鈴木聡一郎(そうみ) @i_m_u_o_s @miyabonba0000 自営業中卒マイルドヤンキーです。 大人になると高学歴に収入以外で太刀打ちできる軸が無くなり、高収入だけを求めて血眼になって努力をするからです。 そして、選ばなければ高収入の仕事はいくらでもあります。 学歴があるのに稼げない皆さんはただ仕事を選んでいるだけです。 2024-03-16 20:54:30
元日の夕方という穏やかに過ごしている人が多い時間帯を、最大震度7の巨大地震が襲った。日本海沿岸部の広い範囲に大津波警報、津波警報が発令され、日本中が緊迫した空気に包まれた。震源地に近い能登半島では地震の揺れに加え、津波や火災によって甚大な被害がもたらされた。 能登町 地震発生から12日が過ぎた1月13日、私は取材のため現地に入った。被災地では慢性的な渋滞が発生し、一般車両は能登に行かないように呼びかけられている。メディアの取材とはいえ、救援活動の妨げになることは極力避けたい。事前に夜間は交通量が激減することを調べていたため、前夜に出発して深夜のうちに現地入りすることにした。 入念な準備のもと現地へ 出発前、取材する2日間分の食料や飲料、予備のガソリン、長靴2足と予備の靴、胴長などを車に積み込む。
著: 枡田絵理奈2014年のクリスマス。一年半の遠距離恋愛を経て、29歳の誕生日に結婚。 夫は広島東洋カープの選手で6歳年下。まだまだ駆け出し中の夫をサポートするために、8年間勤めたTBSを退社し、広島県広島市に移り住んだ。 横浜で生まれ育った私。親戚もほとんど東京。そんな中、縁もゆかりもない、友達もいない広島という土地での初めての暮らし。休みもなく、朝から時に深夜まで、番組のスタッフやアナウンサー仲間とこれでもかと働き続けた日々から一転、別人のような人生が始まった。 新天地での暮らしは、見るものすべてが新鮮で楽しかった。 とはいえ、やはり知り合いが誰もいない中で過ごす日々。夫が帰ってくる日は、ご飯の用意など、やることがいろいろあるけど、遠征が続くと、誰との約束があるわけでもないし、暇を持て余して、家の片隅から掃除を始める。窓拭き、網戸掃除、お風呂掃除。 しまいには片付けるところがないくら
俳優・アーティスト のんさん。 20歳のときに主演した連続テレビ小説『あまちゃん』から10年。 今年7月13日、30歳の誕生日を迎えました。 2016年に事務所から独立し、名前を「のん」と変えてからは、演技だけにとどまらず、ジャンルを超えて活躍の場を広げてきました。 のんさんの「これまで」と「これから」に迫りました。 (大阪放送局 かんさい熱視線 取材班) 今回30歳の節目に、のんさんの活動の日々を追いかけ、インタビューを行いました。 取材を続ける中で、私たちが漠然と抱いていたのんさんの「イメージ」は少しずつ更新されていきました。 のんさんから受けた印象は、どんなときも、力強く、前を向いている人だということです。 特に印象深いのが「どんな10年でした?」とインタビューで尋ねたときの言葉でした。 のんさん 「本当に大変だったこととかも、いっぱいある……けど、今は気持ちがすごく充実しています。
ことし3月に亡くなった坂本龍一さんが亡くなる直前まで制作していた曲の中で、最後の時期に作られた曲が完成したことが関係者への取材で分かりました。ことしの春、徳島県に開校した高等専門学校の校歌で、近く学生たちに披露される予定です。 ことし3月、71歳で亡くなった世界的な音楽家の坂本龍一さんは、がんと闘病しながら音楽活動を続け、生前に起業家の育成を目指す徳島県の私立の高等専門学校「神山まるごと高専」の校歌を作曲していました。 校歌は完成には至らず、ことし4月に開校した高専の入学式では、制作途中の音源と歌手のUAさんによる歌詞が特別に披露されていましたが、その後、編曲家に制作が引き継がれて完成したことが関係者への取材で分かりました。 関係者によりますと、今回の校歌は坂本さんが亡くなる直前まで制作していた曲の中で最後の時期に作られたものだということです。 校歌は一部に英語の歌詞を交えながら、起業家を
