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historyに関するume-yのブックマーク (709)

  • なぜ、現代に、クラシックの大作曲家が輩出されないのですか?大昔の作曲家のみで、例えば1960年生まれの大作曲家なんていません。なぜでしょうか?

    回答 (14件中の1件目) すでに多く回答されてますが、僕は少し別の視点から答えたくなりました。 古いからクラシックなのか? 100年後に現代の作曲家がクラシックの大作曲家となっていることはないのか? もし現代の作曲家のだれが将来クラシックの大作曲家になるのか? ということを考えてみたいと思います。 古いからクラシックなのか? クラシックははたして古いのでしょうか? クラシックの作曲家を年代ごとにならべてみた説明をさがしてみました。 下記サイトがわかりやすいので一部を引用します。 訂版:作曲家生没年表 西暦1600年-2000年 生年順 細かい作曲家名は、まったく見る...

    なぜ、現代に、クラシックの大作曲家が輩出されないのですか?大昔の作曲家のみで、例えば1960年生まれの大作曲家なんていません。なぜでしょうか?
  • バービーの件に関してどうしても語らなければならない諸々の事

    例の件に関して、当事者でもなければ長崎の生まれでも広島の生まれでもない人間がどうこう、という書き込みを目にして、少し自覚したのでどうしても言わねばならないことを言う。 俺は長崎の生まれで被爆三世で当事者たちから直接話を聞かされて育ったから言う。 俺程度がおこがましいという気持ちはあるけれど、当事者はほとんど残っていないから俺が言う。 長崎ではガキどもは原爆の話を聞かされて育つ。クーラーどころか扇風機もない真夏の小学校の体育館に一時間近くも寿司詰めにされて、原爆の話を聞かされた。俺はとにかくそれが辛かった。 話をする年寄りはもっと辛かったと思うが、小学生のガキにはそんな想像ができるはずもないし、俺だってずいぶん聞かされた話をほとんど忘れてしまった。思い出せるのは精々ひとつかふたつだ。 もうひとう、この時期になると廊下にはずらりと、他所の地域ならPTAが発狂するようなグロ画像が堂々と貼り出され

    バービーの件に関してどうしても語らなければならない諸々の事
  • 風呂に入らなかった? 不合理な「暗黒時代」? 中世ヨーロッパのよくある4つの誤解(ナショナル ジオグラフィック日本版) - Yahoo!ニュース

    イエスの磔刑(たっけい)を命じたローマ総督ポンテオ・ピラトが手を洗う様子が描かれた14世紀初頭の絵画。中世の人々は不潔だったというのは、よくある誤解だ。実際には、頻繁に入浴し、ここに描かれているような手洗いの儀式を行っていた。(DEAGOSTINI) それは革新、哲学、そして伝説的な芸術作品の時代だった。中世ヨーロッパ(およそ西暦500~1500年)の真実を知れば、驚く人も多いのではないだろうか。 ギャラリー:騎士は中世のスーパースターだった 歴史に残る騎士4選 画像14点 ルネサンスとそれに続く啓蒙思想が登場する前の時期は、一般にヨーロッパの「暗黒時代」だと認識されている。後進的で、汚らしい身なりをしていて、原始的な技術しか持たず、ひどい迷信に囚われていた残酷な人々の時代、というわけだ。 しかし、実際の「暗黒時代」は、そうした認識とは程遠い世界だった。この記事では、中世についてのよくある

    風呂に入らなかった? 不合理な「暗黒時代」? 中世ヨーロッパのよくある4つの誤解(ナショナル ジオグラフィック日本版) - Yahoo!ニュース
  • 「マインスイーパ」がアメリカを滅ぼしそうになった30年前から,Windowsゲームの歴史は始まっている

    「マインスイーパ」がアメリカを滅ぼしそうになった30年前から,Windowsゲーム歴史は始まっている ライター:游研社 下記の記事は,游研社(→リンク)に掲載された記事を,許可を得て翻訳したものです。可能な限りオリジナルのまま翻訳することに注力していますが,一部,画面写真などを変更したり,文化的な背景などで理解されづらいものについては日向けに表現を変えたりしている箇所があります。→元記事 ビル・ゲイツとマイクロソフトの社員によるマインスイーパへの熱狂は,その後アメリカが直面する「マインスイーパ中毒」の縮図だった 今でも多くのプレイヤーが競っている「マインスイーパ」(Minesweeper Online) 2012年にWindows 8がリリースされるまで,マイクロソフトは歴代のWindowsにミニゲームをプレインストールしていたが,その中には「ソリティア」と「マインスイーパ」という,根

