云いたいことはタイトルで言い切った感がある。・「放射能怖い」 ・「韓国押しウザい」 ・「著作権侵害の正当化とダブスタムカつく」 は判るんですけど、それ感情のレベルじゃないですか。 感情論は否定しない、というかあらゆる行動の原動力は感情だと思っているのでそこまでを問題視する気は全くない。 ないけど、そこから先で「自分の意に沿った形で現実の世界に影響を与えたい」と思うなら、感情のブレイクダウンと云いますか、アズイズトウビー(as is-to be)とか期間とか手段とか、どんな形であれ具体的な方法論に落とし込まないと駄目なわけで、この方法のレベルに感情を”何も足さない、何も引かない”で注ぎ込んだ時の生産物がもう見てらんない、という話。(「見てらんない」の例は特に挙げない。どの一つをとっても怖いのでw) 感情をぶちまけてすっきりすることが目的ならそれでOKですけど、その結果現実の世界が大して変
海江田経産相が国会で落涙したことについて、週刊現代から電話取材を受けた。 「どう思いますか?」と訊かれたので、こんなふうに答えた。 どうして「そういうこと」が起きるのか。 理由は二つ考えられる。 一つは「感情表現が抑制できない人が増えている」という解釈。 一つは「感情表現について抑制的である必要はない」という考え方が広く定着したという解釈。 たぶん、その両方の理由によるものだと思う。 感情は自分の内面に根拠をもっていると私たちは思いがちだが、ほんとうはそうではない。 脳科学が教えるところによれば、私たちは感情を外部にあるものの模倣を通じて学習するのである。 ミラーニューロンの働きについてはこれまでも何度も書いてきた。 他人がある動作をしているときに、それを見ているものの脳内ではそれと同じ動作を指示するニューロンが発動する。 ミラーニューロンは、行為をするときにも、知覚するときにも動くのであ
※とある件が起きて、以前Facebookで書いた文章を一部編集 最初個人宛として書こうかと思ったけど、面倒なので一般論として書く。 人は楽しいところに集まる。でも、その楽しいところから勝手に疎外された!と思う人(いわゆる「けまらしい」)は一定数いるから、楽しいところを批判すれば、一定の喝采はあびる。でもその喝采を浴びせてくれた人って、批判者に何か与えてくれる訳じゃない。 具体的にいえば、喝采を浴びせてくれた人たちは金を払ってくれない。だって単に自分が気持ちいいと思える意見があったという確認がしたいだけで、金を払ってまでは欲しくないから。もちろん労力だって払ってくれる訳がない。 ウェブは皮肉屋に一定の注目を集めるけど、その注目は労力や金といった高いコストには還元されないのだ。 賛成ばかりで気持ち悪いから、反対の意見を言ったんだ、皮肉屋はよくそういうが、それには信念を感じられない、賛成されてい
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