「CMの後もまだまだ続きます」と言われても、そんなに続かないのは知っているんだ。信じないぞ。 そんなフレーズを募集したら、めちゃくちゃ集まりました。猜疑心の詰め合わせをお届けいたします。
遅くとも還暦までには始めたかったのですが、中々着手できず、この春ようやく始めたことがあります。『正法眼蔵』全87巻及び拾遺5巻と「弁道話」の講読と現代語訳です。 『正法眼蔵』は旧草と言われる75巻と新草12巻を称するのが一般で、それに拾遺として数巻が加わります(「弁道話」は当然のように『眼蔵』として扱われることが多いですが、全くの別物)。私としては、大方が現在入手しやすい、岩波文庫版に収録されている巻の全てを対象に、講読と現代語訳をしようと思っています。 最近出版された『眼蔵』本は多くが僧侶ではない方によるもので、しかも全巻を扱うものはありません。古いものでは、『正法眼蔵全講』と題した、岸沢惟安老師の全巻講義があります。私の企画はそれ以来です。 私としては今回、本文・講読・現代語訳という構成で全巻解釈を目指しています。無謀と言われて当然で、命あるうちにできるかどうかというところでしょう。
1983年徳島県生まれ。大阪在住。散歩が趣味の組込エンジニア。エアコンの配管や室外機のある風景など、普段着の街を見るのが好き。日常的すぎて誰も気にしないようなモノに気付いていきたい。(動画インタビュー) 前の記事:物にぜんまいをつけると命が宿る > 個人サイト NEKOPLA Tumblr そもそも下灘駅とは 下灘駅は、愛媛県の西の方、瀬戸内海に面した海沿いの駅である。 有名な構図がこれ。ホームから見えるのは青い海! そして青い空!(写真ACより) 私が訪れたのは2004年。JR全線乗りつぶしを目指して日本中を旅していたので、その途中でフラッと立ち寄った。当時は特に「青春18きっぷ」ユーザーや、鉄道ファンの間で人気のスポットだったのだ。 2004年頃のデジカメ(300万画素)はまだ広角が弱く、自分の撮った写真の中にはあまり見栄えのするものがなかった なのでフリー写真の力を借りる。これが下灘
ただの猫好き @moon1807cat @mamari_official すごくわかります。ウチの子言うこと聞かなくて困ってます的な相談を保育士さんに相談したとき似たようなアドバイスを頂いたので。つい否定するような言い方しちゃうから意識してなるべく言い換えるようにしてました。でもだからといってできたお母さんではなかったのですが😭 2021-05-19 21:37:27 なる @Akkyun193 @mamari_official なんか知らんかったけど、意外とあたし出来てるじゃんw 肯定の言い換え言葉だっていうんだぁ。 子供がこう言った方が分かりやすいと思って、知らず知らず言ってたw まぁそれでも言う事きかない時はきかんけど。 特にイヤイヤ期は😑 2021-05-19 22:12:00
リンク エキサイトニュース WHOの親中ぶりを批判 タイ代表が「ぜひ武漢で会議しよう」と皮肉 (2020年3月9日) - エキサイトニュース 世界保健機関(WHO)は3月8日、中国で発生した「武漢肺炎」(COVID-19)が世界100カ国・地域に広がったと発表した。WHOのテドロス事務局長らが中国共産党政権寄りの姿勢を示し、一部の国の政府に... 2 users 108 Yatabi Yo 台湾建国支持 - VTuber(YouTuber) @asianews_ch 2月上旬に開催されたWHO緊急会議でのタイ代表のスピーチが辛辣且つ素晴らしい そんなWHOや中国の発表を鵜呑みにしている日本人多すぎ。情報は他国や国際機関だけに頼らず、自国で収集・分析するべきだと思う 英語不得意にて誤訳あるかも ソース動画(01:39:45 あたりから) youtu.be/-416Kv6jWhw?t=… pi
2月20日、西村康稔経済財政相は20日、月例経済報告に関する関係閣僚会議後の記者会見で、景気が緩やかに回復しているとの政府公式見解を維持した背景について、雇用所得の改善などから基調的に判断していると説明し、「能天気に景気回復しているわけでない」と強調した。写真は都内で2019年9月撮影(2020年 ロイター/Issei Kato) [東京 20日 ロイター] - 西村康稔経済財政相は20日、月例経済報告に関する関係閣僚会議後の記者会見で、景気が緩やかに回復しているとの政府公式見解を維持した背景について、雇用所得の改善などから基調的に判断していると説明し、「能天気に景気回復しているわけでない」と強調した。
無敵の人は男、という風潮がありそうなので先に書いておく。女の体は持ったが、乳も子宮もいらないと思っている人間だ。必要な方にあげたいと常に思う。 そして社会の底辺に位置している。体はまあまあ動くが、寝たきりの日も多い。 まず、数々の「無敵の人」呼ばわりされている加害者が犯した罪を擁護するつもりはないのをはっきりさせておきたい。 特に今回の件は、絶対に反撃出来ないであろう小学校女子生徒を狙ったものである。同情の余地もない。 誰であれ他者を加害するのは卑劣で許し難いという考えである、だが……という前提で読んでいただけるとありがたい。 犯人が死んでしまい、これから捜査や目的、細かな事情が出てくるかと思うが、様々な意見を読んで、皆「自分に都合のいいストーリー」を作って読み解いていることに愕然とした。 子供やベビーカーに対するヘイトクライムと繋がっている。女をあてがわれなかったインセル。そういう見方も
