人生と時代と音楽に関するsatoshiqueのブックマーク (21)

  • ナイル・ロジャース、憧れの存在ジミ・ヘンドリックスとの親交を回想 自身に最も大きな影響を与えたのはジミのメッセージだった - amass

    ナイル・ロジャース、憧れの存在ジミ・ヘンドリックスとの親交を回想 自身に最も大きな影響を与えたのはジミのメッセージだった ナイル・ロジャース(Nile Rodgers)にとってジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix)は友人であり、憧れの人だったという。ナイルはジミとの親交を振り返るなかで、自身に最も大きな影響を与えたのはジミのメッセージだったと語っています。 ナイルは、シックのヒットメーカーとして、またプロデューサーとしての地位を確立する前はニューヨークで忙しく働く10代のミュージシャンで、ジミ・ヘンドリックスの個人的な友人でもありました。 ポッドキャスト『At First Listen』のインタビューの中で、ナイルは60年代後半、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにあるエレクトリック・レディ・スタジオでジミと親しくなったことを振り返っています。 3月にはフェンダー・ストラトキャ

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  • ジャイルズ・マーティンが語る、ビートルズ最後の新曲「Now And Then」の制作舞台裏

    1990年代半ばにザ・ビートルズのアルバム『Anthology』がリリースされたとき、バンド全員が参加した2曲の新曲「Free as a Bird」と「Real Love」が収録されたことに、驚きと興奮が感じられた。あれから28年、ザ・ビートルズ最後の新曲となる「Now And Then」は、最高の現代技術を終結させ、ポップスの偉大な物語を締めくくる、記念碑的な作品となった。 この曲の発売にあたり、オリヴァー・マーレイが脚と監督を手がけた12分のドキュメンタリー「Now And Then – The Last Beatles Song」と、『ザ・ビートルズ:Get Back』の監督ピーター・ジャクソンが監修したミュージック・ビデオも公開された。また、この新曲はビートルズのベスト・アルバムであり通称『赤盤』『青盤』として知られる2枚のうちの『青盤』の2023年ヴァージョンに追加して収録され

    ジャイルズ・マーティンが語る、ビートルズ最後の新曲「Now And Then」の制作舞台裏
  • 追悼・坂本龍一:わたしたちが聴いた音楽とその時代 | CINRA

    2023年4月2日、坂龍一がこの世を去ったことを知ってから、言葉にならない喪失感を抱え続けている。ただ呆然とするほかないなか「Ars longa, vita brevis. 芸術は長く、人生は短し」という人が好んだ一節に触れ、残された自分にできることがあるかもしれないと思った。氏が長きにわたり発表してきた膨大な音楽作品を振り返り、書き残すことで、またわたしたちは新たに音楽家・坂龍一に出会いなおすことができるかもしれない。そんなことを考えた。 さまざまな書き手の方に「坂さんの音楽について書いてくれませんか」とメールを送った。非常に多岐にわたる活動を展開し続けたからこそ、どこから、何から書くべきかは難しいのではないかと考え、「あなたが選ぶ、坂龍一の『永遠の一枚』」というお題とともに。届いた原稿はさまざまだった。個人の記憶とともにひとつの作品について書いた人、ひとつの作品からさまざまな

    追悼・坂本龍一:わたしたちが聴いた音楽とその時代 | CINRA
  • 岸田繁(くるり)のルーツをたどる | アーティストの音楽履歴書 第46回

    アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。今回は岸田繁のルーツを探る。1996年にくるりを結成し、同バンドで活躍する一方で、ソロ名義では映画音楽のほか、管弦楽作品や電子音楽作品なども手がける岸田。そんな彼の音楽遍歴とは? 取材・文 / 大谷隆之 「なんか心が気持ちいいなあ」音楽は自分だけが知ってる喜びだった実家の近くに、チンチン電車が走ってたんです。真夏の暑い日に、職員さんが車庫の軌道敷に水を撒いていて。おじいちゃんか誰かに連れられて、それを見ていたのを覚えています。京都の市電が廃止されたのが昭和53年9月なので、僕が2歳半くらいの頃かな。たぶんそれが、僕の中で一番古い記憶ですね。 父親がクラシック音楽好きで、休日はよく家でLPレコードを聴いていました。ベートーヴェンとかチャイコフスキーとか、わりと王道のやつです。

