もう五月も終わる頃だけど、だいたいこの頃までに学校の先生との相性の結論的なものは出てくるんだと思うんだよね。 「今年の先生は当たり!」とか「残念ながらハズレ」とか…。 発達障害等、障害のある子供達には担任の先生の障害に対する理解や姿勢もその「相性」には大きく関係してくるんだろうけど、障害のあるなし関係なくやっぱり相性っていうのがあるんだよね。 その中の一つの要素が、「先生の授業のスタイル」と「自分が得意な学び方」の認知処理方法のマッチングにもあると思うのね。 今日は、視覚優位/聴覚優位/体感覚優位と、同時処理/継次処理 のお話し。 自分の認知スタイル・学習のしやすさが「視覚優位/聴覚優位/体感覚優位」のどれに当てはまるかっていうのは結構わかってる人が多いと思います。 例えば ● 授業でパワポを使ったりや板書をする先生と視覚優位の人は相性がいい(学びやすい)し、 ● 視覚的な要素を使わず、口
ー「パパ、パパ」。か細い声で呼びかける息子を置き去りにして、父親は家を出たー 「残酷な父親」によるネグレクトとして、大きく報じられた事件がある。 神奈川県厚木市で2014年5月、アパートの一室で白骨遺体が見つかった。ゴミに埋もれた布団の上にうずくまっていたのは、生きていれば中学1年生だったはずの男の子。男の子が5歳のとき、父親はこの部屋を出て行った。 東京高裁は2016年11月、父親を殺人罪で懲役19年とした一審の横浜地裁判決を破棄。「死亡する可能性が高いと認識していたとは言えない」として、保護責任者遺棄致死の罪で懲役12年を言い渡し、確定した。 児童虐待の取材を続けているルポライターの杉山春さんは、この父親と拘置所で面会し、手紙を交わし、裁判を傍聴した。取材を通して見えてきたのは、この父親の「残酷さ」ではなく「育てる力の乏しさ」だったという。 なぜ父親は、息子を置き去りにしたのか。なぜ息
Twitter「#あたしおかあさんだけど」で対抗絵本作家ののぶみさんが、おかあさんといっしょの歌のお兄さんだった横山だいすけさんに提供した曲「あたしおかあさんだから」にTwitterなどで子育て中の母親父親、そして独身女性などからも批判が集まり、炎上しているようです。詳しくはこちらのtogetterなどをご覧ください。 歌詞を見ると、母親が子どもを産み育てるうえで、様々なことを我慢していることを書き連ね、でも「おかあさんになれてよかった」とまとめています。批判の主なポイントは、【1】そんなに母親たちは我慢や自己犠牲ばかりしていないというもの、【2】これまでののぶみさんの絵本の作風などとも相まって、母親だけに我慢や自己犠牲を礼賛しているようで「呪い」に感じられるというもの、【3】母親になる前の女性のこともばかにしているように聞こえるというもの の3点に分けられそうです。 このうち、【1】につ
学習性無力感(がくしゅうせいむりょくかん、英: Learned helplessness[1])とは、長期にわたってストレスの回避困難な環境に置かれた人や動物は、その状況から逃れようとする努力すら行わなくなるという現象である。他の訳語に学習性絶望感[2]、獲得された無力感[3]、学習性無気力[4]がある。 なぜ罰されるのか分からない(つまり非随伴的な)刺激が与えられる環境によって、「何をやっても無駄だ」という認知を形成した場合に、学習に基づく無力感が生じ、それはうつ病に類似した症状を呈する[5]。1967年にマーティン・セリグマンらのオペラント条件づけによる動物実験での観察に基づいて提唱され[5]、1980年代にはうつ病の無力感モデルを形成した[6]。 歴史[編集] 心理学者のマーティン・セリグマンが、1960年代にリチャード・ソロモンの元で学生生活をしていた時期に思いつき、それ以来10年
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