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批評と写真に関するlaislanopiraのブックマーク (19)

  • なぜメトロポリタン美術館に第二次大戦中の「日本のプロパガンダ写真」が大きく掲げられたのか | 米紙が辛口批評「性別を理由に無闇に称賛していないか」

    抑圧された生きづらい社会を生き抜いて活躍した女性たちの姿を見ると、勇気づけられるものだ。だが女性という「性別」だけにとらわれ、残した功績の裏側にある歴史を見落とすことは末転倒なのではないか──男性優位の写真の分野で活躍した日人女性、笹恒子の作品が展示されたことを受け、歴史家が米紙「ワシントン・ポスト」に寄稿している。 2021年7月2日~10月3日にかけて、「カメラの背面に立つ新しい女性(The New Woman Behind the Camera)」と銘打った特別展がニューヨークのメトロポリタン美術館(MET)で開催された(現在はワシントンのナショナル・ギャラリーに巡回中。会期は2022年1月30日まで)。これは、20世紀前半に活躍した重要な女性写真家の作品を紹介した写真展になる。 ニューオーリンズの黒人コミュニティで写真スタジオを開いて成功した女性写真家たちをはじめ、世界各地で

    なぜメトロポリタン美術館に第二次大戦中の「日本のプロパガンダ写真」が大きく掲げられたのか | 米紙が辛口批評「性別を理由に無闇に称賛していないか」
  • 写真のニュー・セオリー:批判的吟味と応答(その1) - #EBF6F7

    C. Abell, P. Atencia-Linares, D. Lopes, D. Costello. 2018. “The New Theory of Photography: Critical Examination and Responses.” Aisthesis 11(2): 207-234. 近年、写真の哲学では大変動が起きているらしい。 写真の性に関する従来の見解を覆す「ニュー・セオリー(New Theory)」が一部の論者から提案され、注目を集めているのだ。 この大変動を象徴するのはニュー・セオリーを導入する二冊の、ドミニク・ロペス『Four Arts of Photography』とディルムッド・コステロ『On Photography』である。 Four Arts of Photography: An Essay in Philosophy (New Directi

    写真のニュー・セオリー:批判的吟味と応答(その1) - #EBF6F7
  • 日本の新しいアート写真カテゴリー クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(10) なんで日本で写真が売れないのか Part-2

    前回のパート1では、なんで日で写真が売れないのかその理由を分析してみた。 繰り返すと、欧米のファインアートの世界では、写真展開催や写真集製作は、自分が社会に対するメッセージを伝える手段である。しかし、日では制作側、見る側ともに写真を撮影して発表する行為自体が目的で、それがアート表現だと考えている。両者の価値基準が全く異なるということだ。 海外をベースに活動する日人写真家が評価されたケースはあるが、世界で認められる写真家が日から出てこないのは当たり前だといえる。評価されるべきメッセージ自体が発信されていないからだ。日では、プロの写真家、先生の写真家、アマチュア写真家は、表現者としてみんな同じフィールドの中にいる。様々な価値基準を持つ集団が存在しており、その勢力拡大を目指すとともに、狭い範囲内で切磋琢磨しているのだ。 このような現状認識の上での、日の新しい写真の価値基準の提案なのだ

  • 日本の新しいアート写真カテゴリー クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(9) なぜ日本で写真が売れないのか Part-1

    いまや写真界では日で写真は売れないというのが一般論になっている。私どものギャラリーの経験でも、特に日人写真家による自然や都市の風景がモチーフの写真が売れ難いのは明確な事実だ。 私がよく引き合いの出す例は、アート写真のオークション規模の違いだ。ちなみに欧米では2017年に現代アートを除くアート写真だけのオークションが45回程度開催され、総売り上げは約79億円になる。日にはアート写真だけのオークションはなく、SBIアートオークションのモダン&コンテンポラリー・アート・オークションのごく一部に写真が出品されるにとどまる。ちなみにギャラリーの店頭市場の規模は、オークションと同等から2倍程度といわれている。 その理由は、日と欧米の住宅事情に帰せられる場合が多いが、状況を分析すると売れないのは当たり前なのがわかってくる。私はその状況を踏まえて、日では全く新しい価値基準のアート写真カテゴリーが

  • タグ : 私たちの気付かない漫画のこと 一覧ページ|Zing!