    岸田繁(くるり)のルーツをたどる | アーティストの音楽履歴書 第46回
    satoshique
    satoshique 2023/04/30
    細野さんあたりは入ってこないんだなー
  • 土屋昌巳が「一番伝えたかった」“教授”じゃない坂本龍一の姿 「立場が逆転した日」の記憶

    ロックバンド・一風堂のボーカルで、1982年に『すみれ September Love』を大ヒットさせた土屋昌巳(70)が、ENCOUNTに亡き坂龍一さん(享年71)への思いと自身の「今」を語った。かつて同じバンドで活動した坂さんとの思い出は数多く、その生きざまに影響を受けてきたことを明かした。 ロックバンド・一風堂のボーカルで、1982年に『すみれ September Love』を大ヒットさせた土屋昌巳(70)が、ENCOUNTに亡き坂龍一さん(享年71)への思いと自身の「今」を語った。かつて同じバンドで活動した坂さんとの思い出は数多く、その生きざまに影響を受けてきたことを明かした。(取材・文=福嶋剛) 坂さんが亡くなって約1か月。土屋はしみじみと言った。 「『教授(坂さん)の思い出を語ってほしい』と言われた時、僕が一番みなさんに伝えたかったことがあります。それは、YMO時代や

    土屋昌巳が「一番伝えたかった」“教授”じゃない坂本龍一の姿 「立場が逆転した日」の記憶
  • フリッパーズ・ギターとコーネリアスとあのころ|大久保祐子

    2023年3月26日、慶應義塾大学三田キャンパスにて『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか』(集英社新書)の刊行記念シンポジウムが開催されました。登壇者は私のほかに、著者の片岡大右氏、IfYouAreHere委員会を組織し検証サイトを立ち上げたkobeni氏、『炎上社会を考える 自粛警察からキャンセルカルチャーまで』(中公新書ラクレ)の著者で社会学者の伊藤昌亮氏、以上の4名です。オンライン配信も行われ、おかげさまで盛況のうちに終えることができました。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。 以下の文章は、当日会場でわたしが発表した報告です。片岡氏の了承を得たうえで、こちらのnoteにも掲載しておきます。 2021年夏の小山田さんの一連の辞任騒動件に関しては、インターネットやいじめ問題など、様々な出来事が複雑に絡み合って引き起こした悲劇だという話は片岡さんのでも詳しく書かれてい

    フリッパーズ・ギターとコーネリアスとあのころ|大久保祐子
  • 【追悼:坂本龍一】アブと呼ばれた荻窪ロフト時代から原点となる「千のナイフ」まで

    ヒッピーのような長髪、坂龍一との出会い 坂龍一の功績についてはすでにさまざまな形で語られているし、それに関して付け加えたいことも無い。それに、これからも彼が残してきた作品に触れることができるのだから彼の音との対話は続けられる…。そう思うしかないな、というのが正直な気持ちだ。 坂龍一は、確かに類まれな才能の持ち主だと思う。しかしそれと同時に、彼のような音楽家が登場したことも、日の70年代以降の音楽シーンの “空気” を象徴していたのではないかとも感じられるのだ。 坂龍一を知ったのは1974、5年のこと。当時、僕はオープンしたばかりの荻窪ロフトでブッキングを手伝っていたので、かなりの頻度でロフトに通っていた。そこで客として来ていた坂龍一と会っているのだ。 ヒッピーのような長髪でいつもラフな黒っぽい服に身を包んでいた彼は、ライブ後のミュージシャンと音楽の話をしたり、一緒に飲んだりして

    【追悼:坂本龍一】アブと呼ばれた荻窪ロフト時代から原点となる「千のナイフ」まで
  • カタリベ一覧 | Re:minder - リマインダー | 80年代音楽エンタメコミュニティ

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  • Hope In a Darkened Heart

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    satoshique
    satoshique 2023/04/06
    教授のプロデュース仕事だと、このアルバムが一番好き。
  • 「大学生で結婚、でもうまくいかなかった」「山下達郎君らとの出会い」坂本龍一さんが振り返った「新しい時代が始まった瞬間」(週刊現代) @gendai_biz