亡くなった音楽家の坂本龍一さんが闘病中、徳島県神山町で起業家の育成を目指して開校した「神山まるごと高専」の校歌を作曲していたことがわかりました。坂本さんの所属事務所によりますと、坂本さんが作曲した最後の曲だということです。 「神山まるごと高専」は、徳島県の山あいにある神山町で、東京のIT企業の社長などが起業家の育成を目指して、全国で19年ぶりの新設の高専として開校し、2日、1期生の入学式を行いました。 この中で、伊藤直樹カリキュラムディレクターは、新しい高専の校歌について、坂本龍一さんが作曲し、作詞を歌手のUAさんが手がけていることを明らかにしました。 伊藤さんは「坂本さんは、頑張って作ってくれていたが、曲の完成には至っていない。ステージ4のがんと闘うギリギリの中で作ってもらった」と、ことばを詰まらせながら紹介しました。 このあと、校歌が入学生と出席者だけに特別に披露されました。 坂本さん
兵庫民なので、 姫路で、姫路城、あずきミュージアム、山の上の姫路水族館・モノレール、姫路おでん、姫路卵焼き神戸・三宮で、異人館、神戸大橋、中華街、ハーバーランド、博物館、美術館、動物園でパンダとコアラ、六甲ケーブル、フルーツフラワーパーク、しあわせの村明石で、明石大橋、明石焼き、タコの姿焼き淡路で、玉ねぎクレーンゲーム、ニジゲンノモリ、香りの館、ドラゴンクエスト記念碑、ホテルニューアワジ(まだ泊まれてない)、淡路夢舞台瀬戸内海の島巡り秋になったら京都で神社巡りと、こんな感じなんだけど、東京の人ってどんな生活してるんだ? 道の駅めぐりなんてしてなさそうだし、 県内の酒造・醤油・ソース・味噌メーカー調べて飲み比べ・食べ比べもしてなさそうだし、 おかきの播磨焼き見て、ヤバそうやけど朝日揚げ美味しいからまぁえっかって過ごしてないやろ。 追記 ダムカード集めもやってる。地下ダムなんてのもあるんだって
Su-25攻撃機が低空で激しい機動を行いながら飛び去っていった。 故郷の千葉県が戦場になったのだ。 そういう夢を見た。『この世界の片隅に』の片渕監督と会談をして、そこで「軍都としての千葉県」といった話をした夜だったから、何故こういう夢になったかは明らかだ。 しかし、悲しかった。 僕は少し込み入った狭い坂道の途中にある駐車場まで車を取りに行って、その途中で自分の生まれて生きた千葉県の空をロシアの攻撃機が飛んでいたから、コンクリートの壁に額をついてオイオイ泣いた。 案外とこういうことかもしれなくて、人間は「県」とか「市」とかまで降りて来ないと戦の惨禍見たいのが実感できないのかもしれないですね。 それにしても僕は故郷を憎んでいるようで、やっぱり戦場になったら泣くんだなぁ。
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東京生まれ、東京育ち。東京の大学に通い、東京で就職した。 このまま東京で生きていくつもりだった。 が、地方転勤になってしまった。幸いにも転勤先は妻の実家のある県だ。資格職でキャリアの心配が少ない妻は、地元に戻れると喜んでいた。 しかし、全国的に見ても田舎とされる県であり東京を出たことがない自分には未知の世界である。 正直まだ受け止めきれていないし、心配も多い。特に運転が苦手でペーパードライバーの自分は車社会に戦々恐々である。職場や地域の文化にも馴染めるかも不安だ。だが、せっかく得たチャンスと捉え前向きに頑張ろうと思う。 問題は子どもである。上の子は4月から小学校、下の子は4つだ。入学する小学校は近所の公立に決まり、保育園も第一志望にすんなり通せた。どちらも地元では雰囲気が良く面倒見が良いと評判のところらしい。 妻は、幼稚園から大学まで国公立。塾なども通わず学校の勉強だけで進学してきた人だ。
