佐藤義亮『出版おもいで話』(『出版人の遺文 新潮社佐藤義亮』栗田書店、昭和43年6月)には、次のような一節がある。 雑誌はだんだんよくなるのだが、それで生活のできる見込みはもちろんつかない。二十一年も暮れ近くなると、寒さと共に貧乏が骨に徹してくる。何とか打開の途を講じなくてはと首をひねって考えついたのは、『文章講義録』の発行だった。 誰もまだ手を染めてはいないし、これならば大丈夫と見込みはついたが、内容見本をこしらえる金もない。仕方がないから、一枚の紙に規定や何かを刷り込んだ簡単至極のものをつくり、新聞に小さな広告をだしたところ、これが当った(当時として……)。成績は上々で、ほっと息をつくことができた。 執筆者は、大町桂月、杉烏山(敏介。当時の新体詩人、後の一高校長)、 内海月杖(弘蔵。後の明大野球部長)、田岡嶺雲等々、大学を出たばかりの花形揃い、それに私と梅溪君とは、変名でさまざまの題目