私が初めてこの人の名前を知ったのは小学4年生、 魁勝司という名前でレスラー名鑑に載っていたのですが その年に引退されたのですよねぇ・・・。 色んな有名レスラーのデビュー戦の対戦相手を務め 長らく前座路線で活躍していましたが、当時、関西に住んでいた子供に プロレスを観に行けるチャンスは早々無くて。 で、UWFやリングスのレフリーをしているのに意外さを感じていたのですが この人、同じ歳で1年先輩のアントニオ猪木が大好きで、 そしてなんか穏やかで優しそうですねぇ。 怒った事は一度だけと本人が語っていましたが。 前田という人間が素晴らしくてですねぇ~と語っていましたが リングスも前田に頼まれ、普段は会社経営をしている所、興行があると レフリーとして駆けつけていたそう。 そして、色んな所で語られる事・・・・・ 「滅茶苦茶セメントが強い」という事ですね。 もう意外でした。 知ったのはザ・グレートカブキ
[週刊ファイト11月16日号]収録 [ファイトクラブ]公開中 ▼僕を大人にしてくれた、心優しき『白覆面の魔王』ザ・デストロイヤー by 安威川敏樹 ・ミル・マスカラスとの『覆面世界一決定戦』 ・デストロイヤーさん、僕が間違ってました ・デストロイヤー、甲子園に登場 ・ハンセンにプロレスの厳しさを教えたデストロイヤー スポーツの秋、真っ盛りである。 プロ野球の日本シリーズでは、福岡ソフトバンク・ホークスが横浜ベイスターズを4勝2敗で破り、2年ぶり8回目の日本一に輝いた。 ラグビー界では、2019年に日本で開催されるワールドカップの試合日程が発表された。そして日本代表はオーストラリア代表(ワラビーズ)とテストマッチを行い、30-63で完敗した。くりぃむしちゅー上田晋也は、ワラビーズの選手たちのパワーとしなやかさについて「まるでクラッシャー・バンバン・ビガロのようだ」と感想を述べている。 試合終
昭和プロレスは力道山から始まリました。しかし決して力道山だけから始まった訳ではありません。 そこには何人かのレスラーが日本プロレスの礎を築きつつありました。 調べていくうちにこれまで知らなかった情報が次々に手に入るようになりました。 このサイトではまだ光を当てられていない部分も含めて昭和プロレスの数々の事象を挙げていきたいと思います。 在日トリイ・オアシス・シュライン・クラブ 日本プロレス 全日本プロレス協会 & 山口道場 日本競技連盟 国際プロレス団 & アジアプロレス 東亜プロレス 東和プロレス 北日本プロレス アイヌプロレス 東京プロレス 国際プロレス 新日本プロレス 全日本プロレス & ジャパンプロレス ユニバーサル・レスリング・フェデレーション(UWF) 産業経済新聞社主催「世界女子プロレスリング大試合」 全日本女子レスリング倶楽部 東京ユニバーサル女子プロレス団 全日本女子プロ
[参加選手] 後藤達俊 山田恵一 橋本真也 畑浩和 蝶野正洋 佐野直喜 船木優治 野上彰 [ルール] 1.予選は参加選手全員による1回総当たり。 2.予選リーグ戦の試合形式は30分1本勝負で、優勝決定戦(決勝戦)は60分1本勝負。 [星取表] [予選(公式リーグ戦)] 昭和61年2月28日(金曜日)、埼玉県熊谷市/熊谷市立市民体育館 □ヤング・ライオン杯争奪リーグ戦(30分1本勝負) 後藤達俊(8分53秒、体固め)野上彰 昭和61年3月1日(土曜日)、東京都文京区/後楽園ホール □ヤング・ライオン杯争奪リーグ戦(30分1本勝負) 畑浩和(14分7秒、変型風車固め)船木優治 昭和61年3月3日(月曜日)、栃木県黒磯市/黒磯市公会堂 □ヤング・ライオン杯争奪リーグ戦(30分1本勝負) 蝶野正洋(8分47秒、体固め)野上彰 □ヤング・ライオン杯争奪リーグ戦(30分1本勝負) 山田恵一(12分26
プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回は「SWSに人生を狂わされた男たち」がテーマです!イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします! ――SWSについては天龍(源一郎)さんを中心に語っていただいてますが、天龍さん以外にもSWSに関わったことでプロレスラー人生が大きく動いた選手は多かったですよね。 小佐野 SWS解散後はみんな苦労したよね、やっぱり。 ――新日本プロレスからSWSに移った選手はジョージ高野選手、佐野(巧真)選手の2人だけでした。新日本でいえば、もともとは武藤(敬司)さんをエース候補として引き抜こうとしてましたね。 小佐野 WCWから帰ってきたばかりの武藤が、引退シリーズを控えた坂口(征二)さんにお別れの挨拶をしにいったん
ジャンボ鶴田に迫る本連載。今回は、全日プロレス“就職後”間もない1973年からのアマリロ遠征において、若き青春時代を共にしたスタン・ハンセンの視点から。 小佐野景浩氏がジャンボ鶴田の実像に迫る本連載。連載のベースとなっている小社刊『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』は、ジャンボ鶴田の没20年となる5月13日に発売されたが、早くも増刷が決まるなど、大きな反響を呼んでいる。いまなお、多くのファンの胸に生き続けている証だろう。これからもその偉大な足跡を伝えていくべく、今回は全日プロレス“就職後”間もない1973年からのジャンボ鶴田のアマリロ遠征において、若き青春時代を共にしたスタン・ハンセンの視点から“最強説”を考察する。 アマリロ時代のハンセンとの青春物語 73年3月15日、中央大学を卒業した鶴田は『チャンピオン・カーニバル』の最中の同月22日、中央大学レスリング部の関二郎監督以下全部員の万歳三唱
元『週刊ゴング』編集長の小佐野景浩氏が、前回に続いて“ミスター・プロレス”として一時代を築いた天龍源一郎さんに、『天龍革命』の真相について聞いた。 天龍革命を全面的に支持したジャイアント馬場 プロレスの“革命”というと、長州の『維新革命』にしても“反逆”のイメージが強いが、天龍革命が画期的だったのは、団体の責任者の馬場の了承を得ての“無血革命”だったということだ。 当時、新日本はUターンした長州を中心に藤波辰巳(現・辰爾)、前田日明らが団体の枠を超えてアントニオ猪木、マサ斎藤らに世代交代を迫っていた。 こうした2団体の流れから、時代を変えようとする“ニューリーダーズ・ブーム”が起こっていたが、馬場は天龍に全幅の信頼を寄せてこう言っていた。 「天龍が他のニューリーダーと、どこが違うか。それはな、私利私欲がないことなんだよ。どうすればプロレス界が、ウチの会社が良くなるかを常に考えて行動している
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く