日本の「特殊な人権」 日本人に人権意識は根付いているようで、どうも違うと感じることがある。一方では社会の中に平等意識が強く、自由と平等が確保されているように見える。教育機関や社会でも性別やハンディキャップに関係なく均等な機会の確保が求められている。 他方で、民意を無視した政治があり、力によって一方的に現状が変更されても、国民は欧米のような抵抗運動を起こさない。2015年政府は集団的自衛権の行使をめぐる平和安全法制を、憲法審査会に招致した憲法学者が全員「違憲」としたにもかかわらず、国民の反対を押し切って成立させた。 国民は政府が強引なやり方を行使しても、一旦決められたら反対運動を起こさない。人権は守られているようでありながら、欧米とは意識が違っている。どこが違うのか、なぜ違うのかはっきりしない。これが日本の不思議だ。 実は、「人権」は万国共通の理念と思われがちだが、日本には欧米と異なる人権理
患者の名は「近代日本」――西郷隆盛を通して診る日本の病理 『未完の西郷隆盛』著者、先崎彰容氏インタビュー 情報 #新刊インタビュー#西郷隆盛 福澤諭吉、中江兆民、頭山満、橋川文三、江藤淳。多くの思想家や評論家が西郷隆盛に魅了され、言葉を紡いできた。その言葉を集めたとき、「近代日本」とその病理が立ち現れる。いまなぜ西郷なのか? 西郷をめぐる言葉から、いったい何が見えてくるのか? 『未完の西郷隆盛』の著者、先崎彰容氏にお話を伺った。(聞き手・構成 / 芹沢一也) ――『未完の西郷隆盛』は福沢諭吉から司馬遼太郎まで、西郷を問い続けた思想家たちを取り上げています。どのような問題意識から、本書に取り組まれたのでしょうか? 私たちは、「格差社会」「原発再稼働問題」「少子高齢化問題」など、さまざまな具体的問題に取り囲まれています。一つひとつの問題に対し、鋭い嗅覚をもって提言していくことはとても大事なこと
モロッコの「カリフ」 シリア、イラク地域で勢力を急拡大しているイスラーム国(IS)の指導者アブー・バクル・アル=バグダディがカリフを自称しているが、実は現在モロッコ王国国王もカリフを称している。 モロッコ王国憲法 第 19 条 国王は、アミール・アル=ムーミニーンであり、国民の最高の代表者であり、国民の統合の象徴であり、国家の持続と永続を保障する者である。国王は、イスラームの保護者であり、憲法の尊重のための監視人である。また国王は、公民、社会的諸団体および地域社会の権利と自由の守護者である。 国王は、国家の独立と王国の真正なる領土の保全とを保障する者である。 「アミール・アル=ムーミニーン」がすなわちカリフである。これは1996年憲法で、現在は「アラブの春」の影響で発生した民主化運動によって2011年に改正された新憲法となっているが、『国王の人格は神聖であり、その聖性は侵されない。
ちょっとメモ。 『人が王となるのは、その起源は共同体首長に発するが、王家となって以後は、王たる者の血筋を引くことと即位儀礼の存在が条件となる。もちろん、政治的・軍事的実力やカリスマ性などによって新しい王朝を開く場合は、その限りではない。 比較的平和裡に王朝交代を実現する場合は、王の血統はいわば必要条件であり、たとえばフランスでは、カペー朝、ヴァロア朝、ブルボン朝は替わるが王はすべてカペー家の血筋の者によってたてられ、カロリング朝の王位を簒奪したカペー朝のパリ伯ユーグ・カペーにしても、権威あるカロリング朝のシャルル・マーニュの末裔を自称した。日本の場合でも、天皇家において血統が絶対条件であったことは周知のことで、鎌倉・室町幕府=王朝においても将軍=王になるのは源氏=天皇家の末裔であった。秀吉の場合は、その欠点を補うために、日輪神話や落胤説などが唱えられたし、家康の場合は吉良家から系図を取得
ちょっと引用中心のメモ。 『明治の指導者たちは、人々を単なる支配の対象(object)ではなく、知識をもった自己規律的・自律的な主体(subject)として、つまり、フーコーのいう二重の意味での主体――「支配と依存」に服従させられた臣民(subject)であると同時に、「良識と自意識」によって自身のアイデンティティをもった存在としての主体(subject)――へとつくりかえてゆこうとしていたといえるのである。 この支配に関する新しい考え方こそが、高度に規律化された国民共同体と、統合的・全体包括的な国民文化へと一般民衆をとりこんでゆくことをねらった様々な政策を生み出したのであった。国家当局者の手によって正しい信仰のありかたが教示されるいっぽうで、地方の神社を破壊・統制したり、シャーマンや祈祷師やいわゆる淫祠などを迷信のたぐいとして規制し、民族宗教を攻撃するといった、啓蒙という名の一種の文化
