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価値観に関するjun-kunのブックマーク (4)

  • 面倒な行動を促すのではなく、快適な結果を共有すると、うまくいく

    若い友人であるはまさん @surf_fish さんがブログに「困った」と書いていた。 写真は新居のリビング。 はまさんのブログはこちら。 ゴミをすぐ捨てられない人を捨てる人に変えるにはどうしたらいい? 要ははまさんの身近な人が片付けできない人で、共有スペースやはまさんのスペースにまでゴミが侵してくるので何とかしたい、ということだ。 この場合の「何とかしたい」は、2段階あると感じた。 第1段階は、とりあえずゴミが共有スペースやはまさんのスペースにはみ出してこないようにして欲しい。 そして第2段階が、その隣人が清潔できれいな環境の大切さを理解して、自主的にキレイな状態を作れるようになって欲しい。 もちろん第2段階が一番望ましい状態に違いない。 職場でも家でも、自分以外の人間と生活を共にすると、この手の問題は必ず起きてくる。 清潔さの度合いの違いやお金の使い方の問題、べ物のの好みや生活する時

    面倒な行動を促すのではなく、快適な結果を共有すると、うまくいく
    jun-kun
    jun-kun 2013/05/28
    そっかぁ、そうですよね、行動には動機付けが重要で、やらない理由を崩すより、やる動機を与えるほうが理に適ってる(^_^;)
  • 「こんなこと勉強して何の役に立つの?」と問われたときにオイラが答えること - ワクワク人生のススメ!

    「こんなこと勉強して何の役に立つの?」と聞かれた時、言葉を尽くせない大人が知性を殺す: 不倒城 これを読んで感じた事を書いてみる。 世の中において「役に立たない事」が面白かったりするんだよね。ゲームしかり、マンガしかり、映画しかり。*1 「何かの役に立てようとするから、勉強がつまらなくなる」要素もあるんじゃないかなーなんて、そんなことをふと考えた。 たとえば、元素の周期表を覚えるとして「すいへーりーべー...」などと覚えたりするわけだけれども、これを覚えること自体は結構面白いと*2思うんだけど、元素の周期表が実生活に役に立つか、といわれると役に立たないことが多い。*3 なので「大半の勉強、知識は役に立たないものである。」というアプローチもありなんじゃ無いかな。じゃあ、何のために勉強するのか?と問われるのであれば「面白いから勉強する」という事で良いのでは?と思う。 オイラの例を言うのであれば

    「こんなこと勉強して何の役に立つの?」と問われたときにオイラが答えること - ワクワク人生のススメ!
    jun-kun
    jun-kun 2012/06/01
    役に立つ立たないとか、損得の発想ではなく、楽しみたいですネ。知識や情報はそれ自体が価値を生むのではないですし、知らないことを知る、わからないことをわかる。楽しいと思いますよ(*^_^*)
  • コンテンツや技術が0円になっていく時代に僕らはどう生きていくのか? - teruyastarはかく語りき

    まず、インターネットと、資主義は相容れない。 ネットがあると大量消費がやりにくくなるから。 じゃあどうしたらいいんだ? ということを考えてみる。 資主義は右肩上がりじゃないと成り立たない。 その資主義は、大量消費してもらわないとお金が回らない。 なのに、ネットはコンテンツや技術を0円まで押し下げる圧力が働く。 ネットで安くなったコンテンツは回っても、お金が回らない。 過去の名作コンテンツが安値で新作と同じ棚に並ぶことになってるし、 技術はどんどん便利になり、人を不要にしていく。 なのでコンテンツ屋も技術屋も、トップ階層意外はみんな赤字になった。 ほぼ日刊イトイ新聞 - 上がりたかったんだ。E.YAZAWAの就職論 http://www.1101.com/job_study/yazawa/2007-06-06.html 矢沢 しかも、この激動の時代にね。 ヤバいと言われてたアップルが

    コンテンツや技術が0円になっていく時代に僕らはどう生きていくのか? - teruyastarはかく語りき
  • 賢者と愚者の意味が逆転した中流下流社会|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    「バカ」も「賢い」もいくらでも恣意的に解釈できる言葉だ。 「女。京大生の日記。」7月30日のエントリーに端を発した言論‘フィッシング’フェスティバルで明らかになったこと。それは、古来「賢い」と思われてきた人たちが、現代では「バカ」呼ばわりされてしまうという現実である。もちろん、それが世界の総意だなんていうつもりはない。ただ、日の学生や社会人の中に、結構当たり前に浸透している価値観であるような感触はある。どういうことか。元来、学問とは生産性を求められるものではなかった。生産は生産者の仕事で、いわゆる「賢い」人たちがすることではなかったからだ。それは端的に百姓や猟師や漁師の仕事だった。 学問は特権階級のもので、賢者とは生産者たちの幸福に「学」をもって貢献する人のことだった。宗教も科学も未分化だった時代には双方の要素を併せ持っていたかもしれない。ある種の知恵は生産者たちに生産性向上を齎しもした

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