    「教授」「世界のサカモト」と呼ばれ、数々の名曲を世に生み出した音楽家の坂龍一さんが逝去した。享年71。「週刊現代」では2012年1月に人気連載「私の地図」にて坂氏のインタビューを掲載していた。 結婚はうまくいかなかった 大学3年の時に、油絵科の3歳年上の女性と結婚。子供ができ、お金を稼がなければならなくなったので、道路工事などいろいろなバイトをしました。男っぽい肉体労働は当時の流行で、僕もやる気満々だったんですが、すぐクビにされちゃいました。それで音楽のバイトを始めたら、夜だけで5000円。そりゃ、みんながピアノを弾けるわけがないので、実入りがいいんですよね。 しかし、人が好む曲ばかり弾くのは音楽家としての僕には拷問でした。頭から旋律がなかなか出て行かないから。耐えられなくなり、呼ばれた時だけ弾きに行く「トラ」(エキストラ)に仕事を変えました。 シャンソンの殿堂「銀巴里」でも弾くように

    「大学生で結婚、でもうまくいかなかった」「山下達郎君らとの出会い」坂本龍一さんが振り返った「新しい時代が始まった瞬間」(週刊現代) @gendai_biz
  • 「過激な左翼だった」「三島由紀夫の遺体に会いたかった」坂本龍一さんが明かしていた「世界のサカモトの壮絶人生」(週刊現代) @gendai_biz

    「教授」「世界のサカモト」と呼ばれ、数々の名曲を世に生み出した音楽家の坂龍一さんが逝去した。享年71。「週刊現代」では2012年1月に人気連載「私の地図」にて坂氏のインタビューを掲載していた。坂さん自身が語った「壮絶人生」の一部を振り返りたい。 僕の最初の音楽の記憶 空き地で月光仮面ごっこをしていた6歳ごろまで、僕は中野の家に住んでいたのですが、そこにはピアノもレコードもなかったんです。近くにあった祖父の家には、当時まだ学生だった叔父の部屋にピアノがあり、その上にはレコードプレイヤーがあった。ピアノによじ上って、レコードをかけたりしたのが僕の最初の音楽の記憶です。

    「過激な左翼だった」「三島由紀夫の遺体に会いたかった」坂本龍一さんが明かしていた「世界のサカモトの壮絶人生」(週刊現代) @gendai_biz
  • 坂本龍一「B-2ユニット」極限状態の1980年に制作された “神領域” のアルバム

    リ・リ・リリッスン・エイティーズ〜80年代を聴き返す〜 Vol.39 坂龍一 / B-2 UNIT龍一が、どんなに忙しくてもどうしてもつくりたかったソロアルバム 以前、大貫妙子の『ROMANTIQUE』について書いた時にもちょっと触れましたが、坂龍一 “教授” の1980年は(その前後もそうなんですが)、信じられないくらいの過密スケジュールでした。列記してみます。 1979年 12月19日、“Yellow Magic Orchestra” の最初のワールドツアー「TRANS ATLANTIC TOUR」 最終日(東京・中野サンプラザ) 1980年 2月1日、YMOライブアルバム『パブリック・プレッシャー/公的抑圧』リリース 3月21日→4月15日、YMO最初の国内ツアー「TECHNOPOLIS 2000-20」 3月25日、Phew1stシングル「終曲(フィナーレ)/うらはら」リ

    坂本龍一「B-2ユニット」極限状態の1980年に制作された “神領域” のアルバム
  • 細野晴臣が語った高橋幸宏の才能と審美眼 追悼特集の6曲にも表れた両者の音楽的な交わり

    高橋幸宏が逝去した後、国内外のアーティストーー高野寛、星野源、Sparks、Duran Duranなどーーが哀悼の意を示し、彼が残した音楽の素晴らしさ、ミュージシャンとしての魅力、生前の交流などについて発信している。 桑田佳祐は1月21日放送のラジオ番組『桑田佳祐のやさしい夜遊び』(TOKYO FM)で、以前、高橋と家族ぐるみの付き合いがあったとコメント。ビールを飲みながら、The Beatlesの楽曲を歌っていたと語った。また「ドラマーとしての偉大さはもちろんですけど、歌が好きでね」と高橋の1stソロアルバムの表題曲「SARAVAH!」をオンエアした。 また山下達郎も22日放送の『山下達郎の楽天カード サンデー・ソングブック』(TOKYO FM)の冒頭で、「我々の世代の代表的なドラマー。とても素晴らしいテクニックを持ったドラマーです」と評価。高橋のほか、細野晴臣(Ba)、佐藤博(Key)

