司会: それでは、私の方から本日ご講演を頂きますお二人の先生方をご紹介させて頂きます。 初めに山下先生でございますが、山下先生は長崎大学大学院医歯薬学科薬学総合研究科長をされておりまして、世界保健機構緊急被ばく医療協力研究センター長、日本甲状腺学会理事長をされています。 次に高村先生をご紹介します。高村先生は同じく長崎大学大学院医歯薬学総合研究科に勤務され、2010年1月から2010年9月まで世界保健機構テクニカルオフィサーを勤められておったと聞いております。現在、お二人は福島県民の安全・安心を図るため放射線による健康被害に関する世界的権威からアドバイスを頂いておりまして、放射線と健康に関する正しい知識を県民に提供することを目的とした福島県放射線健康リスク管理アドバイザーに、去る23年3月19日付で就任・委嘱されているところでございます。本日は「福島原発事故の放射線健康リスクについて」と題
被災地への支援を続ける自転車乗りのブログ 東日本大震災後、深刻なガソリン不足のなか東京から北茨城へ往復340Km自転車で救援物資を届けてきました。今は被災地各地を自転車で回って現地で直接消費したり、東京では風評被害解消のため被災地の野菜を食べたりしています。 詳細な記録をブログにして書きとめておきます。リアルタイムな情報はTwitterアカウント@cervelo0625 をフォローしてください。 過去のツイートのまとめはツイログにあります。 アドレスはhttp://twilog.org/cervelo0625 です。 僕は都内で働く33歳の会社員。3月19日、地元茨城県の被災地、県北地域へ行ってきた。 手段は自転車。なんで自転車?理由はひとつ。ガソリンを一滴でも無駄にしたくなかったから。 僕たちが節約することで、その分被災地で本当に必要な人にガソリンが回るはず。そう思った。 北茨城まで往復
Yasutoshi KOIMIZU|恋水康俊 @koimin1228 東北大学川内北体育館。明日以降立町小学校から多くの人が来るとか。水道が通ってないためトイレが流れず衛生的にまずい。若い人が何度も給水しなければならない。 http://twitpic.com/4957ho 2011-03-14 01:01:09
深刻な原発事故の拡大を防ぐべく、「総力戦」が日夜続いている。聞こえてくるのは「作戦は成功」という大本営発表ばかりで、冷静な評価や高度な専門知識に支えられた今後の見通しが示されることはない。その役割を果たすべき組織、原子力安全委員会(班目春樹委員長)は、この間ずっと「行方不明」なのだ。 安全委員会は日本の原子力安全を統べる元締めである。行政組織上は内閣府の審議会のひとつで、経済産業省の原子力安全・保安院や文部科学省など役所の行なう安全規制を再チェックし、事業者と行政を両方監視する。必要なら政府や自治体に勧告を行なう権限を持つ。 その元締めが、東電福島の深刻な事故が判明してから10日経っても、一度も記者会見をしていない。班目委員長が12日に菅直人首相と同道して現地訪問したこと、職員を現地対策センターに派遣したことなどは、ホームページに記されているが、国民に向けての情報発信はゼロである。 何ゆえ
新しい住宅地はすべて波にのみ込まれ、田老一高い6階建てホテルだけが残った。その「たろう観光ホテル」も3階以下は赤い骨組みがむき出しのまま。「津波が来たら最も危ない」。宮古市田老総合事務所(旧田老町)職員の大下哲雄さん(55)が常々そう感じていた地区(B地区)には今、わずかに残った住宅の残骸と破壊された防潮堤の破片が点々としている。 3月11日。大下さんは田老港に近い高台で、国民宿舎だった建物の解体に立ち会っていた。三陸の観光拠点と期待されながら、経営難で閉館した施設だ。地震後、作業員とその場にとどまっていると、沖から大砲を撃つようなごう音が聞こえた。父から大津波の前兆と聞かされていた音だった。 大下さんの曽祖母は1896(明治29)年の明治の大津波で家族6人を失い、ただ一人生き残った。その孫である父の信平さん(87)は9歳で昭和の大津波に遭い、母を亡くす。大下さんにとっての祖母だった。父か
