本名・杉山泰道。右翼の大物・杉山茂丸の子として生まれ、はじめ農園経営に従事。僧侶、新聞記者などを経て、作家に。死の前年に書かれた大作『ドグラ・マグラ』をはじめ、怪奇味と幻想性の色濃い作風で日本文学にユニークな地歩を占める。 「夢野久作」
――この涙の谷に呻(うめ)き泣きて、御身(おんみ)に願いをかけ奉る。……御身の憐みの御眼(おんめ)をわれらに廻(めぐ)らせ給え。……深く御柔軟(ごじゅうなん)、深く御哀憐、すぐれて甘(うまし)くまします「びるぜん、さんたまりや」様―― 「どうです、これは。」 田代(たしろ)君はこう云いながら、一体の麻利耶観音(マリヤかんのん)を卓子(テーブル)の上へ載せて見せた。 麻利耶観音と称するのは、切支丹宗門(きりしたんしゅうもん)禁制時代の天主教徒(てんしゅきょうと)が、屡(しばしば)聖母(せいぼ)麻利耶の代りに礼拝(らいはい)した、多くは白磁(はくじ)の観音像である。が、今田代君が見せてくれたのは、その麻利耶観音の中でも、博物館の陳列室や世間普通の蒐収家(しゅうしゅうか)のキャビネットにあるようなものではない。第一これは顔を除いて、他はことごとく黒檀(こくたん)を刻んだ、一尺ばかりの立像である。
この作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します。(青空文庫)
エジンバラ生まれ。医師として開業後、ホームズものの最初の作品「緋色の習作」を発表し、その後「ストランド・マガジン」にホームズものが連載される。冷静で鋭いホームズとさえないが温厚なワトソンが難事件に挑むこのシリーズは70編近くある。1902年にはボーア戦争での医師としての活躍、イギリスの参戦を正当化したなどの業績でナイトに叙される。第一次世界大戦での息子の死後、心霊現象に関心を寄せる。 ホームズのシリーズが与えた影響は探偵小説にとどまらない。シリーズに関しては詳細な研究がされており、シャーロッキアンと呼ばれるファンが世界中にいる。ホームズものに関する辞典は何冊も出され、ホームズものを題材にした本もまた数多い。ドイルによって書かれた「聖典」の他に、多くの作家がパスティッシュやパロディを発表した。また岡本綺堂の『半七捕物帳』シリーズのきっかけともなった(参照『お文の魂』)。(山本ゆうじ) 「アー
アメリカ、ボストンに生まれる。いくつかの雑誌の編集に携わりながら、『アッシャー家の崩壊』『モルグ街の殺人事件』などの作品を発表して行く。しかし貧窮の中、次第に酒に溺れるようになり、1849年、酒場で意識不明のところを発見される。病院に担ぎ込まれるが意識は回復せず、10月7日死去。 「エドガー・アラン・ポー」 公開中の作品 アッシャア家の覆滅 (新字新仮名、作品ID:61341) →谷崎 潤一郎(翻訳者) アッシャー家の崩壊 (新字新仮名、作品ID:882) →佐々木 直次郎(翻訳者) ウィリアム・ウィルスン (新字新仮名、作品ID:2523) →佐々木 直次郎(翻訳者) うづしほ (新字旧仮名、作品ID:2075) →森 鴎外(翻訳者) →森 林太郎(翻訳者) 落穴と振子 (新字新仮名、作品ID:1871) →佐々木 直次郎(翻訳者) 黒猫 (
この作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します。(青空文庫)
これは、今から四十六年前、私が、東京高等商船学校の実習学生として、練習帆船琴(こと)ノ緒(お)丸(まる)に乗り組んでいたとき、私たちの教官であった、中川倉吉(なかがわくらきち)先生からきいた、先生の体験談で、私が、腹のそこからかんげきした、一生わすれられない話である。 四十六年前といえば、明治三十六年、五月だった。私たちの琴ノ緒丸は、千葉県の館山湾(たてやまわん)に碇泊(ていはく)していた。 この船は、大きさ八百トンのシップ型で、甲板から、空高くつき立った、三本の太い帆柱には、五本ずつの長い帆桁(ほげた)が、とりつけてあった。 見あげる頭の上には、五本の帆桁が、一本に見えるほど、きちんとならんでいて、その先は、舷(げん)のそとに出ている。 船の後部に立っている、三木めの帆柱のねもとの、上甲板に、折椅子(おりいす)に腰かけた中川教官が、その前に、白い作業服をきて、甲板にあぐらを組んで、いっし
狂気の山脈にて H. P. ラヴクラフト H.P.Lovecraft The Creative CAT 訳 一 理由を知らぬ科学者たちが忠告を聞き入れなかったため私はこの陳述を余儀なくされた。現在意図されている南極への侵入――大規模な化石狩りと大掛かりなボーリング及び太古の万年氷雪の融解とを伴う計画に反対する理由を述べることは、全く以て私の意に反するのだ。私の発する警告が無駄になるかもしれないと思うと、尚更気が進まない。私はリアルな事実を開示しなければならないのだが、それらに対する疑念は当然起こるべきものである。だが、途方もないもの、信じ難いものを除いてしまえば後には何一つ残らないだろう。これまで発表を見合わせてきた写真、通常の写真も航空写真もあるのだが、それらは忌々しいほど鮮明かつ写実的なので私に味方してくれるはずだ。それでも尚、それらは巧妙な捏造が可能な遠距離撮影であるため疑われること
