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科学と学問に関するigrepのブックマーク (4)

  • 通説の怖さ

    こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。 なんでも、書籍で最初に江戸しぐさを批判したのは私ではないかとの指摘を受けまして、そういう栄誉に浴した(?)からには、読まないわけにいきません、江戸しぐさについて徹底検証した原田実さんの『江戸しぐさの正体』。 私が感じてた疑問や矛盾はほぼすべて突いてました。化けの皮を完全にはがしちゃいました。まあ、普通に考えればおかしいと思うよねえ。江戸しぐさを勧める人たちが江戸文化に無知すぎることはあきらかなんで。 江戸しぐさ信奉者たちからの反論――は期待するだけムダでしょう。どうせ、「諸説あります」と常套句でいい逃れをするのがオチ。どんなデタラメな説を持ち出しても、これは諸説あるうちのひとつだから、といえば許されると思ってる。さらに追及されると、もうひとつの切り札「信じる信じないはあなた次第」を出してきます。 そもそも歴史を科学とは思ってない人が多すぎるんです。

  • http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/essey/kagaku.htm

    「科学的」とはどういうことか? オカルトに関わっている者によって、この「科学的」って言葉は、よくよく縁があるもんなんですよね。 オカルト否定論者は、私のことを「非科学的」と言います。また、あるオカルティストは、「霊や超能力の存在は科学でも証明された!」とか、「私のやってるのは占いではなく、科学である!」、「魔術は科学である」と主張したりします。 が、ちょーーーっと待った!! ここで、「科学的とはどういうことか?」ってことについて、ちょっと落ち着いて考えてみるべきだと思います。 もちろん、ここで言う「科学」とは、自然科学のことです。 思うに、オカルトについて「科学」を持ち出すなら、科学のルールについて知らなければなりません。 これは、「科学VS科学」の論争においても、また「科学VS科学以外の思想」についても、同じです。科学を語るにも、科学を批判するにも、科学のルールを知らなければ、議論は成立

  • I'm Standing on the Shoulders of Giants. 操作的定義では

    知能とは何かと問われると,心理学者たちは,嘲るような顔つきで,知能テストが測定するものこそが知能だよ,と答えることがある。このやりとりは同義反復(トートロジー)にしか見えないであろう。科学の専門家でない人びとが聞いたら,おそらく面白がるであろう。しかしながら,科学の分野ではこの種の定義--いわゆる操作的定義(オペレイショナル・ディフィニション)--は,まったくありふれたものである。実際,多くの科学者たちが,これこそが受容できる唯一の科学的定義だ,と信じてもいる。1つの概念を,それを測定する方法と測定した結果とによって定義することがあるが,その時,この定義は同義反復ではない。なぜなら,測定という作業は1つの理論から導き出されたもので,その理論を証明したり無効にしたりするために,使われるものだから。知能テストが測定するものが知能なのだ,という言い方は,知能測定の結果そのものによって反証をあげら

  • I'm Standing on the Shoulders of Giants. 論文の多くに誤りがあるという事実

    科学を広範囲にわたって知らない読者は,公表された論文の多くに計画の誤り,統計分析の欠陥,解釈の間違いなどが含まれていると聞いて,びっくり仰天するかもしれない。しかし自分たちの技術の扱い方について賢明な科学者たちは,それほどは驚かないであろう。実験と分析の方法はつねに改良され,評価の数値もだんだん正確になってくる。しかし,そのことは,以前の研究が,それが発表された時期に科学的でも重要でもなかった,ということにはならない。たとえば,近代宇宙論の分野における道標とも言うべきハッブル定数は,マグニチュードの順序に従って長時間のあいだに数値が変わってきている。だが,これは以前の値が非科学的だったという意味ではない。科学とはつねに変化し,前進するものである。科学が絶対的真理に到達するのは世間一般の人びとの空想のなかにおいてだけである。 H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 

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