なぜ君は総理大臣になれないのか 小川淳也Amazon 大島新監督。大島渚のチンコからやってきた おおテリブル。テリブル香川! こ… これが… これが香川か…… これが香川…… (車田正美「リングにかけろ」より抜粋改変) (★4) 車田正美 「リングにかけろ」 より 自分語りから始めるが、どうか勘弁されたい。70年代生まれのオレは18歳まで文化果つる地、香川県高松市に住んでいた。田舎にウンザリしたオレは上京し、東京(一時期は神奈川)で約30年暮らし、一身上のナニによって再び高松へ出戻った。高松市は一部を除き、この映画で主戦場として描かれる「香川県第1区」に属する。 東京にいる間は基本的に高松のことなど忘れて面白おかしく暮らしていたわたくしであったが、田舎に戻ってみるとアーなるほど、思い出したぜ、なんぼビルが建ってたってここは確かに18歳のオレがウンザリして脱出を熱望したクソ田舎だったぜい、ゼ
(画像は産経ニュースより) 日本サッカー協会(以下、JFA)の田嶋会長は、ロシアワールドカップに勝つためだけに、この時点でハリルホジッチ氏を切ったわけではないだろう。 ハリルホジッチ氏から冷遇されかかっていた選手達からの直談判メールを受け、さらには電通そしてadidas、KIRIN等の大手スポンサーからの圧力、ハリルホジッチ氏を連れてきた霜田氏が協会から去り、電通の岩田氏が理事になったタイミング、その直後の解任劇。 Oh、いかにもわかりやすい。そこに政治的そしてビジネス的な力学が働いていたのだろうということは、容易に想像できる。 このことは他でも多く指摘されているし、でも実証はできないからこれ以上は言わないけど、まぁそういうことだよね。 それよりも 4月9日の記者会見で、田嶋会長が、ハリルホジッチ監督を解任した理由の中で言ったこと 「会長として、どんな時でも、日本サッカーの発展を考えないと
こんにちは、塩谷舞です。このWebメディア「milieu」を運営するのが生業です。 「社会的に意義のある記事を、広く届けなければいけない」とか 「記事を読んでくださる相手の時間を、1秒たりとも無駄にしてはいけない」とか そんな勝手な責任感により、一所懸命にやってます。 が、「あなたの記事を読むのはエネルギーが必要で、今は、ちょっとしんどい」と言われることもある。 だれかの「全力」は、本調子じゃない人にとっては、ちょっとしんどい。でもその「しんどい」という声は、私にはほとんど届かないから、私は知らずに、かなり多くの人を疲れさせているのかもしれない。 私の記事だけではない。インターネットをひらくと「お前も頑張れ!」という無責任なエールが四方八方から飛んでくる。 Facebookで流れてくる「お友達」の輝かしい仕事の成果。 Twitterで流れてくる「成功者」のインタビュー。 Instagram
著: 朽木誠一郎 2浪1留で6年制の大学を卒業したら27歳になっていた。不覚である。 大学は群馬県の前橋市というところにあった。人生の4分の1相当の時間をそこで生活したことになる。当時、僕は前橋が嫌いだった。 前橋市内の風景(画像:PIXTA) 前橋にも、そもそも群馬にも、縁もゆかりもなかった。受かった大学に入ったというのが正直なところだ。 赤城山と榛名山と妙義山に囲まれた市内には、大学と県庁くらいしかめぼしいものはない。遊び場は自遊空間かラウンドワンで、車社会だから飲み屋に行くにも運転代行が必要だった。 隣の高崎市は新幹線の停車駅で、セレクトショップやクラブがあり、郊外にはイオンモールもあった。週末はそこいらで過ごしたりしたけれど、そういうのもだんだん面倒になって、仲間内でもっぱら宅飲みをしていた。 内向的な性格というわけではないものの、次第に田舎らしいムラのようなコミュニティーが生まれ
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