    「マインスイーパ」がアメリカを滅ぼしそうになった30年前から,Windowsゲームの歴史は始まっている
  • 徳川家康、信長と和睦後「松平元康」名捨てた深い訳

    だが、朝廷は前例のないことを何より嫌がるもの。当初は難色を示されてしまう。それでも、家康から「なんとか前例を探してほしい」と依頼された公家の近衛前久と吉田兼右がよい働きをすることになる。万里小路家の古文書から、次のような事例を発掘したという。 「源氏である徳川の惣領(そうりょう)の筋は2つあり、そのうちの1つは、何らかの理由があって藤原氏に改姓した経緯がある」 家康にとって都合のよい記述が、このタイミングで見つかるとは……。怪しさしかないが、しつこさは相手を疲弊させる。もう面倒になったのだろう。提出された正親町天皇はこれを認めている。家康の姓は「源」から「藤原」に変更されることになった。 こうして永禄9(1566)年、家康は思惑どおりに、「松平」から「徳川」に改姓することに成功し、朝廷から従五位下三河守に叙任されることになった。 伝記では語られない家康の泥臭い工作 苦難に耐え忍ぶ姿ばかり

    徳川家康、信長と和睦後「松平元康」名捨てた深い訳
  • 裏切り続けた本多正信が家康の謀臣たりえた裏側

    現代風にいえば「営業部の部長」と社の「管理部門の部長」との対立のようなものです。豊臣家は、この三成ら官僚と清正ら前線で戦う武将の軋轢を家康に利用され、結局は政権を徳川に奪われます。この分断作戦を練ったのが正信でした。 しかし三成に起こったことは、同じ官僚的な立場にあった正信にも当てはまります。ただ、それは正信存命時には起きず、正信のあとを継いだ正純の代に勃発します。正純を嫌ったのは、ほかでもない二代将軍徳川秀忠でした。 特筆すべき正信の鋭い危機察知能力 正信はこのことを事前に予測し、正純に「3万石以上の加増は断るように」と遺言していましたが、正純は宇都宮藩15万石を与えられます。正純人は固辞したともありますが、結局この加増がきっかけとなり、正純は秀忠暗殺を目論んだ罪(宇都宮城釣天井事件)によって所領を没収されてしまいます。この事件の真実はわかりませんが、背景には将軍秀忠とその側近たち

    裏切り続けた本多正信が家康の謀臣たりえた裏側
  • 今川を裏切る徳川家康、織田信長には従い続けた訳

    同盟といえば、今川氏も武田氏と北条氏と同盟を結んでいる。「甲相駿三国同盟」とのちに呼ばれる軍事同盟だ。 桶狭間の戦い後、家康がまだ織田軍と争っていたときに、今川氏が援軍を送れなかったのも、氏真が同盟を重視して北条氏のサポートを行っていたからである。当時は、上杉氏が関東へ侵攻を開始しており、北条氏は同盟国の援軍を必要としていた。 ところが、14年続いた「甲相駿三国同盟」も破綻するときは、あっけない。永禄11(1568)年12月、武田信玄は駿河国へ侵攻。家康と密約を結んだうえで、かつての同盟国である今川氏に、容赦なく牙をむいている。そんなふうに同盟国でも決して油断できないのが、戦国時代だ。 「強き者に逆らわない」 そんななか、家康は信長との同盟を守り続けた。それも当初こそは対等な同盟だったが、信長が勢力を伸ばすにつれて、様相が変わってくる。武田氏からの防波堤として、家康は過酷な役割を背負わされ

    今川を裏切る徳川家康、織田信長には従い続けた訳
  • 徳川家康、17歳で見せた「桶狭間」直後の"驚く決断"