    情報コンテンツサービス終了のお知らせ 2020年9月30日(水)をもちまして、以下コンテンツを終了いたしました。 【終了するコンテンツ】 Zing! 長らくご愛顧いただきました皆さまに感謝を申し上げますとともに、ご理解を賜りますようお願い申し上げます。 トップページ - サイトマップ - お問い合わせ

  • ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

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  • もうひとつの物語 ― 岡崎乾二郎「抽象の力」の余白に | REALKYOTO

    清水 穣 豊田市美術館のコレクションには、わずか一点しかアメリカの抽象表現主義が含まれていない。展は、そのコレクションの空白を、戦後アメリカで形成された美術史に染まっていない場所と見なし、そのディスクールのなかで単純化され忘却される以前、20世紀初頭のモダニズム発生期における「抽象の力」を再発見しつつ、その系譜を大西洋回り(欧→米)ではなく、ユーラシア→日経由太平洋という東回りでグローバルに辿ることで、戦前の日の豊かなモダニズム受容とその展開を詳らかにする展覧会である。 この展覧会の魅力が、非西洋圏で開花したオルタナティヴなモダニズムの再認識にあるだけなら、近年のテート・モダンの常設展示のように、欧米に偏らないグローバルな展示方式は常態となりつつある。また、そうした歴史再評価を超えて企画者の狙いが、モダニズムの読み変えにあるとしても、それが、「クレメント・グリーンバーグ」に代表される

  • 芸術かポルノか。メイプルソープ写真展が示す写真芸術のあり方。

    20世紀を代表する写真家であり、社会的、政治的にも多大な影響を与えたロバート・メイプルソープ。彼の作品を愛する国際的建築家、ピーター・マリーノのプライベートコレクションから約90点が出展された写真展『MEMENTO MORI』を訪れたアートライター住吉智恵氏。芸術かポルノか、その微妙なラインに対するマリーノとシャネル(CHANEL)の確固たる姿勢に、彼女が感じたものは?

    芸術かポルノか。メイプルソープ写真展が示す写真芸術のあり方。
    laislanopira
    laislanopira 2017/03/23
    メイプル・ソープというふうに名字をぶった切ると変な気分
  • Thomas Ruff

    ロラン・バルトの言うように、写真とは「それがあった( Ça-a-été)」ということの光化学的痕跡であるとすれば、現在のディジタル画像は最初から0と1の集積でしかなく、コンピュータによっていかようにも変換することができる。そこには、たんなるアナログ写真からディジタル写真への変化というだけではない、ほとんど写真の死ともいうべき断層が横たわっているのだ。 ベッヒャー夫の下で写真を学び、いかにも写真らしい写真から出発したルフも、1980年代末にはすでにコンピュータによる画像処理を導入し、やがては処理する画像も自分の撮った写真にこだわらなくなる。天文台やアメリカ航空宇宙局(NASA)のデータ、あるいは新聞写真、さらにはインターネットから拾ったポルノグラフィックな映像までが、コンピュータ上で自在に処理され、写真ではない何ものかとして出力される。 注目すべきは、そこでルフがいかにも写真らしい見かけに

    Thomas Ruff
  • 絵における「動き」とは一体何なのか?という話 - pal-9999の日記

    さて、はっきりいって、廃棄物放置場所と化しており、全く更新してなかったこの日記でありますが、 いしかわじゅん氏「安彦良和は動きがかけない」⇒安彦氏「アニメーターの僕に、動きが描けないだって?」(「王道の狗」白泉社版4巻から) こっちのエントリを読んで思う事があったので更新しときます。内容は「映像コンテンツにおける動き」です。 まあ、上記のエントリの話は、いしかわじゅんが「安彦良和は動きがかけない」って批判してるわけなんですけど、これねえ、 こっちでアニメーターの西澤晋が全く逆のこと言ってて面白いんですがね(ちなみにこのはとても良いで絵を勉強してる人なら一読の価値があります)。どんな話かってーと、このの野球のバッティングの4サイクルプロセスって話の所なんですが、引用しますが、 アニメの場合はすべての行程を描くことができますが、漫画はその中の一枚ないし二枚で動きを表現します。しかも、すべ

