タグ

畠山重忠に関するume-yのブックマーク (1)

  • 清廉な武士なのに「畠山重忠」を北条が滅ぼした訳

    それからしばらくして、牧の方の兄・大岡時親が北条義時を訪問し、以下のように詰問する。 「重忠の謀反は疑いない。それをあなたは、重忠に代わりごまかそうとしている。牧の方はあなたの継母。よって、継母を讒言者に仕立て上げようとのお考えか」 義時はもう一度、考え直してみるとの返答をし、その場は収まる。 義時のこの判断を「親の命令だから渋々従った」とする人もいるが、義時としてはこれ以上、頑強に抵抗しても、牧の方が時政に「義時は謀反の加担者」と讒言し、最悪の場合は成敗されてしまうと考えたのではないか。 さて、元久2(1205)年6月22日、鎌倉中が騒がしくなり、謀反人征伐の報が流れる。畠山重保はこれを聞いて、急ぎ参陣しようとするも、時政の命令を受けた三浦義村によって、包囲され、殺されてしまう。 重忠も武蔵国の邸から鎌倉に向かおうとするが、そこ(二俣川、神奈川県横浜市)に待ち受けていたのが、北条方の大軍

    清廉な武士なのに「畠山重忠」を北条が滅ぼした訳
  • 1