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ブックマーク / note.com/samf (3)

  • 私の知っているビルゲイツ、その12|samf、古川 享

    ビルゲイツ、自分の限界を知りプログラムを書かなくなったわけ 1970年代の後半から1980年代の初頭においては、㈱アスキーがマイクロソフトの代理店として活動していた時代がありました。その頃は西和彦さんが次々と日の会社へのアプローチを実現し、多くの日人プログラマが日だけではなく、アメリカに長期滞在して日向けのBASIC言語その他の移植作業をしていました。1982年前後はIBMPCの出荷に併せて日のメーカーによるIBM互換機の投入に並行して、8ビット機としての終焉を飾るPC-88シリーズから、世界初のGUIべースのパソコンNEC PC-100, 日立のBAISCマスター、沖電気のif800、NCR9005、YE-Data、ALPSなどのハードウェアが次から次へとシアトルのマイクロソフト社に持ち込まれBASIC言語の移植に日夜、日人も関わりを持っていました。当時の開発環境はDEC社

    私の知っているビルゲイツ、その12|samf、古川 享
  • 私の知っているビルゲイツ、その5|samf、古川 享

    ビルゲイツがWindowsをやるぞ、と決心したその日、その瞬間に私はその場に居合わせたのでした。 それは、1983年5月16日のこと、目の前がディズニーランドというロスアンジェルスのアナハイムで、NCC(National Computer Conference)という展示会が開催されました。 その当時は、WCCF、Comdex、NCCがコンピュータの展示会として実績があり、マイクロソフトも初めてコンシューマ向けアプリケーションを提供して「マイクロソフト・マウス」「マルチプラン」そして「マルチツール・ワード」を主たる製品としてNCC83の展示に望みました。 コンピュータ業界のアプリ提供者としては新参者のマイクロソフトは展示会場の建物内にブースを構えることができず、急遽しつらえられた巨大な白いテント内にブースを構え後にブース内の気温が上がり、消防署の指示により展示を中断するという事態になりまし

    私の知っているビルゲイツ、その5|samf、古川 享
  • 私の知っているビルゲイツ、その1|samf、古川 享

    マイクロソフト株式会社を1986年に立ち上げた頃には、ビルゲイツは日に年2から3回ほど訪問していたと思います。 いつも成田空港へ迎えに私が行っていたのですが、彼が来日するときには同行する秘書もお付きの人間も無く、いつも一人で空港に到着していました。 さすがに、「一人でリムジンバスか成田エクスプレスに乗ってきなさい。」というわけにもいかないので、空港の到着待合室で彼を待つのでした。 その当時ビルが使っていたカバンは、Lark製の小ぶりのスーツケースと皮製のトラベル用スーツケースどちらも10年以上使い込んだもので、多分革製のものは父上から譲り受けたものでないかと思われるほどの年季ものでありました。 ハーバード大学に入学したときその革カバンに身の回りの品を詰めて寮に入ったのだそうです。 あの当時、海外旅行スーツケースといえば、ハードケースはサムソナイト、ソフトケースはLarkとお決まりであっ

    私の知っているビルゲイツ、その1|samf、古川 享
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