    絵における「動き」とは一体何なのか?という話 - pal-9999の日記
  • これからの写真:キュレーターズノート|美術館・アート情報 artscape

    「これからの写真」は、「写真」というメディアを用いた表現を通して、その定義づけの困難さの中から、現在そしてこれからの「写真」の意義や可能性を改めて見定めようとするものである。新井卓、加納俊輔、川内倫子、木村友紀、鈴木崇、鷹野隆大、田代一倫、田村友一郎、畠山直哉ら、9名の写真家・作家が参加していた。 会場に足を踏み入れてまず驚いたのは、畠山直哉と鈴木崇の並びである。畠山の写真は、最近目にする機会の多かった、東日大震災で甚大な被害を受けた陸前高田を写したものではなく、《Blast》シリーズが選ばれていた。石灰石の採掘現場で、発破により岩石が飛び散るまさにその瞬間を捉えた写真は、震災の前後に関わらず、自然の中、もしくは自然に対峙する人間というテーマをダイナミックに伝える、まさに傑作である。続く鈴木の展示室では、黒を背景に台所用スポンジを組み合わせた各8.5×11センチの小さな写真が、壁三面を覆

  • 「アンドレアス・グルスキー展」 | Living Well Is the Best Revenge

    国立新美術館で「アンドレアス・グルスキー」展を見る。グルスキーの作品は日でも既にいくつかの展覧会で紹介されており、私も初見ではない。しかしいずれもグループ展の中での紹介であったのに対して今回は日で初の大規模な個展であり、巨大な作品の数々に圧倒された。私は写真の専門家ではないが、展示の中でもしばしば触れられていたとおり、グルスキーの作品は写真という文脈よりも、現代絵画あるいは現代美術との関係において検討した方が理解しやすい。彼の作品はデュッセルドルフ芸術アカデミーでベルント&ヒラ・ベッヒャーに学んだことに多くを負っており、私は一種のコンセプチュアル・アートとしてとらえることさえ可能ではないかと考える。 ひとまず上に掲げたイメージ、カタログの表紙とされた2007年の《カミオカンデ》から始めてみよう。ポスター等にも使用され、おそらく今後グルスキーの代表作の一つとみなされるであろうなんとも壮麗

    「アンドレアス・グルスキー展」 | Living Well Is the Best Revenge
  • 〈統御された崇高〉の美学──アンドレアス・グルスキー展レビュー:フォーカス|美術館・アート情報 artscape

    竹峰義和(東京大学大学院総合文化研究科准教授/近現代ドイツ思想史、映像文化論) 2013年07月15日号 幾何学的なグリッドによって区切られた空間。文様をなすように蝟集する人々や事物。オールオーバーな平面に点在する色彩やフォルム。ときに3メートル以上におよぶ巨大写真の数々が屹立するさまは、ほとんど崇高と呼びたくなるような圧倒的な存在感をもって鑑賞者に迫ってくる。 新国立美術館で開催されている「アンドレアス・グルスキー展」は、まずは各作品の大きさによってわれわれを圧倒する。ときに抽象表現主義絵画を、ときにミニマルアートを想起させるようなパターンがフラットな大画面で展開される、スペクタクルかつ謎めいた光景に一瞬息を飲んだあと、さらに目を凝らして作品を眺めるならば、無数の人々や事物、家畜、建築物、家具、商品、土、さらには島、海洋、河川など、すべてが現実の対象によって織りなされていることが分かる。

  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●国立新美術館へ行った。MOTへフランシス・アリスを観に行こうと思っていたのだけど、調べたら「貴婦人と一角獣」展が15日までで終わってしまうと知って、とりあえずこれは観ておこうと思って六木の方にした。グルスキーも、まあついでにという感じで。 ●アンドレアス・グルスキー展。観る前から分かっていたけど、嫌いなんだよなこういうの、と改めて感じた。この大仰な退屈さは何なのだろうか、と。たとえば、松江泰治を観るとあんなに興奮するのに、何故グルスキーではまったく興奮しないのだろうか、とか。写真で、細部が異様な解像度で詳細に写っていると、どうしたって細部に目が引きつけられてしまう。しかし、グルスキーの写真は、あんなにも細部が過剰なのに、そこに入ってゆく気がまったく起きない。この絶妙に「興奮しない感じ」こそがキモであり「現代美術」っぽさ(いかにもアートっぽい距離感)で、ある時期以降から現れた新しさである

    ■ - 偽日記@はてなブログ
  • 写真とは何か?を問う 『ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー』

