NHKニュース @nhk_news 上皇ご夫妻「なら歴史芸術文化村」を訪問 奈良 薬師寺の国宝・東塔の構造について説明を受ける際、模型を示され、上皇さまが「この模型はいつ作られましたか」と尋ねると、担当者が「昨日です」と答え、上皇后さまと一緒に笑われる場面もありました www3.nhk.or.jp/news/html/2023… #nhk_video pic.twitter.com/yvj46WKQ8C 2023-05-17 20:42:04
神武陵にされる前のミサンザイ 「文久の修築」による変貌 改変が繰り返される「神武陵」 広大な森を新たに造成 演出される「神秘」「荘厳」 幕末の下級武士たちがでっち上げたペテン 神武陵にされる前のミサンザイ 式年祭についての記事でも書いたように、現在の「神武天皇陵」は、幕末の文久2(1862)年、恐らく神武の埋葬地ではない「ミサンザイ」に決定された。その後、明治から昭和にかけて、このミサンザイは巨大で荘厳な「天皇陵」に作り変えられていくことになる。 まず、この地が神武陵に比定される前はどうだったか。「文久の修築」前の状態を示す絵図が残っている[1]。 当時のミサンザイは、田圃の中の小さな塚に過ぎない。そこには榎一本と茨のような灌木が一株生えていた[2]。ちなみに、旧洞村の古老の話によると、ここはもともと糞田(くそだ)と呼ばれており、牛馬の処理場だったかも知れない[3]、という。 「文久の修築
吉川弘文館より『天皇の美術史』(全6巻)の刊行が開始された。編集委員を代表して、髙岸輝氏には本シリーズの全体像を、五十嵐公一、伊藤大輔の両氏には第一回、第二回配本の担当巻について、これまでの美術史とは違った視点をもった本書の魅力、読みどころなどを、また美術史家の辻惟雄氏には本シリーズへの期待を込めたエッセイを寄せてもらった。(編集部) 日本美術ブームと言われる近年、主要な美術館には多くの観客がつめかける。昨春、東京都美術館で開催された伊藤若冲の展覧会では、最長で四時間近い入場待ちの行列が上野公園に出現した。ブームを牽引する近世絵画だが、研究の導火線となったのは、辻惟雄『奇想の系譜』(美術出版社、一九七〇年)である。今回、『天皇の美術史』では全六巻のうち二巻を近世美術に充て、第四巻「雅(みやび)の近世、花開く宮廷絵画」は、俵屋宗達や尾形光琳らが古典絵画を再生させる過程を論じた。第五巻「朝廷権
奈良・東大寺の大仏の足元から明治期に出土し、「東大寺金堂鎮壇具(こんどうちんだんぐ)」として国宝に指定された金銀荘大刀(きんぎんそうたち)2振りが、約1250年にわたって行方がわからなくなっていた正倉院宝物の大刀「陽寶劔(ようほうけん)」「陰寶劔(いんほうけん)」だったことが、元興寺(がんごうじ)文化財研究所(奈良市)のX線調査でわかり、研究所と東大寺が25日、発表した。 「陽寶劔」「陰寶劔」は東大寺を創建した聖武(しょうむ)天皇(701〜756)の遺愛品で、妻の光明(こうみょう)皇后(701〜760)が大仏に献納した後に持ち出され、その後、存在が確認されていなかった。 金銀荘太刀は1908年、大仏の足元から掘り出された。保存修理に伴うX線調査で、刀身の根元近くに「陽劔(ようけん)」「陰劔(いんけん)」の象眼(ぞうがん)が施されていたことがわかり、陽寶劔、陰寶劔と特定された。
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