    細野晴臣が語った高橋幸宏の才能と審美眼 追悼特集の6曲にも表れた両者の音楽的な交わり
  • NHK MUSIC SPECIAL 高橋幸宏 創造の軌跡

    放送 2023年2月16日(木) 午後10:00 ~ 午後10:45 再放送 2023年2月21日(火) 午前1:25 ~ 午前2:10 ※月曜深夜 惜しまれつつ亡くなった高橋幸宏の足跡を辿る特番が放送決定 闘病中だった高橋幸宏が1月11日に逝去した。各界の著名人、そして世界中のファンから哀悼の意と共にその素晴らしい功績を讃える声が寄せられた。そうした高橋幸宏の創造の軌跡を辿る特番の放送が決定。音楽のみならず幅広いジャンルでその才能を発揮したアーティストの世界を改めて体感していただきたい。 ソロ、そしてYMOやサディスティック・ミカ・バンドをはじめ様々なユニットで活躍した高橋幸宏。ドラマー、ボーカリスト、プロデューサー、作詞・作曲家といった音楽面だけでなく、ファッションやコメディーの世界でも才能を披露したアーティストである。日のみならず世界から高い評価を受け、海外でも多くのファンを虜に

    NHK MUSIC SPECIAL 高橋幸宏 創造の軌跡
  • 高橋幸宏さん逝去 われらが世代のヒーローだったことを痛感する|松尾潔のメロウな木曜日

    スタジオジブリ発行の小冊子『熱風』をご存じだろうか。その最新号(1月号)で、ぼくはジャーナリスト青木理の連載対談「日人と戦後70年」に招かれた。ぼくより一学年上の青木さんは、対談が始まるや自分がポップミュージックに疎いことを告白。ふたりの接点を見出すのは困難かと思われたが、意外や共通の原体験はあっさり見つかった。 それはふたつあった。多勝一の著作と、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の音楽。ただ「多勝一世代」と呼ばれると、今ぼくは正直いささかの抵抗を覚える。一方「YMO世代」という呼び名には、青木さんもぼくも否定する理由がない。まるで毛細血管のように人生の微細な場所にまで入り込むのが、ポップミュージックのレゾンデートル。あるいはこれが同世代ということか。 『熱風』が発行された翌日の1月11日、YMOのドラマー高橋幸宏さんが逝去された。享年70。同じ音楽業界にいても個人的な付き

    高橋幸宏さん逝去 われらが世代のヒーローだったことを痛感する|松尾潔のメロウな木曜日
  • 「高校の頃、家族がマージャンをしている居間になぜかユーミンもいて…」高橋幸宏が数々のミュージシャンから愛され続けたワケ | 文春オンライン

    ◆◆◆ 「高校の頃、家に帰ると母と同級生が麻雀していてなぜかユーミンもいて…」 1952年6月6日、東京に生まれた高橋幸宏の父は会社経営者で、軽井沢に別荘を持ち、長じると一家は夏には軽井沢という生活を送っていた。後に音楽プロデューサーとなる兄の高橋信之は高校生のときにバンドを組み、高橋幸宏も小学生の頃からドラムを始めた。ドラムを選んだ理由は<ドラムを練習できる家に住んでいる子どもがそうはいなかった>のも理由のひとつだと後年のインタビュー(ユリイカ2013年10月臨時増刊号/インタビュアー:青野賢一)で話している。 中学生になると自分のバンドも始めた。メンバーは後にバズを結成する東郷昌和ら。荒井由実もメンバーに加わることがあった。のちのユーミンである。当時、高橋幸宏は15、16歳、ユーミンは14歳。当時の高橋幸宏の実家は200坪を超える大きな日家屋で、そこには多くの人が集まった。 立教高校

    「高校の頃、家族がマージャンをしている居間になぜかユーミンもいて…」高橋幸宏が数々のミュージシャンから愛され続けたワケ | 文春オンライン
  • WEB特集 ジョン・レノンのいない世界で | NHKニュース