    2011年1月の金沢21世紀美術館からはじまり、同年4月の東京オペラシティ アートギャラリーと続いた、日を代表する写真家の一人であるホンマタカシ氏の初の美術館での個展となる『ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー』が、最終の地、丸亀にある丸亀市猪熊弦一郎現代美術館ではじまった(~2012年9月23日)。 エキサイトイズムでは、先の二会場でのニュー・ドキュメンタリー展に密着取材し、そこで発表された各作品について詳細に報じてきた。今回の丸亀展のレポートでは、これまでの二つのニュー・ドキュメンタリー展と比べ、展示手法の面でもタイトル通りにドキュメンタリー色が増すとともに、展示のコンセプトがよりシンプルに明快になった展の「ドキュメンタリー的な」側面に着目し、レポートをお届けしたい。 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館 '80年代後半より広告写真の分野の仕事からスタートした写真家ホンマタカシ氏の活動は、

    写真とは何か?を問う 『ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー』
  • 蜷川実花こそ“りりこ”である『ヘルタースケルター』 - ゾンビ、カンフー、ロックンロール

    『ヘルタースケルター』観賞。 見るつもりなんか毛の先ほども無かったのだが、監督である蜷川実花の写真を見て力の抜ける半笑いとともに映画への興味がわいた。今の今まで意識して蜷川実花の写真を見た事が無かったのだが、街の巨大看板などで「品格とバランスを欠いてギャル化したピエール&ジルみたいだなあ…」と思っていた写真が蜷川の手によるものだと知ったからだ。 ピエール&ジル*1は80年代に活躍した写真家である。「ミカド」や「サンディ&サンセッツ」のジャケット写真などが有名で、インド宗教画などを模倣した色彩感覚と、50年代のコマーシャル写真に顕著な「斜め上をむいてニッコリ」というようなポージングなど、徹底した“キャンプさ*2”が特徴である。彼らが活躍した当時から「写真家」としてカテゴライズすべきかどうか疑問視する声は多かった。撮った写真はあくまで素材で、極彩色の背景やキラキラとしたきらめきは後から書き加え

    蜷川実花こそ“りりこ”である『ヘルタースケルター』 - ゾンビ、カンフー、ロックンロール
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    引越し遍歴パートⅡ 2018年に「上京して10年で引越しを6回した」というブログを書いた。 月日は流れ、あれから6年…さらに2回の引越しをした。ホテル暮らしも含めると3回かもしれない。 前回の記事では主に神奈川〜千葉〜東京の引越し事情を書いた。関東の浅瀬でちゃぷちゃぷ遊んでいたに過…

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  • フォトコラージュでナチス批判をしていた合成写真の父「ジョン・ハートフィールド」

    ドイツ、ベルリンの写真家、ジョン・ハートフィールド(John Heartfield, 1891年6月19日 - 1968年4月26日)は、写真を部分的な要素として引用し平面に切り貼りしたり、二重露光するなどの方法により合成し制作する、いわゆる合成写真(フォトコラージュ)を大成させた人物だそうです。 彼の作ったフォトモンタージュのテーマは、ほとんどがナチス批判だったそうで、ナショナリズムに抗議する為に、間接的なプロパガンダとしてこの技術を磨いていったのかもしれません。 Kuriositas: The Extraordinary Anti-Nazi Photomontages of John Heartfield Blood and Iron Kaiser Adolf Hitler Prepares to Kill the French Cockerel The Butter is Gone

    フォトコラージュでナチス批判をしていた合成写真の父「ジョン・ハートフィールド」
  • 『コンテンポラリーアートとしての写真のゆくえ』作家リスト - 反省芸術・糸崎公朗blog3

    関連リンク ブログ1・路上ネイチャー協会 ブログ4・反-反写真 ホームページ・itozaki(仮設Fc2版).com/ ブログ2(休止)・2コマ写真 電子メール・itozaki.kimioアッとgmail.com 『現代写真論 コンテンポラリーアートとしての写真のゆくえ』というに紹介された写真家のリストに、それぞれリンクを張って掲載します。 リンク先は作家のHP、もしくはgoogleイメージ検索の結果です。 自分の勉強のために作成したものですが、みなさんにもご利用いただければと思います。 もっとも、電子書籍が一般化すれば、こんな苦労は入らなくなるのかも知れませんが・・・ __ 1章 これがアートであるならば 1.sarah jones 2.alec soth 3.william eggleston 4.5.stephen shore 6.bernd and hilla becher 7.

    『コンテンポラリーアートとしての写真のゆくえ』作家リスト - 反省芸術・糸崎公朗blog3
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