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大阪に関するkhtokageのブックマーク (2)

  • 付替えられた大和川

    上左図 B.C20000年~10000年頃の氷河時代が去り縄文海進時代の幕開けで海面上昇期に入り、河内平野の低地に海水の浸入が始まり、やがて右図のように河内湾の時代となる。この時代の大和川は網状流路で低地全域に流れていたと思われます。 上左図 弥生時代中期のB.C90年頃にになると河内湾・潟の時代を経て河内湖になり瀬戸内海からの偏西風によって吹き寄せられる砂や北方の淀川から排出される土砂により上町台地と淀川デルタで河内湖の瀬戸内海への出口を塞ぎ、やがて淀川と大和川から排出される土砂で河内湖が埋められ沖積平野が形成される。(大阪文化財研究所大坂遺跡より) 右図は旧大和川流域の発掘調査に携わられた大阪文化財センタ-の坂田育功先生が作成された大和川流路変遷過程論文記載の図です。七世紀代の大和川流は八尾市美園遺跡南端で検出された幅70m、深さ2mの規模を持つ流路でこの上流をたどると宮町・八尾神

  • 知恵と技術~大和川のつけかえ工事7~ | 大阪府柏原市

    浅香の千両曲がり 柏原からまっすぐ西へと流れているように思う大和川ですが、地図や航空写真などでよく見ると、かなり曲がっていることがわかります。とりわけ、JR阪和線の浅香駅付近では、南へと大きく湾曲しています。この湾曲部分は、「浅香(あさか)の千両曲がり」と呼ばれています。 なぜ千両曲がりと呼ばれるのでしょう。地元の人が、幕府の役人に千両払って自分たちの土地を大和川の計画からはずしてもらったからだといいます。あるいは、川を蛇行させたために千両も余分に費用がかかってしまった。それは狐たちが新川の工事に抗議したからだ、などという伝説も残っています。しかし、これらは不自然に曲がる大和川の流れを見た後の時代の人たちがつくった話です。 では、なぜ浅香付近で大和川は大きく湾曲しているのでしょう。それは、大和川を通すためには、この付近で上町台地を掘り抜かなければならなかったことが原因です。上町台地の地盤は

    知恵と技術~大和川のつけかえ工事7~ | 大阪府柏原市
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