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wikipediaと沖縄に関するlaislanopiraのブックマーク (18)

  • 八重山諸島のマラリア - Wikipedia

    八重山諸島のマラリア(やえやましょとうのマラリア)では、沖縄県の八重山諸島で1961年まで感染者が発生していたマラリアについて記述する。八重山諸島のうち石垣島、西表島、小浜島、与那国島の4島では、48時間おきに発熱する三日熱マラリア、72時間おきに発熱する四日熱マラリア、不規則に熱発する熱帯熱マラリアの3種類のマラリア感染が見られた。南部沿岸部を除く石垣島と西表島が流行の中心である。加えて流行が見られない地域からマラリア有病地である南部沿岸部を除く石垣島や西表島へ通って耕作を行う通い耕作と呼ばれる風習があったため、実際には八重山諸島全体でマラリアの感染者が見られた。八重山諸島のマラリアの特徴のひとつとして悪性の熱帯性マラリアが多数を占めており、琉球王国時代から多くの人々を苦しめてきた。とりわけ第二次世界大戦末期に発生した戦争マラリアでは多くの感染者、犠牲者を出した。 明治時代以降、たびたび

  • 山口仲美『日本語が消滅する』を読んで気になったところ(前半) - 誰がログ

    はじめに 全体の印象 言語と方言の関係、琉球諸語の取り扱い 問題の整理 琉球諸語および八丈語を「方言」として取り扱っていることとその根拠(1と2の問題) 方言に関する具体的な言及がほとんどない(3の問題) さらにそのほかの問題 おわりに 追記(2023/10/09):後半を書きました。 山口仲美『日語が消滅する』を読んで気になったところ(後半) - 誰がログ はじめに 結論を先に書いておくと、このを出発点にして日語の消滅をはじめとした危機言語の問題について論じることはおすすめしません。 日語が消滅する (幻冬舎新書 694) 作者:山口 仲美幻冬舎Amazon 危機言語の問題について感心がある方には、代わりにこの後言及する琉球諸語研究の専門家で(も)ある下地理則氏の下記の記事をおすすめしておきます。以前もwebでけっこう話題になったので読んだことがある人もいるのではないでしょうか。

    山口仲美『日本語が消滅する』を読んで気になったところ(前半) - 誰がログ
  • 北大東島のリン鉱山 - Wikipedia

    北大東島のリン鉱山(きただいとうじまのリンこうざん)では、沖縄県北大東村北大東島で1919年から1950年にかけて操業していたリン鉱石の鉱山について述べる。日国内で数少ないリン鉱石の鉱山であり、採掘から加工、運搬、貯蔵、積み出しに至るリン鉱山の国内に唯一残る遺構として、2017年2月には「北大東島燐鉱山遺跡」として史跡に指定されている。 概要[編集] 北大東島の空中写真。 沖縄島の東、約360キロメートルのところにある北大東島には、島内の北東部を中心として主にリン酸礬土鉱で形成されたリン鉱床がある。約4800万年前に赤道付近で誕生した北大東島が、フィリピン海プレートの動きに伴ってサンゴ礁を形成しながら北上し、琉球海溝に沈みこむ前に隆起帯に差し掛かり、隆起して島となる中で海鳥が繁殖した。そして海鳥の糞から形成されたグアノから溶出したリン酸が、石灰岩の風化によって形成されたテラロッサと島外

  • 魂魄の塔 - Wikipedia

    魂魄の塔(2015年12月) 魂魄の塔(こんぱくのとう)は、沖縄島南部の糸満市米須にある慰霊碑・慰霊塔。沖縄戦終結間もない1946(昭和21)年2月、島尻郡真和志村(まわしそん、現在の那覇市の一部)の住民によって建てられた(後述)。「周辺に散乱していた遺骨3万5千余柱」[1]の遺骨を納めたとされ、終戦後の最も早い時期に建てられた慰霊碑でもある。沖縄戦跡国定公園内にある。 概要[編集] 沖縄戦における糸満市米須一帯の状況[編集] 魂魄の塔が建つ糸満市米須一帯は、1945(昭和20)年の沖縄戦において6月以降に戦場となった場所であり、北から進攻して来る米軍に対して多くの日軍と住民が追い詰められた場所である。碑文にあるように、沖縄戦終盤の6月下旬ごろになると「日軍も住民も追いつめられて逃げ場を失い、陸、海、空からの攻撃を受けて、敵弾にあたって」[1]犠牲になる者が続いていった。米軍は生き残