dragoner@2日目東イ14b @dragoner_JP 今回の津波で被害が出た、宮古市の旧田老町地区について、複数の人から同じ話を聞けたので、ネタ元の確度は高いとみて少し呟く 2011-05-20 23:27:22 dragoner@2日目東イ14b @dragoner_JP 田老町は三陸沖津波で大きな被害を出したため、戦後は世界最大級の防潮堤が作られ、それはチリ津波での被害を極小した。そして、今回の津波では津波が防潮堤を超えて大きな被害を出した、というのは報道の通り 2011-05-20 23:34:20 dragoner@2日目東イ14b @dragoner_JP で、報道やネットをちらほら回ると、「住人の命を守れなかった防潮堤」という意見がたくさんあるけど、複数に話を聞くと、これはどうも違うようだ。少なくとも、自治体当局は「防潮堤は財産を守る物。人命を守るのは避難」と数年前に語
東日本大震災で被害を受けられた方々に心からお見舞いを申し上げます。 今回のあまりにも大きな震災では、地震による建築物やインフラへの被害、津波による未曾有の被害、そして福島第一原子力発電所事故の3つが主な災害として報道されているけど、もうひとつ見逃せない事故が起こっている。 福島県須賀川市に設置されている農業用アースダム、藤沼ダムが決壊し、下流で7名の死者、1名の行方不明者を出してしまった。まだ地震との因果関係が証明されたとは聞いていないけど、激しい揺れの直後にダムの方から大量の水が流れてきた、という地元の方の証言もあるようで、地震によって藤沼ダムが何らかのダメージを受け、決壊に至ったと考えて間違いないだろう。 津波と原発の陰に隠れてあまり報道されないこのニュース、地震国であり全国的に無数のアースダムが造られている日本では決して他人事でなく、ダム関係者やわれわれダム好きにとどまらず、全国民が
【追記】 熊本地震で被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます. 本サイト「仮設のトリセツ」は,東日本大震災(2011年3月11日)に際して立ち上げたものです. 熊本地震での住戸被害は膨大で,多くの仮設住宅の建設が建設されようとしています. 中越地震,東日本大震災でも仮設住宅の計画時の僅かな差が,その後のお住まいに大きな影響を与えてきました.仮設住宅建設の初期に共有すべき情報を「熊本地震発生に際して」に追記いたしました. 岩佐明彦(法政大学) ーーーーーーー この度の東日本大震災で被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。 2004年から2007年にかけて、新潟は7.13水害・中越地震・中越沖地震という3つの災害に立て続けに遭遇しました。これらの3つの災害でも計5,500戸の仮設住宅が建設され、沢山の人が暫定的で不自由な生活をすることになりました。 私たち新潟大学工学部岩佐研究室
Nature 471, 562-565 (2011年3月31日号) | doi:10.1038/471562a チェルノブイリの遺産 チェルノブイリ原子力発電所の事故から25年。現地では今もなお除染作業が続いているが、健康被害の研究は十分とは言いがたい状況にある。日本はチェルノブイリから何を学ぶことができるだろう? Mark Peplow スラブティチ発の朝の電車は、トランプをしたり、電子書籍を読んだり、車窓から単調な氾濫原を眺めたりする通勤客で満員になっている。それは、ありふれた通勤風景に見える。しかし、40分の電車通勤を終えた彼らを迎えるのは、地下鉄の回転式ゲートではなく、ずらりと並んだ全身用放射線量モニターだ。こうして、世界最悪の原発事故現場となったチェルノブイリの1日が始まる。 作業員を乗せた電車がウクライナの荒廃した田舎を走り抜けている今この瞬間に、地球の反対側で、もう1つの危機
岩手県釜石市では、市内の小中学生、ほぼ全員が津波の難を逃れた。多くの人たちは、これを「奇跡」と呼ぶ。しかし、そうではない。教育で子どもたちが身につけた対応力が「想定外」を乗り越えさせた。★英訳版はこちら ⇒ http://p.tl/UDIF 死者の声に耳を傾ける 最初にある少女のことを書かせていただきたい。私は、岩手県釜石市の小中学校で先生方とともに防災教育に携わって8年になる。「どんな津波が襲ってきてもできることがある。それは逃げることだ」と教えてきた。特に中学生には「君たちは守られる側ではなく、守る側だ。自分より弱い立場にある小学生や高齢者を連れて逃げるんだ」と話していた。今回の震災では、多くの中学生が教えを実践してくれた。 ある少女とは、私が教えた中学生の一人だ。彼女は、自宅で地震に遭遇した。地震の第一波をやり過ごした後、急いで自宅の裏に住む高齢者の家に向かった。そのおばあさんを連れ