公開中の作品 武蔵野 (新字新仮名、作品ID:42349) 作業中の作品 →作業中 作家別作品一覧:山田 美妙 蝴蝶 (新字新仮名、作品ID:62196) 蝴蝶 (新字旧仮名、作品ID:60884) 笹りんどう (新字新仮名、作品ID:61142) 夏木立 (旧字旧仮名、作品ID:62197) 二葉亭四迷君 (新字旧仮名、作品ID:62042) 〔文壇諸名家雅号の由来〕 (新字旧仮名、作品ID:62043) 骨は独逸肉は美妙 花の茨、茨の花 (新字旧仮名、作品ID:61765) 関連サイト
戦争は武力をも直接使用して国家の国策を遂行する行為であります。今アメリカは、ほとんど全艦隊をハワイに集中して日本を脅迫しております。どうも日本は米が足りない、物が足りないと言って弱っているらしい、もうひとおどし、おどせば日支問題も日本側で折れるかも知れぬ、一つ脅迫してやれというのでハワイに大艦隊を集中しているのであります。つまりアメリカは、かれらの対日政策を遂行するために、海軍力を盛んに使っているのでありますが、間接の使用でありますから、まだ戦争ではありません。 戦争の特徴は、わかり切ったことでありますが、武力戦にあるのです。しかしその武力の価値が、それ以外の戦争の手段に対してどれだけの位置を占めるかということによって、戦争に二つの傾向が起きて来るのであります。武力の価値が他の手段にくらべて高いほど戦争は男性的で力強く、太く、短くなるのであります。言い換えれば陽性の戦争――これを私は決戦戦
底本には、以下の諸篇がおさめられています。 「「ソーンダイク博士」序文」(新字新仮名) フリーマン 「オスカー・ブロズキー事件」(新字新仮名) フリーマン 「予謀殺人」(新字新仮名) フリーマン 「歌う白骨」(新字新仮名) フリーマン 「前科者」(新字新仮名) フリーマン 「パンドーラの箱」(新字新仮名) フリーマン 「暗号錠」(新字新仮名) フリーマン 「アネズリーの受難」(新字新仮名) フリーマン 「空騒ぎ」(新字新仮名) フリーマン 「ポンティング氏のアリバイ」(新字新仮名) フリーマン 「「ソーンダイク博士」あとがき」(新字新仮名) 妹尾アキ夫 ※公開に至っていない場合は、リンクが機能しません。
時が経っても、ハイタの胸の中にある青春の幻想は経験を積んだ者のそれに席を譲りませんでした。彼の考えは純粋で陽気。彼の生活は単純で、彼の魂には野心というものがなかったからです。朝日と共に目覚め、ハスターの礼拝堂に行って祈りを捧げました。ハスターは羊飼いの神様で、祈りを聞こし召してお喜びになっていたのです。この敬虔なる儀式が済むと、ハイタは囲いの門を開け、乳と麦を固めたパンの朝食を食べながらご機嫌で羊たちを野に追い、時々立ち止まって冷たい朝露に濡れたベリーを摘んだり、丘から流れ出す水を飲んだりしました。その水は小川となって谷を下り、どことも知れない土地へと流れて行くのです。 長い夏の一日、すくすく育つようにと神様が用意してくださった良い草を羊たちが食んだり、前脚を胸の下に畳んで反芻したりする間、ハイタは木陰で横になりまた岩に腰を下ろし、葦笛を吹きました。大層甘い音でしたので、折節、森の小妖精が
この作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します。(青空文庫)
人魚は、南の方の海にばかり棲んでいるのではありません。北の海にも棲んでいたのであります。 北方の海の色は、青うございました。ある時、岩の上に、女の人魚があがって、あたりの景色を眺めながら休んでいました。 雲間から洩(も)れた月の光がさびしく、波の上を照していました。どちらを見ても限りない、物凄い波がうねうねと動いているのであります。 なんという淋しい景色だろうと人魚は思いました。自分達は、人間とあまり姿は変っていない。魚や、また底深い海の中に棲んでいる気の荒い、いろいろな獣物等(けものなど)とくらべたら、どれ程人間の方に心も姿も似ているか知れない。それだのに、自分達は、やはり魚や、獣物等といっしょに、冷たい、暗い、気の滅入(めい)りそうな海の中に暮らさなければならないというのはどうしたことだろうと思いました。 長い年月の間、話をする相手もなく、いつも明るい海の面を憧がれて暮らして来たことを
「おぅい、下にいる人!」 わたしがこう呼んだ声を聞いたとき、信号手は短い棒に巻いた旗を持ったままで、あたかも信号所の小屋の前に立っていた。この土地の勝手を知っていれば、この声のきこえた方角を聞き誤まりそうにも思えないのであるが、彼は自分の頭のすぐ上の嶮(けわ)しい断崖の上に立っている私を見あげもせずに、あたりを見まわして更に線路の上を見おろしていた。 その振り向いた様子が、どういう訳(わけ)であるか知らないが少しく変わっていた。実をいうと、わたしは高いところから烈(はげ)しい夕日にむかって、手をかざしながら彼を見ていたので、深い溝(みぞ)に影を落としている信号手の姿はよく分からなかったのであるが、ともかくも彼の振り向いた様子は確かにおかしく思われたのである。 「おぅい、下にいる人!」 彼は線路の方角から振り向いて、ふたたびあたりを見まわして、初めて頭の上の高いところにいる私のすがたを見た。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く