仏教の中心概念である「縁起」を考えるとき、以下の5つの意味を区別しながら考えたほうがよいと思います。 1、「原因ー結果」関係 人間の思考規則としての因果律のことで、特に仏教的でもなく、仏教プロパーな概念でもありません。注意すべきは、それ自体が原理のごとく実在するのではなく、あくまで人間の基本的な思考方法だということです。 2、「十二支縁起」 これは「無明」から「老死」までの12項の因果連鎖で実存を説明するもので、上座部ではこれらを過去・現在・未来に配当していわば胎生学的・実体的に理解(原因が結果を「引き起こす」)しますが、私は実存そのものの構造分析モデルだと考えます。ちなみに、私は「無明」を言語だと考えています。 3、「因果の道理」 因果律を方法概念ではなく実体的な存在原理と考えて、「輪廻」や「業」の説明に適応するものです。原因・結果の両方に善悪・苦楽を絡めることで、一種の恫喝的論理を構成
こんにちは、浜崎洋介です 今回は、予定を変更して、編集委員としてというよりは、私自身の「けじめ」として、二人の逮捕者を出した「西部邁自殺幇助事件」に触れざるを得ないと思っています。 正直に書きます。少し前から私は、西部先生の自殺に関して、その幇助者がいるのではないかという噂を耳にしていました。ただ、そんな噂を耳にしはじめたのは、全ての追悼文と西部邁論(次号『表現者クライテリオン』に掲載予定)を書き上げた後のことで、自殺幇助の噂を聞いてから西部先生について書くのは、これが初めてのことになります(とはいえ、「西部邁論」の内容については、今なお私は、その訂正の必要を認めていませんが)。 そこで、まず明確にしておきたいのは、今回の西部先生の自殺から、自殺幇助の疑惑報道、そして幇助者逮捕に至るまでの経緯のなかで、私が、どの段階で、西部先生に対する決定的な違和感を抱いたのかという点です。 既に追悼文な
先週、「西部邁自殺幇助」の容疑で二名の逮捕者が出ました。『表現者』の看板を掲げたメルマガとして、今回はこの事件に触れざるをえません。 とは言ったものの、幇助(として報じられているもの)の具体的な事実については何も知りません。それどころか今回の報に接するまで、私は西部先生が一人で決行されたのだと思い込んでいました。 以前から西部先生の「自死の思想」を繰り返し聞き、また読んできた者として、一月の逝去の報は(驚きがなかったと言えば嘘になりますが)意外ではありませんでした。しかし、その死に際して幇助者がいた、それも晩年の西部先生にとってごく身近な方だったという事実に、意外との印象を拭い去れずにいます。 もちろん、時間が経てばまた変わってくるのかもしれません。ただ今の時点では、ニュースに触れるまではそんなことを考えもしなかった。少なくとも私はそうでした。おそらく多くの読者・関係者にとっても同じだった
こんにちは、表現者クライテリオンの編集長、京都大学の藤井聡です。 本年一月の西部邁氏の自殺にショックを受けた方も多かろうと思いますが、 この度、その自殺を手伝った男性が二名、逮捕されました。 この報道には、さらに大きな衝撃を受けた―――というか、 ただただ驚き、唖然としてしまった方も多いのではないかと思います。 もしその「容疑」が真実だとするなら、 これまで散々言ってきた事と、実際やってたことが全然違うじゃないか、 ということになるからです。 そもそも西部先生は自殺する理由として、次のように公言しておられました。 「生の周囲への貢献がそれへの迷惑を下回ること確実となるなら、死すべき時期がやってきたということなのだ。」(「保守の神髄」より) この言葉は、要するに、人に迷惑をかけたくない、 あるいは、かけるべきじゃない、という趣旨のものです。 同様の言葉に、次のようなものもあります。 (自殺す
教科書が読めていない子どもたちは、勉強に行き詰まるだけでなく、将来も困難が…(ペイレスイメージズ/アフロ) ツイッターをやっていると、いろんな方からのリプライがある。楽しいやりとりもあれば、新たに様々なことを教わったりする場合もあるが、一定層からの批判、非難、揶揄、侮蔑、罵倒の類いが押し寄せる時もある。様々な考えがあって当然なので、私の意見や感じ方に同意や共感しない人がたくさんいるのは不思議でもなんでもないのだが、こうしたリプライには、トンチンカンな反応が少なくない。 私が書いてもいない……どころか、考えたこともない「主張」に激しく反論するものも、かなりある。 「私の書いたことの意味が分かってないのではないか?!」 「文脈が読み取れていないのではないか」 と感じることは、しばしばだ。 そんな経験が重なって、最近は、この手のものを瞬時に見分ける、ある種の勘も働くようになった。さっさとミュート
「お前の言う、無常が無常とはどうことだ」 「『一切は無常である」という主張にも、無条件の根拠はない。この世にはすでに一神教があるからな。そのアイデアを頭から否定する根拠もない。『無常』『神』も所詮、認識だ。言葉で言えばね」 「無常が無常なら永遠になっちまう、という話ではないのか?」 「いくらぼくでも、そんな阿呆な言葉遊びをする趣味はない」 「死者が実在するとは?」 「君には過去があるだろ?」 「ある」 「そういうことだ」 「坐禅はしなければならないのか?」 「この世にしなければならないことなど、ない」 「じゃ、好きでしてるのか?」 「違う。する羽目になっただけだ」 「人生とは何だ?」 「それを考える意味はない」 「なぜ?」 「死ぬまでが『人生』なら、死ななければ考える対象にならない。生きている最中は、それを考えなくても生きていける」 「業と輪廻の違いは?」 「現実とお伽噺の違いだ」 「悟り
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