    魂魄の塔 - Wikipedia
  • 占領期日本における強姦 - Wikipedia

    占領期日における強姦(せんりょうきにほんにおけるごうかん、英語:Rape during the occupation of Japan)は、第二次世界大戦後、アメリカ合衆国による軍事占領中の日における日国憲法の公布・施行後に日列島及び南西諸島において発生した連合国軍将兵(アメリカ軍・イギリス軍・朝鮮進駐軍など)による強姦・殺人(強盗・強制性交等致死罪、強盗・強制性交等殺人罪、強盗殺人)のこと。占領中の7年間で約76万6,500〜766万5,000人、1年で約10万6,800〜106万8,000人、1日約300〜3000人の日人の若い女性(7歳未満の女子児童・少女含む)が被害を受けた。焼け野原で被害を受けた上に殺害された女性の遺体が焼却された可能性もあり、被害者の数は明らかにない、GHQは統治計画の一環であり、米国人は罪に問われないと見解した。アイゼンハワー大統領裁決により減刑され

  • ブクブク茶 - Wikipedia

    ブクブク茶を泡立てる前 ブクブク茶。茶筅でかき混ぜていくと泡が盛り上がっていく ブクブク茶の完成。砕いた落花生(右上)をふりかけてする ブクブク茶(ブクブクちゃ)は、沖縄県で飲まれる振り茶。煎り米を煮だした湯と茶湯を混ぜて泡立て、その泡を茶湯と赤飯の上に盛って飲む[1]。特徴的な泡が、名称の由来である。 製法・特徴[編集] 土壌が石灰岩や珊瑚礁に由来する沖縄では、水は基的にアルカリ分を多く含む硬水である。その水で煎り米を煮出し、さんぴん茶や番茶とともにブクブクー皿と呼ばれる直径25cmほどの木鉢に入れる[2]。これを20cm以上の大きな茶筅で泡立て、茶と少量の赤飯が入った茶碗の上にソフトクリームのように盛る[2]。最後に、炒った落花生を上に乗せる[2]。ブクブク茶にとって豊かな泡が最も重要とされ、適切な硬度の水を用いることで1時間経っても消えない泡を立てられるという[2]。また、米の焙

    ブクブク茶 - Wikipedia
  • モービル天ぷら - Wikipedia

    モービル天ぷら(モービルてんぷら)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)終戦後の沖縄県でべられた、エンジンオイル(モービル油、モビール油)で揚げた天ぷらのこと。モビール天ぷらともいう[1]。 概要[編集] 第二次世界大戦後の沖縄では、天ぷらを揚げる際に用油の代用として機械用減摩油が用いられた[1][2][3]。火にかけた油は強烈な臭いを放ち黒煙を上げたというが[4]、最高のご馳走であったとされ[1]、人気があった[2]。盆・正月、結婚式などでもされたという[5]。 この天ぷらをべた後は、吐き気、腹痛、下痢などの症状が出た[2][6]。尻からぬるぬると未消化の油が流れ出て服の外にまで浸透したとの複数の証言があり[7][8]、沖縄の一定の年齢以上の人間であれば、ほとんどが経験したといわれることがある[8]。死者も出ており[2][9]、極めて危険な行為である。 石油由来の鉱物油の場合、消化以

  • グスク時代 - Wikipedia

    三山統一による琉球王国の成立(1429年?) 薩摩藩による琉球侵攻(1609年) 琉球藩設置(1872年) 琉球処分による沖縄県の設置(1879年) 琉球救国運動の展開(1870年代-95年前後) 沖縄戦(1945年) 琉球政府設立(1952年) 祖国復帰運動(1950-72年) コザ暴動(1970年) 沖縄返還(1972年) ナナサンマル(1978年) 普天間基地移設問題 「グスク時代」が提唱される前は、歴史学者の仲原善忠が1952年に執筆した中学生用の社会科副読『琉球の歴史』において「按司時代」が用いられ[3]、仲原以外の歴史学者もそれに倣って使用した[4]。仲原は『おもろさうし』から、「按司時代」はすでに階級社会であり、按司による武力支配が行われたと解している[5]。また仲原は、「按司時代」を琉球版封建社会として認識し、その後の「三山時代」へ続くと述べている[6]。 「グスク時代」

