(1)戦時色の強まり 1938(昭和13)年10月、粟ヶ崎遊園近くの河北郡川北村東蚊爪(現金沢市東蚊爪)に愛国金沢飛行場が完成すると、踊り子たちも戦争の緊張感を実感するようになりました。 郷土部隊の第九師団の戦況が粟ヶ崎遊園にも伝わるようになると、戦争に協力しながら経営安定を図る体制になりました。例えば、大劇場では華やかなレビューではなく、軍艦の艦上を舞台背景にした軍国調の軽演劇などの戦時色強いプログラムを上演しました。また、海水浴やキノコ狩り、下駄履きハイキングなど健全な娯楽行事を宣伝するようになりました。しかし、国民総動員の戦時下、客足は徐々に遠のいていきました。 1939(昭和14)年を最後に、大劇場では大衆座や少女歌劇団の姿を見ることはなくなり、この年以降は、冨士小時一座やニュートウキョウ少女歌劇団、ニコニコ会舞踊劇団など、巡業する劇団の公演が主になりました。 1940(昭和15)