デモに日の丸や組合の旗があると一般の人々が萎縮してしまうからダメだという論理がある。俺は逆だと思う。ありとあらゆる人々がありのまま参加できることこそが重要なのであって、それが民主主義の基本だからだ。顔も名前も無い誰でもない誰かにならなければ参加できないようなものは民主主義じゃない
デモに日の丸や組合の旗があると一般の人々が萎縮してしまうからダメだという論理がある。俺は逆だと思う。ありとあらゆる人々がありのまま参加できることこそが重要なのであって、それが民主主義の基本だからだ。顔も名前も無い誰でもない誰かにならなければ参加できないようなものは民主主義じゃない
色々と考えたことを長文で書こうと思っていたが、エントリタイトルで言い終えてしまった。 しかし、何だか考えていたことと全く違う方向にこじれてしまっているのが、不思議でならない。 ファッションもフィクションも似たような立場のはずだろう。 「エッチなファッションを見てムラムラしてやった。男は獣だから女は自重するべき」 「エッチなフィクションを見てムラムラしてやった。読者は馬鹿だから作家は自重するべき」 似たような主張に反論する立場なのだから、むしろ共同歩調を取ってもいいはず。 扇情度と犯罪率の間に相関が見られないこと等でもファッションとフィクションは似ているのだし、反論の内容でも共通するところが多いのではないか。 しかし、はてなブックマークで複数の意見を追ってみても、さっぱり流れが読めない。本題とは関係ないが、「ホットなセクションだから村々してやった」という文章が脳裏に浮かんだ。 なお念のため書
まだ後編は上げられていないが、「階層間の学力格差や機会均等など」が書かれる予定らしいので*1、あまり補足されないだろうと推測して書く。とりあえず現行の「ゆとり教育」が失策であることも前提とする。 教育問題に関して(前編) - 雑記帳 「ゆとり教育(のうちの「総合的な学習」)」に関しては、しつこいくらいにそれを行う教員の資質・指導力の改善が指摘され、求められ続けてきましたが、そういった教育政策は失敗に終わっておきながら、教員だけは「10年に1回、30時間程度の研修」も嫌だというのは……という事で、私の日教組への認識は「左翼としての日教組」ではなく、「失敗している教育政策の片棒を担ぎながらも責任をスルーしている集団」です。 何らかの失敗をした者は、意味がない苦労*2を引き受けなければならないという考えは、全く賛同できない。 失業者は趣味を持ってはいけないとか、容疑者の実名を報道しなければならな
http://d.hatena.ne.jp/kechack/20070219/p1 曰く、 個人主義批判言説がここ最近よく聞こえるようになった。面白いことに右派は個人主義をサヨクだと言い批判し、これからは共同体主義だと言い、左派は個人主義を新自由主義の所産だと批判しこれからは共同体主義だと言う。 結局日本の古い右派も左派も実は共同体主義、悪く言えば全体主義であって、個人主義は70年以降のアメリカのラディカルカルチャーの影響を受けた穏健左派と80年代以降に入った新自由主義によってもたらされたものである。個人主義を右か左といった二分律で説明するのは不可能である。 いくら何でも、「共同体主義」と「全体主義」を同一視してしまうのは乱暴かと思う。 確認しておくと、大まかにいって、政治哲学的には、一方では政府へ参加・介入する権利を強調する人たちがいて、他方では政府から介入されない権利を強調する人々がい
件の18禁ゲームの議論の流れが何かフェミ系の議論を離れ過ぎていることに違和感を持っていたのだけど、どうやらそれはあたしだけでもない、らしい。 というわけで、書いちゃいます。 規制反対派の方々は 「他の表現手段がエロゲを生贄にしようとしている」 というニュアンスバリバリなんだけど、フェミ的には 「現実社会がエロゲを生贄にして差別を温存しようとしている」 だと思うんだよねー。 だってさ、規制を検討する発言の主は「自民党」の「山谷えり子」だよ?絶対性差別なんか考慮してくれてるわけないじゃん。 ただでさえ報道において抗議内容の主眼が「社会の」性差別から児童ポルノにすり替えられてるのに。 あとは、ちょっと「道徳」の使い方について。 こっちは畳む。 ここのコメント欄でブログ主のNaokiTakahashi氏が「道徳」っていう言葉をあまりに無邪気に使っているように見えることが違和感バリバリ。 こっちの反
「民族性」というものは、その自覚の有無にかかわらず、おそらく数千年だか数万年だか前から存在する。しかし、「民族主義」はそのような「民族性」の自覚の上に成り立ったものであり、たかだか100年から200年の歴史しかない近代の問題だ。なので、この二つの問題は明確に区別しなければならない(ここまでは当たり前の話)。 実際の話、「民族性」そのものは、誰にも否定できるものではない。たとえ様々な民族の間に生まれ育った場合であっても、いかなる「民族性」も持たない人間は存在しないし、人が母語として話す言葉はすべてどこかの民族語であり、誰もがどこかの民族的文化の中で育つのだから(例外はむろんある)。もっとも、そういう民族性も永遠に不変なわけではない。 ただ、そのことと「民族主義」の問題ははっきりと区別すべきだ。「民族性」を肯定することは、それ自体「民族主義」を肯定することではないし、「民族主義」を批判ないし否
