タグ

思想と本と自然に関するlaislanopiraのブックマーク (5)

  • 文明の岐路に立つ私たち――「宇宙船地球号」は今どうなっているのか/松井孝典(『NHK スペースシップアースの未来』)×浜野高宏 - SYNODOS

    文明の岐路に立つ私たち――「宇宙船地球号」は今どうなっているのか 松井孝典(『NHK スペースシップアースの未来』)×浜野高宏 情報 #新刊インタビュー#宇宙船地球号#スペースシップアースの未来 1960年代に有名になった「宇宙船地球号」という言葉がある。建築家・思想家のバックミンスター・フラーが独特のアプローチで読み解いた「宇宙船地球号」を、「スペースシップアース」として現代に位置づけようと試みたのが、『スペースシップアースの未来』(松井孝典、ジャレド・ダイアモンド、ダニエル・ヤーギン、ヨルゲン・ランダース、エイモリー・ロビンス、NHK取材班 著)だ。著者のお一人で、惑星科学の第一人者である松井孝典さんと、NHKプロデューサーの浜野高宏さんにお話をうかがった。(聞き手・構成/長瀬千雅) ―― 書は、「スペースシップアースの未来」という同名のテレビシリーズが元になっています。もともとその

    文明の岐路に立つ私たち――「宇宙船地球号」は今どうなっているのか/松井孝典(『NHK スペースシップアースの未来』)×浜野高宏 - SYNODOS
  • 『テクニウム』 - 利己的なテクノロジー - HONZ

    もしも地団駄というものが踏めるものであるのなら、この一冊を読みながら踏んでみたいと思う。 原題は『What Technology Wants』=テクノロジーの望むもの。テクノロジーの歩みを『種の起源』のように捉え直すという束ね方に独創性があり、これまでに見聞きしてきた様々な知識が一の線でつながるようなダイナミズムに満ち溢れている内容だ。おかげで、を呼ぶような深みにはまってしまい、関連書籍から逃れられなくなってしまったほか、一体、これまで自分はその手のの何を読んでいたのだろうかとショックを受け、何もかもを一から学び直したい気持ちになった。 一口にテクノロジーと言っても、書で取り扱う対象は非常に幅広い。Facebook、Googleといった昨今のネット上のものから、電信・電話、言語や法律、石器、火の使用といった太古のものまで。日頃、その存在を意識しないほど浸透しきったものであればあ

    『テクニウム』 - 利己的なテクノロジー - HONZ
    laislanopira
    laislanopira 2014/07/11
    "一つのテクノロジーはさらに多くのテクノロジーを自己生成という方式で生み出してきた…このようなテクノロジーの連なり、すなわち超個体としてのテクノロジーこそが、本書の邦題にもなっている「テクニウム」"
  • 『悲しき熱帯』Ⅰ&Ⅱ レヴィ=ストロース (中公クラシックス) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →『悲しき熱帯Ⅰ』を購入 →『悲しき熱帯Ⅱ』を購入 世界的なベストセラーとなったレヴィ=ストロースの自伝的紀行である。 原著は1955年に刊行されたが、日では1967年に『世界の名著』第59巻にマリノフスキーの『西太平洋の遠洋航海者』(これも文化人類学の古典)との合で抄訳がはいった後、1979年に全訳がオレンジ色の表紙の二巻で刊行された。書は2001年に出た新版で、レヴィ=ストロースが寄せた「「中公クラシックス」版のためのメッセージ」(2000年12月付)と、訳者の川田順造の「『悲しき熱帯』のいま――四十六年ののちに」(1979年版の訳者前書の再録を含む)が巻頭に付されている。 レヴィ=ストロースは「メッセージ」で労働観の比較研究の一環として1977年から12年間にわたってほぼ毎年のように来日し、日各地の職人を訪ね歩いている。その調査から日人にとって「はたらく」こととは「西洋式

    『悲しき熱帯』Ⅰ&Ⅱ レヴィ=ストロース (中公クラシックス) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
  • 西村清和『プラスチックの木はなにが悪いのか』への山形浩生氏の書評 - 昆虫亀

    西村清和の『プラスチックの木でなにが悪いのか』について山形浩生が書評(のようなもの)を書いてる。 http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20120120 ただ、読み方があまりにひどい*1。 このひと議論の流れをまったく理解できてないどころか、そもそも哲学書の読み方を身につけてないんじゃないか、とも一瞬思ってしまったけども、まぁ一応たくさんを読んでらっしゃる人だし、英語も読める人だし、西村の書き方も悪い所がないわけではないので、一応、専門家の端くれとしてフォローしとかなきゃいけないな、とおもって書く次第。 いっときますが、個人攻撃ではありません。こういう誤読はよくあるし、このあたりの議論をこれまでちゃんと世間に紹介してなかった美学者にも責任があるのです。 このについては、以前のエントリも参照。 はい。 では、最初に山形氏が引用している一文。 自然の木を断念し

    西村清和『プラスチックの木はなにが悪いのか』への山形浩生氏の書評 - 昆虫亀
  • ■ - 死に舞

    迅速な対応に対するさらなる対応。 もとの書評とはいちおう切り離した議論として、すこしばかり意見をさしはさませてもらう。 ああ、最後に、一応もしかしたら万が一、ということで山形氏をフォローしておくと、 山形氏は 「物理的に判別できないものは、美的性質も同じになる」と考えているのかもしれません。 これへの応答は、その「判別できない」をどう捉えるかによって二通りにわかれます。 (1)「カテゴリーが違うけれども、見た目に差がない」という風に捉えるならば、もう上記の議論でその立場は退けられます。この立場にまだ固執するんなら、もうすこししっかりした議論が必要になります。かなり苦しい立場ですが、まぁやりたい人は頑張ってください。。 (2)「カテゴリー的にも判別不可能」というのであれば、美的性質は同じになりえますが、その場合、「それがプラスチックの木<である>かぎり」という西村の限定の外に出る話なので、西

    ■ - 死に舞
  • 1