    しかしながら、それ以前に、室町幕府の第13代将軍である足利義輝が、今川家と松平家との対立を手紙でいさめるなど、両者がすでに緊張関係にあったことがわかっている。 おそらく家康は、駿府に子を置き去りにして、「捨て城ならば拾わん」と岡崎城に入った時点で、独立する腹を決めていたのではないだろうか。その後、家康は今川家から少しずつ離れて、やがて織田家と和睦を果たすことになる。 家康にとって大きなターニングポイントに 難しい局面で、これ以上ない判断を下して独立を果たした家康。17歳とは思えぬ冷静さだが、義元の討ち死にまでは予想せずとも、戦の混乱に乗じて、岡崎城に入るシミュレーションは頭のどこかであったのではないか。 6歳から織田家や今川家の間を人質として行き来した家康の幼少期を思えば、「何が起きてもおかしくはない」と普段から、いざというときのことを考える癖がついていたとしても違和感はない。 多難な人

    徳川家康、17歳で見せた「桶狭間」直後の"驚く決断"
    ume-y
    ume-y 2023/01/29
    家康が岡崎城に入ってから、今川から離反するまで一年くらい経ってるのか。
  • 徳川家康、桶狭間後に「今川氏を見限った」真の理由

    「氏真はしまいには国を亡ぼすだろう」 そのため、信長の要請に従い、織田方につくことになったと書かれている。しかし、家康とて、氏真の置かれた大変な状況は想像できたはず。援軍が来ないからといって、子を捨ててまで、あっさりと織田方につく理由になるだろうか。むしろドライな印象すら受ける。 家康が今川からの離反を決めたタイミングは諸説あるが、今川義元が討たれて岡崎城に入った時点で、織田家につくことはある程度、腹に決めていたのではないか。子の待つ駿府にいち早く戻らなかったことがすべてを物語っている。 今川義元が討たれたあと、家康がすぐに織田家につかず交戦したのは、どこにも味方しない立場をとることで、自身の影響力を高めようとしたのだろう。その後、家康は信長の要請を受けるかたちで「清州同盟」を結ぶにいたっている。 氏真より家康が一枚も二枚も上手だった 『徳川実記』は「忠義深い家康」というイメージ守ろう

    徳川家康、桶狭間後に「今川氏を見限った」真の理由
  • 「承久の乱」北条義時に京都進撃を決意させた“あの男”の一言 なぜ後鳥羽上皇に立ち向かう大胆な策を打ち出すことができたのか | JBpress (ジェイビープレス)

    後鳥羽上皇が、鎌倉幕府を牛耳る北条義時の討伐を命じた「承久の乱」。結果的には、幕府側が圧勝し、以後、武家政権は盤石なものとなった。しかし、後鳥羽上皇が挙兵した時点では、決して簡単な戦いではなく、幕府は2つの作戦の間で揺れていた。立地的に守りやすい鎌倉に籠城するか、思い切って軍勢を京都に差し向けるか――。 朝廷の権威に立ち向かうことへの抵抗感が強い御家人も多いなかで、義時は果敢にも京都への進軍を決意。勝利を呼び込むことになった。だが、そこには一人の男による助言があったことは、それほど知られていない。「承久の乱」が起こった背景も踏まえながら、偉人研究家の真山知幸氏に解説してもらった。(JBpress編集部) ターニングポイントとなった「実朝暗殺」 鎌倉幕府の3代将軍の源実朝が暗殺されると、4代将軍は誰にするのか後継者探しが難航する。 といっても、実朝の暗殺を受けて、慌てて後継者を探したわけでは

    「承久の乱」北条義時に京都進撃を決意させた“あの男”の一言 なぜ後鳥羽上皇に立ち向かう大胆な策を打ち出すことができたのか | JBpress (ジェイビープレス)
  • 承久の乱「後鳥羽上皇」惨敗させた三浦義村の決断

    「故右大将軍」とは源頼朝のことだ。シチュエーションや演説の内容は文献によって違いがあるが、『吾鏡』では「藤原秀康・三浦胤義を討ち取って、源氏3代の将軍が遺したものを最後まで守りなさい」と言っている。 この言葉を聞くまでもなく、結集している時点で、義時に味方することを決めていたことだろう。それでも、こうして改めて宣言されることで、幕府の体制を堅持する意義の大きさを、御家人たちはかみしめたに違いない。頼朝の、政子しかできない原点回帰であった。 兄たちの軍が来るのを待っていた三浦胤義 蓋をあけてみれば、圧倒的な兵力で勝ったのは幕府軍のほうであり、京に攻め入られた上皇側は早々とギブアップしている。幕府軍の総大将を務めたのは、北条義時の息子、北条泰時だ。6月15日、後鳥羽上皇は泰時に使者を送って、こんな院宣を伝えた。 「乱を起こした藤原秀康、三浦胤義らは、追討命令を出す」 後鳥羽上皇は、幕府への