二言目には「村上春樹を読んだこともないくせに」とか抜かすアホどもへ。 そりゃ、エルサレム賞を受賞しようと、拒否しようと、受賞するとしてどんなスピーチをしようと、村上春樹の自由に決まっている。その自由を侵害しようとした人なんて、見渡す限り、一人もいない。自由を侵害するとは、たとえば村上の家族を害するぞと脅迫して、受賞をボイコットせよと言うような、そういうことを言うのだ。村上春樹に受賞を思いとどまるよう述べている人は、あるいは、受賞するとしてイスラエルをハッキリと批判するよう求めている人は、村上の自由を前提にして、述べている。 どれほどたくさんの人が、受賞を思いとどまるように述べたとしても、受賞スピーチでイスラエルを批判するように求めたとしても、あるいは、そんな声に頓着する必要はないと言ったとしても、村上春樹は、自分のふるまいを、自分で決める。それは前提だ。当たり前のことだ。 ただし。そこにか
駆り立てるのは野心と欲望、横たわるのは自称フェミニスト ● 男はフェミニストたりうるか?を読んで考えたこと。 例えば、かつて東大に入った頃に、僕をガッカリさせたことの一つは、いわゆる「東大女子」という生き物が、案外フェミニストではないということだった。男子校で育った僕は、東大に入ったら眼鏡をかけた気の強い「東大女子」が難しい議論をふっかけてくるに違いないというステレオタイプに毒されていて、それを半ば楽しみにもしていたので、ゼミのような授業(基礎演習)で「東大女子」たちの多くが、なるべく目立たないように大人しくしているのを見て、なんだかガッカリしたのである。「男も女も関係ない。女子も、もうちょっと発言したらどうか?」とけしかけるハタ迷惑な東大男子であった。 これはいわゆる「頭が良く気の強い女子萌え」という男性の性的嗜好の一形態でしかなく、フェミニズムとは何の関係もないと思う。そもそも女性との
以前にも紹介したことのある、アドルノの「F尺度」において、理系大学生の権威主義的傾向が高いとされることに疑問を感じていましたにゃ。だってさ、アインシュタインとかファインマンなんかはシロウト目には科学者の理想イメージにゃんが、彼らに因襲的なものがあるとは思えにゃーもの。 それに、♀は数学が苦手か? - 地下生活者の手遊びで論じたように、数学あるいは物理学の専門家集団においては歴史学などの学問分野に比して性差別的傾向が著しく少なかったということも存じていますにゃ。 だから、自然科学者はリベラルな傾向があるのではにゃーかというのが僕のイメージだったわけですにゃ。無論、そうした自然科学者のイメージと反するワトソンやショックリーのこともまた取り上げたことはあるんだけれど、自由闊達な自然科学者というイメージは、そこそこ流通しているものだと思うのですにゃ。 というわけで、自然科学、それもハードサイエンス
文化相対主義に対する批判 ドーキンスの「神は妄想である」を批判した際*1、その文化相対主義批判に対しては応答する必要があると明言したんだけど、まだやっていませんでしたにゃ。 文化相対主義とはどういうもので、それに対してどういう批判があるかについては、 wikipedia:文化相対主義 文化相対主義をめぐる質疑応答 などをご参照のこと。ドーキンスの文化相対主義批判も、ウィキペディアにある 文化相対主義には普遍的人道などの観点から見て不備があり、固有文化の価値を楯に取った抑圧(幼児割礼やイスラム圏における人権侵害など)が防げないとの批判がある。 あたりをふまえたものでしたにゃ。 文化相対主義ってのは、西欧文化を基準として、西欧にちかい文化・社会を「進化したもの」とみなす「進化論的」な自民族中心主義に対する反動としてでてきたものですにゃ。もちろん、この文化進化論というのは自然科学における進化論と
SONG | 12:22 | 今年の一月から、ネット上でのある出来事が気になり、可能な限り追いかけ、ときおり概観などを当日記に書きとめてきた。ある出来事は「水伝騒動」と呼ばれ、「水からの伝言」(水伝)というニセ科学を巡る議論から様々な問題に派生して、現在でも議論や諍いは続いている。諍いの当事者のひとりが、ブログコメント欄等で「これはケンカ」みたいなことを書いているのをみたことがあるが、明らかに“ケンカ”に持ち込みたい方々がいる。そうすることでどうしたいと思っているのかまで忖度する気はないが、“ケンカ両成敗”で自らのセクハラ行為や不当で執拗な攻撃が水に流されると思っているのかもしれない。そのような愚行に付き合う気はしないので、できうる限り、もともと議論が上手なわけでもないのでバトルと呼ばれるような場に直言することを避けてきた。しかし、水伝に関わり、ときおり批判的発言をしてきた者として、批判者