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  • かりゆしウェア - Wikipedia

    沖縄風の柄で、半袖開襟のシャツ かりゆしウェアとは、沖縄県などで主に夏のあいだ着用される半袖の開襟シャツ。1970年に沖縄県観光連盟が「おきなわシャツ」として発売し、その後、2000年デザインの限定を緩和することで、名称を「かりゆしウェア」に統一し、同年の開催された沖縄サミットを契機に広く着られるにいたる[1]。現在ではワイシャツとネクタイに代わるホワイトカラーの服装として沖縄県内では官公庁でも広く定着している。また、2005年以降にはクール・ビズの一種として内閣府沖縄担当部局を中心に中央官庁で着用の動きがある。「かりゆし(嘉利吉)」とは沖縄方言で「めでたい」という意味を表す[2]。 概要[編集] かりゆしウェアはハワイのアロハシャツをモチーフに作成されており、基的なデザインはアロハシャツと同じ半袖開襟であるが、ボタンダウンやスタンドカラーのものも製造されている。そもそも、アロハシャツは

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    laislanopira
    laislanopira 2014/06/08
    省エネルックとは違い普及定着しそう
  • 入砂島 - Wikipedia

    入砂島(いりすなじま)は、沖縄県島尻郡渡名喜村に属する無人島で、出砂島(いですなじま)ともいわれる[1][2][3]。 地理[編集] 渡名喜島の北西約3キロメートルに位置し、面積0.26平方キロメートル2[4]、周囲1.96キロメートル、標高32.0メートルの円形で低平な島である[1]。島南端に北西から南東方向に伸びる長さ約450メートルの陵丘と、北側に扇状の低地が約500メートル四方にわたって広がる[2]。中生代の基盤岩から構成され[3]、南端の陵丘部は中生代の緑色岩、北側の海岸低地は完新世の沖積層となる[2]。島北側に砂浜が形成され[3]、周囲にビーチロックが発達している[2]。 歴史[編集] 東恩納寛惇の『南島風土記』には「てそな」、『正保国絵図』に「戸無島(渡名喜島)之内出砂しま」、『琉球国由来記』には「離レ出砂」と記載されている[3]。また国土地理院発行の2万5千分の1の地図では

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  • 長虹堤 - Wikipedia

    『琉球八景』のうち「長虹秋霽」 長虹堤(ちょうこうてい)は、1451年、琉球王国によって建設された全長約1キロメートルの堤防と橋からなる道路であり、崇元寺付近(那覇市泊)と伊辺嘉麻(いべがま、那覇市松山付近)を結んでいた。 歴史[編集] かつての那覇は浅い入り江とその入口をふさぐように横たわる浮島と呼ばれる島から成っていた。浮島は現在の久米および松山付近に相当する。中国王朝からの使者は浮島に上陸し浅い海を渡って首里へと向かうことになっており、琉球王府は使者を迎える際に国中の船を集めて舟橋としていた。 1450年(景泰元年)に琉球国王に即位した尚金福王は1451年、翌年の冊封使を迎えるにあたり浮島と首里とを結ぶ堤防と橋からなる道路の建設を決め、当時の宰相懐機に下命した。懐機は海が深く波も高いことから人の力だけでは難工事になると考え、祭壇を設けて二夜三昼にわたる祈祷を行ったところ、翌日、潮が引

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  • 竹富町役場 - Wikipedia

    竹富町役場(たけとみちょうやくば)は、日の地方公共団体である沖縄県八重山郡竹富町の執行機関としての事務を行う施設(役場)である。 概要[編集] 日の町村役場としては数少ない、自治体の外に設置されている役場の一つ[注釈 1]。また、日の市町村の役場(市役所・町村役場)としては最南端の役場でもある。 石垣港と町に属する各島とを結ぶ離島ターミナルから北へ約200mの場所にある。また、かつては通りを挟んで向かい側約150m北に石垣市庁舎があったが、2021年に旧石垣空港跡の新庁舎に移転している[3](詳細は石垣空港#跡地利用参照)。 沿革[編集] 前史[編集] 琉球王国時代の1524年(大永4年)、第二尚氏王統の第3代国王・尚真王に司法官として25年にわたって仕えた西塘は長年の勲功を評価され「竹富大首里大屋子」の頭職として八重山列島の統治を任されるに至った。当初、その役所にあたる蔵元[注釈

    竹富町役場 - Wikipedia
    laislanopira
    laislanopira 2011/09/14
    町内に役場がない
  • 大東島紙幣 - Wikipedia

