今から150年前、堺は「県」になった。県域は現在の大阪府東南部まで拡大、奈良県まで合併する勢いだった。だが、堺の県知事は奈良合併を事前に知らず、盟友・大久保利通への手紙に「驚愕(きょうがく)千万かつ迷惑」と書いている。謎多き「堺県」の歴史と今日への影響を探った。堺県が誕生したのは1868年。堺市博物館は今月8日まで企画展「堺県とその時代」を開いた。今の堺市が県だったことはどの程度知られているの
全国最大規模の旧真田山陸軍墓地(大阪市天王寺区)の荒廃が深刻化している。先の大戦から70年以上がたち墓碑はひびが入るなどした上、今年9月の台風21号の強風で多数の墓碑が倒れ、追い打ちをかけた。背景には墓地の所有者の国と管理を任された市との間で、役割分担のあいまいさがある。大阪市の吉村洋文市長は「国がしっかりと改修に取り組むべきだ」として、11月にも国に要望書を提出する方針だ。(地主明世、写真も) ■追いつかぬ修復 「倒れた墓碑をみて、胸が痛んだ。少しでも力になりたい」。奈良県生駒市から来た女性(67)はこう話し、汗をぬぐった。 10月中旬。旧真田山陸軍墓地には、墓地の清掃活動に取り組む「真田山陸軍墓地維持会」のメンバーや各地からのボランティアら約500人が集まり、台風で倒れた墓碑約50基を起こしたり、草むしりをしたりした。同会副理事長の花畑暢夫さん(64)は「墓碑が倒れることは遺族の方々に
なんぱパークスの石碑にある「難波新川」とは、難波入堀川とも呼ばれ、1733年道頓堀から難波御蔵への米の輸送路として開削された運河である。 なんぱパークス 石碑の場所から約100m西側にあった難波入堀川は、道頓堀川大黒橋の西から御蔵まで全長800m、幅14,5m、江戸後期の地誌「摂陽奇観」に「此川の蜆大きにして風味よし」と書かれているので、当初は蜆が取れるほど水質の良い運河であったようである。 なんばパークスの敷地には難波球場があった 難波入堀川と道頓堀川との分岐点だけは、今も大黒橋の西に残っていて、そこだけ川が南に14、5mだけ凹んでいるのですぐにそれと判る。 しかし難波入堀川も次第に汚染が進んだため、明治に入った1878年(明治11年)に南側にあった鼬川(いたちがわ 長さ1450m、幅10m)と連結している。 1879年、鼬川との連結が完成してからの難波入堀川は、「難波新川」と呼ばれるよ
江戸時代の浮世絵「浪花百景」に、浪花の人々に愛された「住よし大和橋」が描かれています。紀州街道に架かる公儀橋で、当時のお渡りでは、神輿と数百人が手に松明を持って、この橋を渡る一場の名舞台 となっていました。この松明は遠く明石の地から見えたそうです。 現在では、この大和橋の眼下・川中に100メートルの祭場が設けられます。神輿の担ぎ手は、「ベーら」が飛び交うなか、熱い砂を踏み、水を蹴り上げ、何回ともなく神輿を差し上げ、あらん限りの力で祭場を駆け抜けます。大阪側のクライマックスです。 大阪側から堺側に采配と神輿が引き渡される頃、安立町・大和橋の 遥か西の彼方、ちぬの海に夏の夕日が入ります。 祭は、300年前から大和川の水と親しんで栄えてきた浪花の住民の生命に潜む遺伝子の荒ぶる喜び、そして大和川を再び清い水に蘇ら せんと願う祈りの姿に見えると言う人もいます。
前に一回、京都中書島と橋本の赤線跡巡りをしたんやけど、 (ブログはここです。赤線の意味なんかもここに書いてるさかい、ご覧あれ) 赤線跡巡りはこれで終わったわけじゃーありませぬ。むしろこれからが赤線跡巡りの始まり、ってゆーてええかもしれません。 それまで成りを潜めてたんは、じっくり調査してたからなんですわ。 赤線に関してはいろんな本があって、俺は 赤線跡を歩く 消えた夢の街を訪ねて(ちくま文庫) を参照にさせてもろて、これだけでもある意味十分ゆーたら十分なんやけど、 (これは赤線抜きでも一読の価値ありですわ) ある方から、家の近くにある「信太新地」(現役バリバリのとこだす)の歴史も調べたらどない?と宿題を仰せつかい、 今まで色々調べてたんやけど、その副産物でいろんな資料が見つかりました。 (肝腎の「信太新地」については、資料が乏しすぎるさかい、まだ完成しとりません) 同じ赤線跡を調べてる人の
大阪最大のターミナル駅、そして猛烈に発展しているキタ・梅田。だがその一方で梅田の街には様々な裏の顔もある。 大阪駅の南側に、少し年代の入った4つのビルが見える。「大阪駅前ビル」。 ここは当時の大阪市都市開発局の計画で、1970年~1981年までの間に「ダイヤモンド地区」と呼ばれる広大な再開発エリアに次々と建設されたビルである。 特に34階建て、高さ142メートルの第3ビルは1986年までは大阪一の高層ビルであった。 この再開発事業には裏話がある。 これらのビルが建てられる前、この場所にあったもの、それは戦後間近の闇市の時代から残る三国人による不法占拠のバラックだった。 大阪市の行政は、何食わぬ顔で人の土地に居座る彼らに対し多額の立ち退き費用を血税から支払い、これらのビルを建設した。 そして現在もそれらのビルがパチンコ屋やサラ金だらけというのが滑稽でならない。そんな建物と同じ場所に、
東京農工大から寄贈された織機(手前)など廃棄処分が決まった産業資料(12日、大阪府吹田市の万博記念公園で)=金沢修撮影 万博記念公園(大阪府吹田市)に建設構想があった「国立産業技術史博物館」用に、大阪府などで作る協議会が収集した発電所のタービンなど、江戸時代以降の産業資料2万数千点が、一度も公開されないまま、廃棄処分されることがわかった。構想はバブル経済崩壊後に頓挫し、公園内の旧万博パビリオン・鉄鋼館に保管されていたが、16日にも処理業者による搬出作業が始まる。専門家らは「日本のものづくりの歴史を語る貴重な資料。保存すべきだ」と批判している。 府、大阪市、大阪商工会議所、日本産業技術史学会で作る同博物館誘致促進協議会が6日、廃棄処分を決定した。協議会は1986年に設立されたが97年以降は、休眠状態になっており今月末で解散する。 資料は、関西電力や東京農工大など約30の企業や大学、個人から寄
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く