    承久の乱「後鳥羽上皇」惨敗させた三浦義村の決断
  • 清廉な武士なのに「畠山重忠」を北条が滅ぼした訳

    それからしばらくして、牧の方の兄・大岡時親が北条義時を訪問し、以下のように詰問する。 「重忠の謀反は疑いない。それをあなたは、重忠に代わりごまかそうとしている。牧の方はあなたの継母。よって、継母を讒言者に仕立て上げようとのお考えか」 義時はもう一度、考え直してみるとの返答をし、その場は収まる。 義時のこの判断を「親の命令だから渋々従った」とする人もいるが、義時としてはこれ以上、頑強に抵抗しても、牧の方が時政に「義時は謀反の加担者」と讒言し、最悪の場合は成敗されてしまうと考えたのではないか。 さて、元久2(1205)年6月22日、鎌倉中が騒がしくなり、謀反人征伐の報が流れる。畠山重保はこれを聞いて、急ぎ参陣しようとするも、時政の命令を受けた三浦義村によって、包囲され、殺されてしまう。 重忠も武蔵国の邸から鎌倉に向かおうとするが、そこ(二俣川、神奈川県横浜市)に待ち受けていたのが、北条方の大軍

    清廉な武士なのに「畠山重忠」を北条が滅ぼした訳
  • 頼家の子・一幡と公暁(善哉)が辿った生涯と人物像に迫る【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2

    公暁(くぎょう)は、第2代将軍・源頼家の三男です。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、父の無念を晴らすため日史上に残る大事件を引き起こす存在(演:寛一郎)として描かれます。 公暁は、正治2年(1200)に生まれます。父は第2代将軍・源頼家、母は賀茂重長(しげなが)の娘・辻殿です。賀茂重長は河内源氏に仕えていた武士で、『吾鏡』によると、彼女の母は、剛弓の使い手としても知られる頼朝の叔父・為朝(ためとも)の娘とされています。つまり、辻殿は源氏の血縁でした。ちなみに、公暁の幼名は「善哉(ぜんざい)」です。 元久元年(1204)、わずか4歳の頃に父・頼家が殺されます。すると翌年には祖母である北条政子の計らいで鶴岡八幡宮寺別当・尊暁(そんぎょう)の門弟に、その翌年には将軍・実朝の猶子(ゆうし)(=他人の子供を自分の子として結んだ親子関係)となります。 建暦元年(1211)、出家して僧侶になる

    頼家の子・一幡と公暁(善哉)が辿った生涯と人物像に迫る【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2
  • Webの歴史とはどんなものだったのか 並行世界Web1~Web3ではない、現実世界のWeb以前~Web創世記を語ってみた

    Webの歴史とはどんなものだったのか 並行世界Web1~Web3ではない、現実世界のWeb以前~Web創世記を語ってみた(1/4 ページ) 某社から出版された書籍が、並行世界のWebの歴史を記述しているとTwitter界隈ではちょっと話題になっている(なんか今見たら販売中止になってしまっている)。 別に筆者としてはそれをあげつらうつもりは全くなかったのだが、またしても担当編集の松尾氏より「僕らの知ってる世界線でこのあたりの時代の流れを書いていただけたらと。httpと並行してGopherがあったあたりの」という、分かる人間にしか分からないような依頼が飛んできた。 「Web3関連の書籍とか情報があって、そこでWeb1というのが出てくるんだけど、そこで情報が錯綜しているようなので、僕らが知っている歴史についてまとめておく、みたいな立て付けで」というので、「第三者から見ると大原が若い筆者をイジメて

    Webの歴史とはどんなものだったのか 並行世界Web1~Web3ではない、現実世界のWeb以前~Web創世記を語ってみた
  • チップセットの誕生と隆盛、そして消滅へ

