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人生と福祉に関するAKIMOTOのブックマーク (3)

  • 男の子は9歳から介護を始めた ~「幼き介護」の現実~ | NHKニュース

    その男の子が、祖母の介護を始めたのは9歳のころからです。祖母が亡くなったあと、母親の介護が続きました。大好きな家族に元気になってほしい、その一心で、つらいと思ったことはないといいます。でも、母親が亡くなり介護が終わった時、男の子は38歳になっていました。 「外の世界とのつながりがほしかった」 大人になった彼が、漏らしたことばです。 (さいたま放送局記者 大西咲)

    男の子は9歳から介護を始めた ~「幼き介護」の現実~ | NHKニュース
  • 「今度は自分も誰かのために」 養護施設出身者、今春厚労省に(福祉新聞) - Yahoo!ニュース

    今春、児童養護施設出身者が厚生労働省に入省した。高橋未来さんは、東京都渋谷区の広尾フレンズで育ち、静岡大に入学。現在、医薬・生活衛生局で、血液対策を担う。 実は2年前、大手鉄道会社を受験していた。しかし内定直前に「入社するなら親のサインが必要です」と言われたという。 動揺した。小学校以来親とは疎遠で、選考過程でも生い立ちを話していなかったからだ。 「それはちょっと」 「え、何で。誰に育ててもらったの」 そんな押し問答をするうち頭が真っ白に。その場で辞退し、大学も休学。そのうち漠然と福祉の仕事を考えていたことを思い出し、翌年、厚労省を受けた。 高橋さんは1996年生まれ。児童養護施設には小学4年の時に入った。当時身長は高い方だったが、体重は平均以下。家では毎日白米とふりかけだけをべていた記憶がある。「実は」と言いながら前髪を上げると、くっきりと額に傷があった。 「今、親に対する気持ちは“無

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  • 児相に保護されて生き残った

    とある地方都市、母と兄との三人家族。物心がついた時には既に、母から厳しい「躾」という名の暴力を日常的に受けていた。 私には何かしらの、検査に引っかからない程度の発達の遅れがあったのだと思う。小学校へ入学する頃になっても、母が私に要求していることを理解できていなかった。自分がなぜ怒られているのか、私の何が悪いのかもわかっていなかった。 怒鳴られれば謝る。殴られれば謝る。ただそれだけ。反省なんてなかった。「母は正しく、私は間違っている。」それが私の、理解の全てだった。 年が離れた兄は、私に優しかったと記憶している。受験のストレスからか、一度だけ八つ当たりのように殴られたことはあるけど、それ以外に私を虐めたりすることはなかった。友達と遊ぶ時間を削って、私を家の外へ連れ出してくれることもあった。私は兄のことが好きだった。 同時に、私は心のどこかで「兄は私の味方ではない。」と思っていたかもしれない。

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