もともと私にはクレジットカードを使う習慣はなかったのだが、ETCカードやアマゾンの支払いのために契約した。毎月カード会社から利用明細と一緒に送られてくる広告に、いかに「リボ払い」が便利で有用であるかが記載されている。「リボ払い」がなんなのか初めはよく分からなかったのだが、「リボルビング払い」の略で、毎月定額の支払いのことらしい。 支払額を定額、たとえば5万円と設定しておけば、7月に8万円の買い物をしたとして、8月の支払いは5万円だけでよく、残りは9月に持ち越される。要するに借金だ。便利なのかこれ。私の契約するカードでは8月分の支払いには手数料はかからないが、9月分には結構な手数料がかかる。調べてみたら「実質年率15.00%(月利1.25%)」とある。高い。 広告では、「夏休みに帰省やら海外旅行やらで出費がかさんでも、翌月の支払いは一定額におさまるから安心」的な書き方をしている。借金してまで
さて、藤井誠二『殺された側の論理』(講談社、2007年)に収録されている座談会で、小宮信夫が「中世の時代は被害者に復讐する権利や決闘という方法」があったけれども近代国家になると被害者からは力が奪われて、「当初は被害者の代わりに国が復讐する役割をして」いたが「いつの間にか国は秩序を乱すという理由で加害者を罰するというようになった」と発言している(252-253頁)。これは「被害者及び死刑」でも取り上げたように、しばしば見られる見解なのであるが、果たして小宮はどういった根拠に基づいて言っているのであろうか。仮にも犯罪社会学者という専門家の言うことであるから無根拠であるはずがなかろうと思うが、とりあえず自分なりに確かめられる部分は確かめようと思い、法制史の教科書をところどころ読み直してみた。 概説 西洋法制史 作者: 勝田有恒,山内進,森征一出版社/メーカー: ミネルヴァ書房発売日: 2004/
美術教育方面の話に絡んだ「個性」関連のエントリが賑わっている。 そもそも君らに個性などない - 地下生活者の手遊び 個性は本当に獲得するものなのか?- ハックリベリーに会いに行く 個性とは、他人から独自のやり方であると認められたものに過ぎない。個性が周囲とは無関係に存在すると思っていること自体が間違っている。 - 消毒しましょ! 以前、美術系の幼児教育に携わっていたことがあるので、ちょっと子どもの絵の話を。 子どもの絵には、年齢に対応した発達段階がある。たとえば4歳の子どもがどのような絵を描くかは、多少の個人差はあれどもある程度の類型が見られるので、そこから発達障害や心理的外傷を読み取ることも普通にされている。 年齢的発達段階とは別に、絵には子どものその時の精神状態や興味のあり方といった心的現実が色濃く反映される。殊に言語コミュニケーションが十全な発達を遂げていない時期の子どもにとっては、
千島学説のとき、ちょいと話題に出したリチャード・コシミズ氏を覚えておいでだろうか。911同時多発テロはユダヤ資本による自作自演だと主張している、要するに911陰謀論者。で、そのコシミズ氏の後援会が「独立党」である。その独立党が内ゲバで愉快なことになっている。独立党の幹部5人が退会(コシミズ氏によれば党内洗浄)したのだ。まず、独立党を退会したほうの言い分。 ■私たちはなぜ独立党を退会したか(1)*1(独立党のブログ(跡地)) 独立党は結成して約1年半になりますが、その間にコシミズ氏は、自分が任命した幹部のうち、実に6名に「工作員」とのレッテルを貼りつけ追放するか、逆に見限られているのです。日本のカルト支配脱却を目指して集まったはずの独立党で、このような事態が起きてしまったことは慙愧に耐えないことですが、その事情となると一般の党員の皆さんに理解しがたいのは無理なかぬことで、残念なことにコシミズ
追記 補足となる論考をあげましたにゃ。この花は、まことの花にはあらず@風姿花伝 - 地下生活者の手遊び 7/7 1:25 追記ここまで 皿の上のリンゴ - 地下生活者の手遊びで紹介した非常勤の美術講師と茶飲み話をしましたにゃ。彼によると、「ある種の【囚われた】タイプがどうも最近増えてきたのではないか」というのですにゃ。 「その、ある種の【囚われた】タイプってどういうのなのかにゃ?」 「他人と同じことをやりたくない、というやつ」 「そういうの、昔からいただろにゃ?」 「増えてるし、かたくなになっている」 音楽もそうなんだろうけど、美術についても実は「理系」といっていい部分が結構ありますにゃ。遠近法とか色彩理論とかいうプロとしては身につけなければ話にならにゃー理屈はほとんど理系的なアタマの使い方を必要とするし、デッサンの構図には「正解」といっていいものがありますにゃ。このあたりの基礎理論とか「
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