    チップセットの誕生と隆盛、そして消滅へ:“PC”あるいは“Personal Computer”と呼ばれるもの、その変遷を辿る(1/5 ページ) 昔ながらのIBM PCPC/AT互換機からDOS/Vマシン、さらにはArmベースのWindows PC、M1 Mac、そしてラズパイまでがPCと呼ばれている昨今。その源流から辿っていく第21回は、チップセットが消滅に至る流れ。Chips and Technologiesなどが作っていたアレである。 第1回:“PC”の定義は何か まずはIBM PC登場以前のお話から 第2回:「IBM PC」がやってきた エストリッジ、シュタゲ、そして互換機の台頭 第3回:PCから“IBM”が外れるまで 「IBM PC」からただの「PC」へ 第4回:EISAの出現とISAバスの確立 PC標準化への道 第5回:VL-Bus登場前夜 GUIの要求と高精細ビデオカードの台

    チップセットの誕生と隆盛、そして消滅へ
  • これこそネットの原体験…「88×31ピクセルのGIFバナー」をひたすら収集した海外サイト【やじうまWatch】

    これこそネットの原体験…「88×31ピクセルのGIFバナー」をひたすら収集した海外サイト【やじうまWatch】
  • 「香港はイギリス植民地ではなかった」 香港の新教科書に記述 - BBCニュース

    香港がイギリスの植民地だったことは一度もない――。香港の学校で使われる新しい教科書にはそう記述されると、現地メディアが報じた。 新たな教科書は、香港でイギリスは「植民地支配を実施しただけ」だと明記する。この区別は、香港をめぐって中国の主権が途切れたことはないとする、同国の主張を強調している。

    「香港はイギリス植民地ではなかった」 香港の新教科書に記述 - BBCニュース
  • 一の谷の戦いで「鵯越の逆落とし」を行ったのは源義経ではなかった!?(呉座 勇一)

    『頼朝と義時』(講談社現代新書)の著者で、日中世史が専門の歴史学者・呉座勇一氏が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送内容をレビューする企画。今回は、先週放送の第16話「伝説の幕開け」、昨日放送の第17話「助命と宿命」をまとめて解説。さまざまな史料や学説を参照しつつ、木曾義仲追討の流れや、一の谷の戦いで源義経が実行したと言われている奇襲作戦「鵯越の逆落とし」の真相に迫ります。 『鎌倉殿の13人』の第16話では木曾義仲の滅亡と一の谷の合戦、第17話では源義高(義仲嫡男)の死が描かれた。源氏の棟梁としての地位を確立するために手段を選ばぬ源頼朝の冷酷さに、北条義時は戸惑いつつも従う。歴史学の観点から第16・17話のポイントを解説する。 木曾義仲の滅亡 寿永2年(1183)11月17日、後白河法皇は「平家追討に向かわなければ謀反とみなす」と木曾義仲を挑発し、多田行綱や源光長ら源氏の武士を動

    一の谷の戦いで「鵯越の逆落とし」を行ったのは源義経ではなかった!?(呉座 勇一)
  • 義経はなぜ頼朝に討たれた?悲劇の牛若丸が「判官びいき」された理由

    平家を倒した後、文治5年(1189年)閏4月30日に亡くなった源義経。 戦場では、後世まで燦然と輝く活躍をしながら結局は兄・源頼朝に追われ、落ち延びた奥州で壮絶な最期を迎えます。 今となっては、その悲劇的な人生に心を奪われる者が多く、頼朝を冷淡な人間として見る向きが多数派となっておりますね。

    義経はなぜ頼朝に討たれた?悲劇の牛若丸が「判官びいき」された理由
  • 「静御前・郷御前・蕨姫」義経を愛した女たち その非情な命運とは?

    「日史で悲劇のヒロインは?」 と問われたら、誰かが必ず名を挙げるであろうあの人。 文治二年(1186年)4月8日は、静御前が鶴岡八幡宮で舞を披露した日です。 源義経の恋人として有名な人ですが、正室ではありません。 その辺の事情は、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で皆さまも既にお詳しくなっていますよね。 今回はそんな静御前と郷御前、さらには蕨姫という、義経と関係が深い女性3人の非情な命運を振り返ってみたいと思います。 ※以下は源義経の関連記事となります

    「静御前・郷御前・蕨姫」義経を愛した女たち その非情な命運とは?