スペイン北部とフランス南西部にまたがるバスク地方では、バスク語と呼ばれる少数言語が話されています。そのバスク語から日本語に直接訳されたキルメン・ウリベ著『ムシェ 小さな英雄の物語』(2016年 白水社)が、今年、第2回日本翻訳大賞を受賞しました。日本では読める人がほとんどいない言語で書かれたこの小説を、美しい日本語に翻訳して私たちに紹介してくださった金子奈美さんにお話を伺いました。 未知の文化への憧れ 私は秋田の田舎で育ったのですが、母が海外文学の愛読者だったので、家にたくさん本があり、小さい頃から自然と翻訳ものに親しんでいました。よく読んだのは主に、いわゆる古典というか、英仏露独の小説ですね。ディケンズ、ジェーン・オースティン、ブロンテ姉妹、バルザック、モーパッサン、トルストイ、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、ヘッセなどでしょうか。ただ、中学生ぐらいになるとだんだんそれでは物足りなくなり
アントワーヌ・メイエ(Paul-Jules-Antoine Meillet, 1866年11月11日 - 1936年9月21日)は、フランスの言語学者。パリ大学に学びミシェル・ブレアル、フェルディナン・ド・ソシュール、またフランス社会学を発展させたエミール・デュルケームを主幹とした『社会学年報 (L'Année sociologique)』 周辺に集まった研究集団(デュルケーム学派)に大きな影響を受ける。1890年調査団の一員としてカフカス(コーカサス)に赴いたことをきっかけにアルメニア語を研究する。 略歴[編集] 1866年フランスのアリエ県のムーランに生まれる 1897年論文「Recherches sur l'emploi du génitif-accusatif en vieux-slave」で博士号をとる 1902年東洋言語学院の講師としてアルメニア語を教える 1905年コレージュ
石塚 龍麿(いしづか たつまろ、明和元年(1764年) - 文政6年6月13日(1823年7月20日))は、日本の国学者。 概要[編集] 江戸時代後期に活躍した国学者である。内山真龍、および、本居宣長の門下生であった[1]。主に上代語の研究を行った。 来歴[編集] 遠江国敷知郡細田村(現在の静岡県浜松市西区協和町)の生まれ。主な著書に、『古言清濁考』『仮字用格奥能山路(かなづかいおくのやまみち)』『鈴屋大人都日記』などがある。 『仮字用格奥能山路』[註釈 1]では、上代の仮名に2種の書き分けがあることを示した。記紀や『万葉集』などの表記を精査し、いくつかの音節には表記上の区別があったことを明らかにした。この書は長らく正当に評価されなかったが、後に、橋本進吉によって上代特殊仮名遣いを指摘したものであることが明らかにされた。 なお、『仮字用格奥能山路』は写本しか伝来しておらず[2]、活字化され
見坊 豪紀(けんぼう ひでとし、1914年11月20日 - 1992年10月21日)は、日本の日本語学者・辞書編纂者[注 1]。『明解国語辞典』『三省堂国語辞典』の編纂者として知られ、「ケンボー先生」と親しまれる。 経歴[編集] 東京府出身(本籍は岩手県盛岡市)。青森県、福島県、当時の南満州を経て、1932年、旧制山口高校入学。1年の病気休学期間を経て卒業[1]。 1936年、上京して東京帝国大学文学部国文科に入学。同期には後に『明解国語辞典』に補助的な立場で関わる山田忠雄がいる。1939年、卒業[2]。その後、同大学大学院に進学。 大学院在学中、金田一京助の紹介で『明解国語辞典』(三省堂)の編纂に当たる。この辞書は、基本的な項目は当時の『小辞林』に基づいているものの、ほぼ見坊の独力により編纂され、「金田一京助編」と冠して1943年に刊行された(1952年に改訂版)。編纂中は大学院に顔を全
山田 忠雄(やまだ ただお、1916年8月10日 - 1996年2月6日)は、日本の国語学者、辞書編纂者。日本大学名誉教授。 人物[編集] 1936年東京帝国大学文学部国文科に入学し、見坊豪紀と同期[注 1]。1939年、同大学を卒業。岩手県師範学校に赴任、在職中に『明解国語辞典』を見坊とともに編纂する[注 2]。 1941年、陸軍予科士官学校に転任、1943年に『明解国語辞典』が刊行される。1946年、日本大学文理学部国文学科助教授に就任、後に教授となるが、1959年4月15日に辞職する[注 3]。以後は公職に就かず、学究以外の他事は全て避け、文字通り学問一途の生涯を送る。晩年に至るまで研究会を主宰して後進の育成に当たったほか、論文集に受業生の論文を必ず記載するなど、教育者としての使命感にも燃えていた[5]。 業績[編集] 山田は国語学者として、『今昔物語集』の中で誤用・稀用・奇例と目さ
北京(Beijing)の自宅で取材に応じる、中国語の発音表記法「ピンイン(Pinyin)」の考案者の一人、周有光(Zhou Youguang)氏(2015年1月11日撮影)。(c)AFP/WANG ZHAO 【1月17日 AFP】アルファベットによる中国語の発音表記法「ピンイン(Pinyin)」の考案者の一人として知られる周有光(Zhou Youguang)氏が13日、109歳の誕生日を迎えた。清朝の時代に生まれ、断固たる態度で民主主義を支持してきた周氏の執筆活動は、今も一党独裁の中国共産党によって検閲されている。 周氏はAFPとのインタビューで「改革開放から30年が経つが、中国はなお民主主義の道を進む必要がある。それが唯一の道だ。私はずっとそう信じている」と語った。 1950年代に導入されたピンインは、中国語の発音をラテン文字に置き換えて音訳する表記体系を指し、中国内外の多くの学習者に使
Zhou Youguang (Chinese: 周有光; pinyin: Zhōu Yǒuguāng; 13 January 1906 – 14 January 2017), also known as Chou Yu-kuang or Chou Yao-ping, was a Chinese economist, banker, linguist, sinologist, Esperantist,[1][2] publisher, and supercentenarian. He has been credited as the father of pinyin,[3][4][5] the most popular romanization system for Chinese, which was adopted by the People's Republic of China (P
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