    「僕を夢想家だと思うかも知れない/だけど僕は1人ではないはずさ/いつの日かきみも仲間に加わって/世界はきっとひとつになる」 今も世界中で歌い継がれる、ジョン・レノン「イマジン」の一節です。1980年12月8日。ジョン・レノンは自宅前で凶弾に倒れ、40歳でこの世を去りました。それから40年。“愛と平和”を唱え、社会の不正義に抗ったジョンの歌は、無慈悲なテロ行為に傷つく人々の間で、分断が進む社会の中で、コロナ禍で孤立する世界の片隅で、繰り返し歌い継がれています。ジョンが生きた時間と同じ年月が過ぎた40年後の社会でその歌はどのように響いているのでしょうか。息子のショーン・レノンさん、そしてジョン・レノンを“原点”と語る音楽家の小林武史さんへのインタビューを交えて紹介します。 ※一部敬称略 (科学文化部記者・河合哲朗 アメリカ総局記者・及川利文) 東京・港区で開催されているジョン・レノンとオノ・ヨ

    WEB特集 ジョン・レノンのいない世界で | NHKニュース
  • 『チェインギャング』

    僕の話を聞いてくれ 笑いとばしてもいいから ブルースにとりつかれたら チェインギャングは歌いだす 仮面をつけて生きるのは 息苦しくてしょうがない どこでもいつも誰とでも 笑顔でなんかいられない 人をだましたりするのは とってもいけないことです モノを盗んだりするのは とってもいけないことです それでも僕はだましたり モノを盗んだりしてきた 世界が歪んでいるのは 僕のしわざかもしれない 過ぎていく時間の中で ピーターパンにもなれずに 一人ぼっちがこわいから ハンパに成長してきた なんだかとても苦しいよ 一人ぼっちでかまわない キリストを殺したものは そんな僕の罪のせいだ 生きているっていうことは カッコ悪いかもしれない 死んでしまうということは とってもみじめなものだろう だから親愛なる人よ その間にほんの少し 人を愛するってことを しっかりとつかまえるんだ 一人ぼっちがこわいから ハンパに

    『チェインギャング』
    satoshique
    satoshique 2020/11/25
    このライブ、見に行った記憶がある。
  • 音楽で飯を食わなくてもいい。toe山嵜と考えるアーティストとお金の関係|SustAim

    toeは僕が世界一リスペクトするバンドといっても過言じゃない。CDを全部所有しているアーティストは指で数えられるぐらいだけど、toeはその一つ。音楽が最高なのはもちろん、アーティストのあり方としても頭が上がらない。 結成以来、メンバー全員がそれぞれ業(インテリアデザイナー、アパレル経営、レコーディングエンジニア、プロドラマー)を持ち、バンド活動は生活の糧にしない。レーベルも事務所も自主運営で、バンド公式のSNSアカウントはない。バンドにボーカルがいないインストロックバンド。ほぼノープロモーションで活動して20年。こんなやり方で熱狂的なファンが世界中に存在する。 僕はtoeと浅からぬ縁がある。実は海外ツアーマネージャー兼前座アクトとして、toeにとって最初となるヨーロッパとアメリカツアーを、それぞれ2回ずつ回った。ロンドン、パリ、モスクワ、ニューヨーク、ロサンゼルス…。世界のいたるところに

    音楽で飯を食わなくてもいい。toe山嵜と考えるアーティストとお金の関係|SustAim
    satoshique
    satoshique 2020/06/05
    幸せとはなにか、という風にも読める。
  • 三宿Webが近々閉店することが決定致しました : ナガサワブログ PART3~この熱い魂を伝えたいんや~

    一昨日の午前中に大量の第2次Web-Tが到着して黙々と発送梱包作業してた最中にうちのオーナーからLINEが来て。まあ今は忙しいから後で見て返そうと思ってたんですが、冒頭が「お疲れ様。来なら会って話さなければいけない事なのだが…」的な文言で、一抹の嫌な予感を感じつつも作業を継続してたんですが、余りにもちょっと気になり過ぎて集中力が散漫になりつつあったので、一旦作業を止めてLINEを見てみたら案の定的な長文の内容で。ざっくりかいつまむと、 『店を継続するか否かについて、世の中の様子をみながらしばらく悩んでいたが、早めに苦渋の決断をした。今回、緊急事態宣言延長を受け、残念ながら長年続いてきたWebを閉店する流れとなりました。』 とのこと。出来れば今月中、遅くても来月末までと。あくまでも相談では無く決定事項的な書き方。基的にボクがギブることはあってもオーナーがギブることは考えにくく、更には正直

    三宿Webが近々閉店することが決定致しました : ナガサワブログ PART3~この熱い魂を伝えたいんや~
    satoshique
    satoshique 2020/05/15
    大したことじゃないけど、思い出はいくつかあるなー。まだ続いてたのは知らなかった。