、物語が進むうえで重要になるアイテムのひとつだった。メガネの存在意義は、カメラとの関わりのなかで問われる必要がある。 メガネとカメラのふたつに共通するものとはなにか。それは、どちら

    長井龍雪作品における「見る」ことと恋愛。 ――『あの夏』から『あの花』『とらドラ!』へ - 鳥籠ノ砂
  • 遅延すること、それが新房の正義だ ――『偽物語』から『まどマギ』へ - 鳥籠ノ砂

    新房昭之が監督したTVアニメーション『偽物語』を観ながら私は、新房作品に共通するテーマにようやく気づきつつあった。この作品は、ある種の目の肥えた人々には「内容がない」と評されているらしい。だが、それはあまりに「早まった」評価だと言わざるをえない。『偽物語』のストーリーは「内容がない」というよりも、むしろ「内容を遅らせている」のだ。遅らせること、引き延ばすこと、そして生き延びること、これこそが新房作品の一貫して描いてきたテーマではないか。たとえばこの作品は、普通なら三話で済ますような物語を七話の長さで語ろうとする。その遅れは、シリーズ前作『化物語』と比べても明らかに目立つ。そしてその遅れは、登場人物らの饒舌で、一見すると筋となんの関わりもないダイアローグによってもたらされている。とすれば当然、私たちは「なぜ彼らはこうもべらべらと喋りとおすのか?」と問うしかないだろう。 ファイヤーシスターズ

    遅延すること、それが新房の正義だ ――『偽物語』から『まどマギ』へ - 鳥籠ノ砂
    highcampus
    highcampus 2012/05/28
    新房昭之
  • 果たして「他者」はどこにいるのか? ――『シュタゲ』と『クオリア』 - 鳥籠ノ砂

    『シュタインズ・ゲート』は、その物語から『紫色のクオリア』と比べられることが多い。どちらも、大切な人が死んでしまったために、主人公がタイムリープを繰り返してその人を救おうとする点が共通している。『シュタゲ』ならば岡部倫太郎が椎名まゆりを、『クオリア』ならばマナブがゆかりを、それぞれ助けようとする。 ところで、しばしば『シュタゲ』よりも『クオリア』の方がテーマ的に優れているという批評が存在する。すなわち、前者には「他者」がいないが、後者にはその「他者」がいる、ということらしい。ここでの「他者」とは、たんなる他人ではなく、なにか主人公とは異なる主体性を持った者のようだ。 具体的に見てみよう。『シュタゲ』は椎名まゆりを助けようとする際、彼女の気持ちを重視していないという。この作品では、まゆりの命を救えば、一方でもう一人のヒロインである牧瀬紅莉栖が死ぬことになっている。どちらを生かし、どちらを殺す

    果たして「他者」はどこにいるのか? ――『シュタゲ』と『クオリア』 - 鳥籠ノ砂
    highcampus
    highcampus 2012/03/05
    シュタインズ・ゲート/紫色のクオリア
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