旧版のアニメが80~90年代に作られ、現在、新作アニメとして絶賛放映中の「銀河英雄伝説」。設定や描写で、旧作を受け継いだところも、がらりと変わったところもありますが、その「旧作」も、そもそも原作小説から設定を変更したところが当然あります。何が共通して、何が違うのか。三国志の「正史」と「演義」の違いになぞらえると、また面白い。またそんな設定変更の、何が好きで何は好きじゃないか、その新設定の元ネタは?考案者は?などなど。 カテゴリはもともと小説(文芸)だけど、やはり「アニメ」で
以下は、ウィリアム・パターソン大学哲学教授のエリック・スタインハート氏の記事 "The Singularity as Religion" の翻訳です。 宗教としてのシンギュラリティ シンギュラリティにまつわる文化と言説のほとんどは、宗教的であると思う。この考えは、部分的には、デイヴィド・ノーブルの本『The Religion of Technology』とロバート・ゲラチの『Apocalyptic AI』を読んだことに基づいている。どちらも素晴しい本である。また、私はテクノロジーと宗教に関する書籍や記事のリストを編集して、ウェブサイトに掲載している。 宗教としてのシンギュラリティは、完全に悪いものではないかもしれない。宗教はいろいろな形でポジティブな力となりうる。少なくとも、シンギュラリタリアニズムは新たなタイプの興味深い宗教運動となりうるだろう。 なぜシンギュラリティは宗教であると考える
現実は変えられないという「現実主義」に抗するためにフィクションは意味をもち得るか、SFアニメで考える骨太フィクション論。 科学、技術の急速な発展をうけて、現実主義者は、フィクションは意味がないしくだらない、あるいは、無責任で害悪でさえあるという。それに対し、そのような態度こそがわたしたちの現実を堅く貧しくしているのだと反論することはできるのだろうか。名作SFアニメを題材に、フィクション、現実、技術について、深く検討する。本連載を大幅修正加筆し、2018年12月末刊行。 【ネット書店で見る】 古谷利裕 著 『虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察』 四六版判上製・304頁 本体価格2600円(税込2808円) ISBN:978-4-326-85196-6 →[書誌情報] 徹底した再現へのこだわりと、フィクションであること 今回は、SFから少し離れたところからフィクションについて考えたい
現代文の大学入試などで、存命の作家の作品が使われる事がある。当然、入試後に原作者に著作使用の報告がいくのだが、その答えを見て原作者が「ええ?その解釈は違うんだけどなあ」とこぼす事はよくあるらしい。問題作成者としては、入試の前に「この解釈でよろしいですかねえ」と原作者に尋ねる訳にはいかないだろうから、なかなか難しい所である。というか様々な解釈できる作品の方がやはり名作は多いのであって、出題者を責める気にはなれない。あえて言えば、何とでもとれる中で正答をあえて考える受験生がちょっと気の毒に思うくらいである。 なんでこのような事を書いているかと言うと、庵野秀明監督・樋口真嗣特撮監督のシン・ゴジラが滅法面白かったからである。はっきりいって日本映画史に残る大傑作となるだろう。とにかく、映像的にも言語的にも単位時間当たりの情報量が桁違いに多い。かといって、ある程度、情報をカットしても充分に楽しめるよう
“そんなわけで、作品群自体ではラブやん本人のあくまで自己主観で信仰倒錯を表現していたものの、後世に知れ渡ったのはそれが結果的に「信仰を超越した上位者の可能性」に言及したものだった事が結果としてSFホラーの新風として注目されたんだろうな、と思います。まとめ、おわり。” 「そんなわけで、作品群自体ではラブやん本人のあくまで自己主観で信仰倒錯を表現していたものの、後世に知れ渡ったのはそれが結果的に「信仰を超越した上位者の可能性」に言及したものだった事が結果としてSFホラーの新風として注目されたんだろうな、と思います。まとめ、おわり。」 まず、この一連のツイートは、以下の主目的から行いました。 クトゥルフ神話全体の持つ「”冒涜的”恐怖」が、何故「日本人には本質的に理解できないのか」を自己の解釈から説明する クトゥルフ神話の恐怖感について話をする上で、重要な2つの視点があります。 宗教主観 これは、
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