大日本帝国憲法を巡る議論は新設の枢密院で明治二十一年四月から翌二十二年一月まで集中審議された。枢密院会議議事録第一巻(P217-219)から、伊藤博文と森有礼の論戦を引用してみる。憲法史で有名な伊藤-森論争である。 憲法草案第二章「臣民権利義務」に森が異を唱える。権利義務ではなく「臣民の分際」と改めるべきではないか?と。分際とは「レスポンシビリテー」即ち責任であるという。対する伊藤博文の反論。 『十四番(森)ノ説ハ、憲法学及国法学ニ退去ヲ命シタルノ説ト云フヘシ。抑憲法を創設スルノ精神ハ、第一君権ヲ制限シ、第二臣民ノ権利ヲ保護スルニアリ。故ニ若シ憲法ニ於テ臣民の権利ヲ列記セス、只責任ノミヲ記載セハ、憲法ヲ設クルノ必要ナシ。又如何ナル国ト雖モ臣民ノ権利ヲ保護セス又君主権ヲ制限セサルトキニハ、臣民ニハ無限ノ責任アリ、君主ニハ無限ノ権力アリ、是レ之ヲ称シテ君主専制国ト云フ。故ニ君主権ヲ制限シ、又臣
…孔子は、魯の都・曲阜でにわかに礼学の師匠を名乗って門人を集め、自分は夏、殷、周三代の王朝儀礼について完璧な知識を持っていると豪語したのである。 孔子の礼学は、彼がかき集めた一知半解の断片的知識を、自分の想像力でつなぎ合わせただけの、空想の産物でしかなかった。このように孔子の思想活動の出発点そのものが、極めて詐欺的な性格の強いものであった。しかも孔子は、魯に周に代わる新王朝を樹立して自ら王者となり、わが手で復元した周初の礼制を地上に復活させようという誇大妄想に取り付かれる。 孔子はこの狂気を帯びた妄想を引っさげて諸国を流浪し、各国の君主にその採用を求めたが、どこの君主からも全く相手にされず、もとより実現はしなかった。 だが孔子の夢想が現実世界に阻まれて挫折したとの怨念は、孔子の後学たちの間に広く浸透し、以後儒教の中に深い陰翳を刻むことになる。 古代中国の文明観―儒家・墨家・道家の論争 (岩
気になる記事をスクラップできます。保存した記事は、マイページでスマホ、タブレットからでもご確認頂けます。※会員限定 無料会員登録 詳細 | ログイン (前回から読む) ロンドン進軍 このようにして叛徒たちは、ロンドンに向かった。そして城門できびしく警護されているロンドンの町は、六万から一〇万と言われる大群衆にとり囲まれることになった。ここで注目されるのは、ロンドンの市民たちがこの叛乱に同調する姿勢を示したことである。「ロンドンの職人たちは、叛乱農民と共同戦線を張り、叛乱軍が戦わなくても城内に侵入できるように、内側から市の諸門をこじあけようと計画した」[1]のだった。 しかし叛乱軍に同調したのは、職人たちだけではなかった。市の参事会員であったギルドの代表たちが、ひそかに叛乱軍と連絡を取り合っていたのである。そして魚商人のギルドが監督権をもっていたブリッジ区と、肉屋や鳥屋のギルドが監督権をもっ
朱子学は、幕政及びそれに倣う諸藩において、立身出世の途となり、林家の他の学派も成長した。特に木下順庵門下には、新井白石、室鳩巣、雨森芳洲、祇園南海ら多くの人材を輩出した。将軍侍講である奥儒者の地位は江戸後期までほぼ林家が独占したが、徳川吉宗の治世では例外的に、室鳩巣が1725年から1734年まで奥儒者を務め、荻生徂徠の門人である成島信遍も奥儒者となっている。その後、成島家の司直が幕府の正史『御実紀』(『徳川実紀』)編纂などの功績から文政年間(1818-1831年)に奥儒者に任じられたのを皮切りに、同家系から養子成島筑山と養孫成島柳北も奥儒者となった。 幕府や諸藩においては官学として朱子学が中心であったが、日本では、中国本土や朝鮮と異なり科挙が採用されていなかったため、中国本土や朝鮮では順次衰退していった陽明学が命脈を保つこととなった。代表的学派として、中江藤樹が一家を構え、その弟子である熊
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く