    この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。他の出典の追加も行い、記事の正確性・中立性・信頼性の向上にご協力ください。 出典検索?: "大東島紙幣" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年2月) 大東島紙幣(だいとうじましへい)とは、沖縄県の大東諸島において使用されていた紙幣類似証券の商品引換券のことである。正式には「南北大東島通用引換券」とよばれ、来は砂糖手形であったものが島の流通貨幣となったものである。別名を玉置紙幣ともいう[1]。 発行の背景[編集] 大東諸島は以前は無人島であったが、1885年に日領に編入されていた。1900年に玉置半右衛門を中心とした八丈島からの開拓団が大東諸島の開拓を開始し、サトウキビの栽培や製糖業を営む企業である玉置商会が島全体を

    laislanopira
    laislanopira 2011/05/06
    島がまるごと一企業の所有で町村制すら施行されない離島なので、企業の発行する引換券が貨幣であった。島から勝手に出ると誰も日本円に交換してくれない
  • ランチョンミート - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "ランチョンミート" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2009年10月) この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2022年5月) 米国・ホーメルフーズ社の缶詰。同社ではスパムという商品名で売られている。 ランチョンミート(英: luncheon meat)は、肉を原料とした料理の一つ。日では缶詰のものがポピュラーである。別名はソーセージミート[1]。 概要[編集] 来のランチョンミ

    ランチョンミート - Wikipedia
  • 千田愛紗 - Wikipedia

    千田 愛紗(せんだ あいさ、名同じ、1982年11月8日 - )は、台湾を拠点に、シンガポール、マレーシアなどのアジア圏で活動している日人アーティストであり、台湾のアーティスト「大嘴巴(DA Mouth)」、日のアーティスト「PEOPLE EVERYDAY」の女性ボーカル。 「愛紗」と英語の「AISA」で通用することが多い。 来歴[編集] 8歳から沖縄アクターズスクールに入学、島袋寛子や安室奈美恵と共に、歌・ダンスのレッスンを受ける。 1998年5月、『B.B.WAVES』のメンバーとして、シングル『TAKE OFF』でCDデビュー。 2000年8月、当時チャイニーズ居住圏において視聴率第1位であった、台湾中華電視公司(華視)の人気番組『超級星期天』(スーパーサンデー)で行われた企画「超級動員令之日美少女」に参加。 2000年10月、同オーディションにより6人いた参加者はダンスと

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  • シュガーローフの戦い - Wikipedia

    概要[編集] 日陸軍の首里防衛線の西端に位置しており、守備隊の独立混成第44旅団配下の部隊、独立混成第15連隊が、進撃してきたアメリカ第6海兵師団と激戦を繰り広げた。 独立混成第15連隊は1944年(昭和19年)6月24日 - 千葉県佐倉にて近衛歩兵第10連隊を中心に関東一円の部隊を集成して新設された。 日軍はアメリカ軍が呼んだ、シュガーローフ(Sugarloaf)、ハーフムーン(Half Moon)の2つの丘と、それらの南側(アメリカ軍側から見ると2つの丘の背後)の馬蹄形斜面であるホースシュー(Horseshoe)を巧みに連携させた防御陣地を構築し、アメリカ海兵隊を1週間にわたり撃退しつづけた。シュガーローフの丘は戦闘が行われた1週間で11回も持ち主を変え、ハーフムーンに至ってはアメリカ軍に主導権がわたることは一度もなかった。この戦いで海兵隊側は、2,662名の戦死傷者と、1,289

    シュガーローフの戦い - Wikipedia
  • 子宝ちんこすこう - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "子宝ちんこすこう" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年10月) 子宝ちんこすこう(こだからちんこすこう)とは、株式会社ワンダーリューキューが企画・デザイン制作、菓子メーカー珍品堂が製造するちんすこう。またその登録商標である。 概要[編集] 菓子が陰茎(「ちんこ」)の形状をしているちんすこう。単に「ちんこすこう」と呼ばれることも多い。沖縄県内の神社にて商品製造時に使用する金型に子宝祈願をしており、沖縄県の高い出生率にちなんで2006年に発売された。 ノーマルと「掘りたて紅いも味」「南国チョコ味」「ほっこり抹茶味」の種類

    laislanopira
    laislanopira 2009/04/20
    ちんすこう、ではなく、ちんこすこう… ちんことわざカルタ…
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