平成23年4月20日 「大規模地震発生時における首都圏鉄道の運転再開のあり方に関する協議会」を下記の通り開催しましたので、その概要をお知らせします。 1.日時 平成23年4月20日(水) 14:00~16:00 2.場所 合同庁舎2号館 国土交通省第2会議室B 3.出席者 別紙のとおり 4.議題 (1) 協議会について (2) 東日本大震災発生時における運転再開に向けた各鉄道事業者の対応状況の調査方法について (3) 地震発生時における各鉄道事業者の対応要領の整理方法について (4) その他 5.会議の概要 (1) 各鉄道事業者から震災後の対応の概要が報告された。主な発言は以下のとおり。 [1]地震計の測定値と内規で定める基準に基づき、徒歩巡回、被害施設の復旧等の作業が必要となり、結果として運転再開まで相当の時間を要した。 [2]駅間停車の旅客の誘導、施設の点検等安全確保を最優先で対応
伝わらなかった火砕流の危険 不十分だったリスク・コミュニケーション 43人の犠牲者 1991年6月3日16時すぎ、雲仙岳から発生した火砕流に43人が飲み込まれて死亡しました。犠牲になったのは、報道記者とカメラマン、彼らを乗せていたタクシー運転手、それから地域の消防団員などでした。全身にやけどを負ってよろめきながら歩いて逃げてくる人たちの映像が、夕方のテレビニュースで流れました。それは、直視するに耐えない悲惨な映像でした。 私は、この惨事前の一週間、島原に滞在していました。溶岩ドームから繰り返し発生して日ごとに到達距離を伸ばしていた火砕流のリスクをよくわかっていました。あの火砕流に飲み込まれれば死ぬことを知っていました。 火砕流の映像をとるためと火山監視のために大勢の人が入り込んでいた北上木場の「定点」に火砕流が達するのは、時間の問題でした。夜間は無人だろうが、昼間は誰かが「定点」にいるだろ
以前【世界中から「今日の新聞一面」を収集したサイト「Newseum」】でも紹介した、ワシントンDCに位置する、ニュースの歴史と意義などを啓蒙する博物館【Newseum】は2011年4月12日、先の東日本大地震で被災した宮城県の地方紙【石巻日日新聞】が震災直後にフェルトペンの手書きで新聞の発行を続け、避難所などに貼り出した壁新聞を「人類の情報へのあくなき欲求と、それに応えようとするジャーナリズムを強力に物語る、時代を超えたメッセージ性を秘めた新聞」と評価。同社から該当する新聞を譲り受け、博物館の展示品として加えることを発表した(【トリガー記事、47News】)。 同紙は大正元年(1912年)創刊。8ページ構成の夕刊紙で毎日発行している。同紙は震災とその後の津波で編集関連の設備を失ったものの、難を逃れたロール紙を用い、懐中電灯の明かりを用いてマジックペンを使い、手書きで新聞を作成した。スタッフ
多くの児童が北上川(上)を逆流した津波に襲われて亡くなった大川小(9日午前、宮城県石巻市で)=冨田大介撮影 東日本大震災で全校児童108人のうち7割が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小で、被災時の状況が目撃者の証言などから明らかになった。 児童は集団で高台へ避難する途中、すぐそばを流れる北上川からあふれた津波にのみ込まれた。当時の様子が知りたいという保護者の要望に応えて学校側は9日夜、説明の場を設ける。 ◇河口から4キロ◇ 大川小は東北最大の大河、北上川右岸の釜谷地区にあり、太平洋に北上川が注ぐ追波湾の河口から4キロ上流に位置する。同県教委によると大川小の児童は56人が死亡、18人が行方不明。また教諭については当時、校内にいた11人のうち9人が死亡、1人が行方不明になった。校長は震災当時、外出して不在だった。 保護者や住民らの証言では、児童は11日午後2時46分の地震直後、教諭らの
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